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エゼキエル書2章7節―3章3節
私は今月17日から22日まで、タイを訪問しました。教会から奨学金を送っている学校を訪問し、またその子どもたちに会うのが目的でしたが、それに加えて今回の旅行で私はオプションというか、小旅行を体験をすることができました。それは21日に、戦場にかける橋で有名なクワイ河の鉄橋を訪ね、タイとビルマ間のいわゆる泰緬鉄道に乗ることが出来たことです。前に私は、ゴードンというイギリス人の書いた「死の谷をすぎて」という本を礼拝のなかで紹介したことがあります。私はクワイ河の鉄橋を訪ね、また同じ町にある捕虜たちの墓地を訪ね、「死の谷をすぎて」に書かれていたことを思い出していました。それは、死の家とも、死の収容所とも言われた捕虜収容所にあって、捕虜たちが自発的に聖書を共に読み始め、聖書の御言葉によって彼らが養われていった体験についてでした。私は旅行から帰ったあとで、「死の谷をすぎて」を改めて開いてみました。部分を拾い読みします。「聖書を読みすすめるうちに、話し合いを重ねるうちに・・私たちは感じた・・イエスはわれわれのうちの一人だったのだ。イエスはわれわれの問題と同様の問題を苦しみ、自分自身取り組んだのだから・・神は私たちの真っ只中におられる。私たちとともに死の苦痛を背負ってくださっておられる・・私たちは自分自身のことで不平を言うことをやめた。」そして彼らはイエスの復活の希望を自分たちの希望として生きることを始たのでした。生きる希望を奪われる戦場にあってさえ、聖書の御言葉は人を生かす。このことを改めて感じさせられました。
教会のなかでの言葉遣いというか、キリスト教の言葉遣いのなかに、「御言葉を糧とする」という言い方があります。神の言葉である聖書をいただくことによって、私たちは養われている。御言葉によって養われ、育てられ、導きを与えられるのです。これは大切なことです。私たちは日毎の糧として、さまざまな食料を口から摂取しているのですが、それでは食料を取っておればそれで命が養えているかとなると、そうではありません。生きる力というのは、たんに物理的なものだけではなく、もっと心の奥のほうから与えられるものだと思います。
私たちは食事の前の感謝の祈りのときに、「肉の糧をいただきます」といった言い方をすることがあります。こういう言い方をする場合には、肉の糧に相対するものとして、御言葉の糧が、霊の糧、心の糧として考えられているわけです。でも私は、このあたりの区別は本当には出来ないのではないかと、最近思わされています。御言葉の糧は霊、あるいは心だけの糧なのでしょうか。そうではなく、この肉体の生命力にも大きな影響を与えているのであり、それは霊の糧であると同時に、肉の糧でもあると思います。また肉の糧である食料も、肉体を支えるだけではなく、それによって心が支えられられるということもあるはずです。肉の糧も霊の糧も、密接につながっていると思うのです。そして、神の御言葉である聖書の言葉は、私たちを、霊的にも、肉的にも、もっと全体的に人を生かす力となるものだと思います。
主イエスも、荒れ野において、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言って、誘惑を退けられました。これはもともと申命記8章に書かれている言葉です。つまり、主イエスは誘惑を退けるにあたって、聖書にはこう書いてあるではないかと、それこそ聖書の御言葉に立脚して、発言をされたのです。神の言葉、御言葉によって私たちが生かされ、養われることは、聖書の随所に書かれているところです。例えば、詩編には御言葉の大切さが多く歌われていますが、なかでも119編は、私たちが御言葉によって生かされていることが繰り返し、格言のように言われています。「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。」「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり命を得させてください。」このほかにもたくさんの例をあげることができます。預言者エレミヤは、エレミヤ書15章で言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です。」あるいは新約聖書においても、ヤコブの手紙1章に「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と述べられています。聖書の御言葉はこのように、私たちの糧であり、私たちの養いとなるものなのです。
それでは、聖書の御言葉とは私たちにとってどのようなものなのでしょうか。御言葉を糧とすると言いましたが、御言葉は私たちにとっていつでもおいしいデザートのようなものなのでしょうか。柔らかくて食べやすいものでしょうか。残念ながらそうではないと思います。聖書の御言葉は、時に難しく、固い食べ物として私たちに差し出されます。先週の祈祷会で、ヨハネによる福音書5章を取り上げ、そこに「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない」とありました。父のお言葉とは、神の言葉、御言葉のことです。「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。」このように言われまして、何人ものかたが、これは自分自身に対して言われている言葉だ、自分は御言葉を自分のなかにとどめていないと受け止められました。それは聖書を読めば読むほどそう思わされることの多い、ごく自然な反応なのだと思います。ヘブル人への手紙5章で、この手紙の著者は読者たちに向かって、「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」と言っています。教会のなかで教師と呼ばれている人たちまでが、まだ固い食べ物が食べられないでいる。神の言葉の初歩として、乳を与えられねばならないと言うのです。パウロも同じことを言っています。パウロはコリントの教会の人々に向かって、「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」と言い切っています。これらのことはどちらも、現在の私たち自身に与えられた言葉として読んで間違いありません。
