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はじめまして。
はじめて投稿します。クリスチャンではないのですが、番町教会には何度か礼拝に行ったことがあります。なるべく続けようと思うのですが・・・所用が入ってしまうとなかなか行けません。今度は平日の集会も行ける日は行ってみようか、とも思っているところです。私はある大学の看護学科に所属しているのですが、看護を勉強するようになってから、実習も含めて、いろいろなことを体験し、いろいろ考えるようになりました。いつも自分を見守っている存在、神様を求めて祈りたいと思うことがでてきました。受洗はしていないけれど、私もいっしょに祈りたいと思います。
私の大学は四年になると自分のやりたいテーマに沿って実習をすることができるカリキュラムになっていて、私は重症の脳性麻痺や難病を持つ就学前の子どもの在宅療養について実習をしていました。具体的にはつまり、このような子どものお宅の訪問看護に看護師といっしょに訪問するのです。いろいろな子どもがいます。でも、子どもたちも楽しいときは笑ったり、笑える力のない子でもなんらかのその子の持つ能力を全て使ってでも、自分の気持ちを表現しようとします。この子たちは何も悪いことをしていないのに、なぜ難病になったり、障害を持ってしまったのだろう、といつも思います。答えは見つかりません。運命、としかいいようがないのかもしれません。でも、この子たちの笑顔を見ると、この子も神から祝福されて生まれてきたのだとごく自然に思えてくるのです。むしろ、祝福して生まれてきたのだと思わずにはいられませんでした。マザーテレサの本だったか、その人が重病になるのは神から信頼されているからだ、と書いてありました。この子どもたちもわたしたちに何かを伝える使命を持って生まれてきたのだと思ったのです。医者にこの子は口からものは食べられない、と診断された子どもでも離乳食に挑戦しています。子どもの発達は人間が限界を与えることなどできないことです。子どものもつ無限の可能性は、健康、能力、姿形を超えて、すべての子どもが持っているものだと実感した実習でした。
こんにちは☆ 数週間前だったか、主日礼拝の説教で横野先生が、誰かが障害や病気になるのは自分のかわりにその人が背負ってくださっている、「私ではなくてなぜ、あなたが?」というお話をしてくださいました。あれから考えていたのでしたが、私のかわりに背負ってくれている、と思うと、私の中でいちばんしっくりとくるような気がしたのです。なぜ、しっくりきたのかはうまく言えないのですけど・・・とにかくそう思ったのです。
運命、っていうと逃れようのない感じがして好きではないし、学校の先生とも話したら先生はひとつのその人の「個性」ととらえてもいいのではないか、とも言われました。
お礼が大変遅くなってしまいましたが、島牧師のテープ、ほんとにありがとうございました。自分の実習領域とかなり近かったため、その状況が少しではありますが、頭に浮かびました。途中から、涙で顔がくしゃくしゃでした。。。
今日のイザヤ書のお話、とても心に残りました。『幻』であっても・・・というこ
とばに涙が出るほど感動してしまいました。というのは、幻、理想論、実現可能かわからないもの、これらの実現を求めることの意味が私はわからなかったのです。所詮理想でしかない・・・といつも思っていました。
いろんなことについて。神さまの存在についても実はなんだかよくわかりませんでした。(今だって模索中なのです・・・)目に見えないものは信じない、みたいなところがあって。理屈では、目に見えないもの、霊的なもの、内面的なもの、そういったものが大切であることはよくわかっているのですが、実感としてよくわからないような。すいません、こんなこと書いてしまって。
でも、教会に行くようになって、お話し聴いたり聖書読んだりしていると、いろいろ考えるきっかけとなっています。たとえ幻であっても祈る、そうですよね。これ、大事ですよね。と心から素直に思える自分がいて、嬉しく思いました。
「わたし」のかわりに背負ってくれている、わたしでなくて、なぜ、あなたが?といえるのは、障害・病気がないから言えるのであって、もし逆の立場で、私が障害をもつ人間だったら、持っていない人に対して、あなたでなくて、なぜ私が?と問い掛けたくなるだろう、と思います。「わたし」のかわりに背負ってくれている、それは、とてもありがたいことだと思います。
でも、じゃあ、あなた代わって下さい、と言われたら、私は「はい」とは言えません。私の心の奥底でには、「わたしでなくてよかった・・・」という気持ちがあることは否定できないのです。
看護では、よく患者さんの気持ちに寄り添って、などと教えられますが、本当の意味でよりそうことができるのか、私はまだ疑問です。当事者しかわからないことのほうが多いと思うのです。寄りそうってナンだろう、とそこから考えないとわからないのです。
寄り添いたい、という気持ちはもちろんあるのですが、ではどうやって?と考えると、困ってしまいます。
さきほど書きました、まぼろしであっても祈る、ということ。
