救いの光 横野朝彦

                         

光は暗闇の中で輝いている、それは実に感動的なことです。わたしはわたしのこれまでの乏しい体験のなかですが、山の端に朝日の昇るさまに感動をしたり、暗い夜道に輝く満天の星を見て感動をしたり、あるいは、キャンプファイアーで火を囲み、なにか心の奥に染み入るものを感じたりしてきました。

光には、わたしたちの内面を照らす、心の光とでも言うべきものがあります。そのため、多くの宗教は、光を超越的存在として、時には礼拝の対象としてきました。天照大神もそうですし、阿弥陀あるいは大日如来もそうです。宗教の違いを越えて、このように光が信仰の対象とされていることは、偶然ではなく、そこに何か共通する真理があるのだろうと思います。

ヘレン・ケラーさんが、サリバン先生によって最初の教育を受けたことは有名な話ですが、サリバン先生がはじめて家にやってきたときのことを、ヘレン・ケラーさんは自伝のなかにこう書いておられます。「『光を、光をください』というのが、言葉で言えぬ私の魂の叫びであり、ちょうどそのときに愛の光が私を照らしたのでした。」 愛の光が私を照らしたと、彼女はこのときのことを語っています。ヘレン・ケラーさんの自伝には、彼女の友人たちのことが書かれています。手を握ったときに、太陽の輝きがいっぱいひそんでいると感じられる、そんな握手があると彼女は言います。

「私を変えた聖書の言葉」という本のなかに、渡辺敬子さんというかたが信仰の証を書いておられます。彼女は、目に障害を持っておられます。彼女は先天性の弱視でした。「見えない」と言うと、「馬鹿だから」と言われ、そんなために、以来、人前で「見えない」と言うことは禁句になってしまったというのです。そのために、彼女は自分が先天性の弱視であることを知ったのは中学3年生のときであったといいます。彼女はその後、自殺を決意し、そんなときに出会った聖書の言葉によって生かされ、変えられていったのでした。

ヨハネによる福音書1章に、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」と書かれています。その光とは、イエス・キリストのことです。主イエスと出会った人たちは、自分はイエス様と出会ったときに、愛の光が私を照らしましたと感じ、またある人にとっては、イエス様の手が差し伸べられたとき、太陽の輝きがいっぱいひそんでいると感じてきました。   

以上のように、主イエスこそまことの光であると、聖書は証言していますが、その場合、それはただ神々しい光というだけではないはずです。

わたしは、光ということについて、天照大神もそうだし、阿弥陀如来もそうだと言いました。ここに宗教の共通性があると思います。でもわたしは、イエスというかたがまことの光であるというときには、そのような共通性とともに、そこではさらに大切なものが言い表されていると思います。先程渡辺さんというかたの体験を紹介しました。「馬鹿だ」と言われ、見えないということを隠し、ついには命を絶つことさえ考えた彼女が、新しく生きるようになったのは、聖書の言葉をとおして主イエスと出会ったためでした。まことの光である主イエスとの出会いは、このように、これまで捨てられてきたものが生かされるという不思議があるのです。この世の捨てられたものに光が与えられる、それは他の宗教にもいくらかは見られることかも知れませんが、わたしはここにキリスト教の語る光の独自性があると思います。     

岩波書店から出されている「キリスト教辞典」で「光」の項目を引いてみました。そして興味深い言葉に出会いました。光について、詳しい説明がなされ、その最後に次のように書かれていたのです。それは、「イエスの光は排斥されていたものを生かす復活の光である」と述べられていたことです。わたしは重要なことをこのように簡潔にまとめた説明に感心しました。

わたしたちはさまざまなもの、たとえば、非理性的なものや、狂気、あるいは身体の障害、そういった多くのものをわたしたちは排斥してきました。社会のマイナスとみなし、排除し、疎外してきました。けれども、主イエスが光であるという場合、それは、そのようにこれまで排斥されてきたものを生かす光なのです。そしてそれは、まさに闇を打ち破る復活の光なのです。     

光の子としての歩みをしていきたいと心から願います。主イエスがわたしたちのもとに来てくださり、そのことによって、これまでは捨てられ、排斥され、価値がないと思われていたものに、愛の光が注がれていることをわたしたちは知りました。愛の光に照らされて、わたしたちも互いに愛し、平和を求めていきたいと願います。


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