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人は死が近づくと、未来について語らなくなると言います。もし未来について語るとすれば、自分の死後家族がどうなるだろうという不安など、マイナスのことを考えてしまいます。当たり前といえば当たり前のことで、次に何をしようという目標が失われていきます。パウロはこういった状況のことを、「死が支配している」のだと言います。死がわたしたちの主人、わたしたちの支配者になっているのです。死がわたしたちの主人であったり、支配者であるならば、もはやわたしたちには何もすることがなくなってしまうことでしょう。黙って終わりを待つしかありません。
しかし、キリスト教はけっして死の宗教ではありません。そうではなく、生の宗教というべきだと思います。死がわたしたちの支配者ではなく、主イエス・キリストがわたしたちの主であるという信仰。「わたしは復活であり命である」と言ってくださるイエスが、わたしたちの主なのです。
主イエスはまた、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。死んでも生きるとは、言葉だけを取り上げれば、矛盾した言い方なのでしょう。死なないというのではなく、死んでもなおそのかなたに命を望み見ているのです。わたしたちはこの信仰に立っています。ですから、わたしたちは、たとえ死の陰の谷を歩むときも、災いを恐れず、明日を望み見るのです。
主イエスが十字架につけられ、墓に葬られたのは金曜日の夕方近くでした。安息日はすべての労働が禁じられていただけでなく、遠くまで出歩くことも出来ませんでしたから、マグダラのマリアをはじめとする人々は、じっと家のなかで時を過ごすしかありませんでした。そしてようやく安息日が終わり、週の初めの日の明け方、つまり日曜日の朝早くに、マリアは墓に向かいます。香料などを携えていたようですが、なによりも、主イエスのそばにいたいという突き動かされる気持ちによって出かけたのだと思います。
ところが、墓に出かけると、そこに主はおられません。福音書によってそのあたりの報告が少しずつ違うのですけれど、マタイによる福音書によれば、大きな地震が起こり、主の天使が墓をふさいでいた大きな石を転がし、その上に座ったということです。そして天使はマリアに言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げたのです。
主イエスの生涯がどんなに素晴らしいものであっても、その教えがどんなに素晴らしく、その御業がどんなに素晴らしくても、十字架の死によって終わっていたなら、まさしく、それで終わりだったでしょう。昔々、こんなに立派な人がおられたのですよと、長く言い伝えられることはあったかも知れませんが、それ以上のことではありません。イエスの遺志を継いで、イエスに従っていこうとする人がいたとしても、それは小さな運動にとどまったことでしょう。しかし、主は甦られました。このことによって、ペトロをはじめとする弟子たちは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝え始めたのです。一人一人は、弱い存在で、一時はイエスのことを知らないとまで言ったペトロが、あらゆる艱難、迫害にもかかわらず、福音を宣べ伝え、主に従う道を歩み続けたのです。
さて、マリアたちに向かって天使は「あの方は死者の中から復活された」と告げました。そのとき合わせて天使は次のように言っています。「そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」わたしはこの言葉にとても大事な意味を感じます。ガリラヤ。それは主イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝えられた場所です。主はガリラヤの海辺で説教をし、また病める人を癒しました。そしてまたそこは、弟子たちを招き、「わたしについて来なさい」と言われた場所です。
つまり、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」とは、弟子たちをして、主イエスの招きに従った、その活動の出発点に連れ戻すことなのです。
福音書記者にとっての福音書とは、イエスというかたがこのようになさった、このように話されたと、過去の出来事を伝記小説として書いたものではありませんでした。そうではなく、主はこのように生きられた、そして主は復活されて、今もこのように生きておられる。今もこのようにわたしたちに働きかけ、わたしたちが主に従うようにと招いてくださっているというのです。それは今の生き生きとした出来事であったのです。
それゆえ、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」ということは、イエスに従って来た人々に、「さあこれからも主に従って生きていきなさい」という呼びかけでした。主はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。主イエスは、これからもあなたがたに先立って歩まれ、あなたがたを招き、導いてくださる。死を支配者とするのではなく、復活のイエスをわたしたちの主と仰いで、これからも生きていきなさいという呼びかけです。復活の主を仰いでゆく、ここに、主に従うわたしたちを生かす源があります。
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