どんなにどん底でもきぼうの光があること、平和が訪れること、理想が実現すること、などなど、これが私が書きました「まぼろし」の意味なのです.すいません。私はどうしてか、どん底のときは『どん底だ』としか思えず、希望ゼロだと思ってしまいます。どんなにどん底でも希望の光があると信じること、それが、どん底の状態にいても信じることができたら、こんなに心強いことはないと思いました。(今はどん底ではないんです。)いつも長くて、かつ散漫とした文章ですみません。。。
こんにちは
キャンドルサービスに参加するのは、今年で4回目でした。妹が点火係(?)をやらせていただく、というので、ついて行ったのが最初でした。メッセージで、ノーベル賞受賞した方のお話。「一体どこに神がおられるのか」「今ここに、おられる。」という問答。とても心に残りました。就職先が小児病院に決まりました。これからは二月の国家試験へ向けて、勉強しなくては、です。
ヴェーユで、心に残ったこと。「聖ペテロの否認。キリストにむかって『わたしはどこまでもあなたに忠実でありたいと思っています』というのは、すでにキリストを否認したことになる。なぜなら、忠実さを守れる根因が自分の中にあると思いこみ、恩寵にそれを求めなかったからである。」(「重力と恩寵」P.47)過激な一節だと思いました。神を信じることは、自分の意志とか感覚とかそういう『自分の・・・』ではなくて、恩寵によるのか・・・と思いました。そうなら、とても心強いことだと思いました。
教会報「つた」の岸下すみれさんの記事の前半のほう。私の気持ち代弁でした。私も宗教って怖いと思っていました。周りにそういう人がいたりしたもので。十二月七日の田中先生のお話。『神の招き』。神さまは皆に呼びかけている、という話。よかったです。私も呼びかけられている、神が呼びかけていることを知らない人にも呼びかけている・・・。神はいつもあなたと共にいる、という言葉を思い出していました。

私は、こだわりすぎ、考えすぎなのかもしれませんけれども、考えたことをこうして誰かに読んでいただけ、お返事を返していただけることをとてもとても嬉しく思っています。島先生のテープにも、『聞いてもらうことは癒し』とありましたが、ほんとうにそのとおりです。午後のテープを二本、聴きました。今度はティッシュとメモ帳をもって、聴きました。障害児に「具合はいかが?」と聴いて、返事を一分でも二分でも待つ。これは私が今年実習に行ったとき、私がつかせていただいた看護師さんもやっていました。声なき声を聴く、には、待つことが大切だと実感したものです。
教会には家族で、ご夫婦で、と、呼吸をするのと同じ位あたりまえのように教会に来ている人たちがいらっしゃいます。このまえも10歳くらいの男の子が受洗していて、すごいなあなんて思ったものでした。いろいろな宗教の人に出会い、宗教から遠ざかり、宗教嫌いになった、という自分が根無しのように思えました。小さい頃から信頼していた人が新興宗教の信者だったり、大学ではさまざまな宗教の人と出会ったりして、「宗教嫌い」だった、もう、近づくのも嫌だった自分が、今、信仰を持ちたい、と思い、教会へいけること自体が私にとっては恵みです。
もうすぐ、イースター。私が、教会へ通い始めて一年です。番町教会は小学校のときから知ってましたから、一年経ったからといって、どうってことはないのですが。市ヶ谷は私がもっとも長く住んでいたところですので、行くと落ち着きます。日曜日は静かですしね。懐かしいです。
最近、マタイの福音書を通して読んでみたら、十字架につけられてから、復活までの場面で、感動している自分がいてびっくりしました。去年のイースターの横野先生のお話で、「教会の行事で、クリスマスがもっとも大きな行事に見えるけれども、実は、イースターはそれ以上に大切である」というようなことをおっしゃられていました。そのときは「そーなんだ・・・」と思っただけだったのですが、聖書を読んでみて、その意味が少しわかったような気がします。
信仰の強さ(?)深さ(?)(なんと表現すればいいのか・・・)それは、以前にも『ペテロの否認。』で横野先生とお話したとおり、自分の意思云々よりも、神の恩寵によって得るものでもある、と思うのですが、それでも私は自分の意思の強さ、信念を貫く根性みたいなものが要るんじゃないか、と思うときもあるのです。
遠藤周作の『沈黙』で、神父が拷問にあう場面があります。「強い」信仰をもつ神父は神を信じて拷問にも耐えるわけなのですけれども、私は、自分が神父の立場だったら、とても耐えることができないと思い、自分の弱さを思い知り、それ以上『沈黙』を読み進めることができません・・・
つねに、何にも屈服しないほどに神を信じて、「強い」信仰を持つ人間でありたいと思います。でも、弱いなあ、と自分のことを思います。
神を信じる、簡単なことのようで、難しい。「信じる」とは一体どういうことなのか、、、思い悩む今日この頃・・・
(「みんなの談話室」から、K・Hさんが書いてくださったことの
抜粋を、ご本人の了解を得て転載させていただきました。)
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