主イエスは、蒔かれた種が、あるものは30倍、60倍、100倍に実を結ぶけれども、ある種はそれ以前に枯れてしまうという譬話をされました。あの譬はご承知のように、御言葉という種のことでした。神様の御言葉が人々に蒔かれる。だけど、それを私たちはどれだけ育てているのか。ある者は道端に種が蒔かれたかのように、ある者は石だらけの所に蒔かれたかのように、またある者は茨の中に蒔かれたかのように、御言葉を枯らしてしまっているのではないかと、譬で語られています。これも残念ながら、私たちの現実そのものです。あの譬は主イエスご自身が解説しておられますが、このように言われています。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」艱難や迫害、あるいは世の思い煩いや富の誘惑といったものが、御言葉を枯らしてしまう。この話を聞く私たち誰もが、うなずくしかないと思わされていまいます。
さらに、この食べ物の味はどうでしょうか。ひとことで言って「良薬口に苦し」とあるように、苦い言葉もあるはずです。いやむしろ苦い言葉に満ちている。それが聖書だと思うのです。例えば、主イエスの山上の説教を読んでいて、ああそのとおりだ、自分はこれを実行していると思える人がどれだけいるでしょうか。誰もいないと言って良いのではないでしょうか。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われたとき、はいその通り実行しますと、いったい誰が言えるでしょうか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われて、その通りおこなっていますと、誰が言えるでしょうか。主イエスが語られたこれらの言葉は、とても厳しく、私たちはこれを御言葉として、心や体の糧としているなど、到底言うことができまません。
私自身、山上の説教で語られた主イエスの言葉は、ある意味で私に突きつけられた刃のような面がありました。私はこれらの言葉を聞きながら、えっそんなの無理ですよと、たじろぎ、それでいて、どこかここに真理があるような気がして、離れられない、言い換えれば、これらの言葉に捉えられてきたのかも知れません。主イエスの言葉、さらに聖書の言葉というのは、そういう面があると思います。厳しい競争社会に生きている私たちにとって、弱い者、小さな者と共に生きよと呼びかける聖書の御言葉は、時に現実離れさえ感じさせられます。けれども、ここに私たちが失った何か本当のものがある。そう思わされ、惹きつけられて、なんとか従っていこうとしているのが私たちの姿です。偶像礼拝を禁じる言葉を知りながら、安息日を聖とせよと命じられていることを知りながら、日々の生活のなかで、現実的に対応しなければいけないことの何と多いことでしょうか。かといって、現実的に処理してそれでかまわないというのではなく、言うならば、真実の歩みを踏み外さないように、御言葉に生きるように、実際にはさまざまな葛藤をもたなければなりません。
パウロは、フィリピの信徒への手紙のなかで、パウロ自身のことを述べて、「既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と言っています。私はこの言葉が好きでして、というのは、パウロでさえ、「何とかして」と言っている。私自身とパウロとの間に雲泥の差のあることを認めつつ申しますが、パウロが「何とかして」というときには、きっと彼自身の中にたくさんの葛藤があったのだと思うのです。福音に従って生きていきたい、主の御言葉に従いたいと願いつつ、現実の生活のなかで、それをそのまま実行できない弱さ、難しさを抱えていたがゆえに、パウロは、「何とかして」と言ったのだと思います。そして私もまた、主の御言葉を聞きながら、えっそんなの無理ですよと、たじろぎつつ、何とかして従っていきたいと願っているのです。
さて、今日は旧約聖書からエゼキエル書を取り上げました。エゼキエルという預言者は、紀元前592年に預言者としての召命を受けました。紀元前592年、これを遡る5年前、バビロニアの王ネブカドネザルが南王国ユダを侵略し、多くの人たちが捕えられてバビロニアに強制移動させられています。有名なバビロン捕囚です。この連れて行かれた人々のなかにエゼキエルもいたと思われます。そして、異国の都バビロンで、エゼキエルは神様から預言者として召し出される体験をしたのです。新共同訳聖書では、1章1節から、「エゼキエルの召命」という小見出しが付いており、それは3章15節まで続いています。つまり、今日読んでいただいた箇所は、エゼキエルの召命の話の一部分ということになります。今日は2章7節以下を読んでいただきましたが、その少し前、3節にこう書かれています。「わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」
このように、エゼキエルは預言者として立てられました。彼が神の言葉を告げるべき相手は、反逆の家と言われています。つまり、いくらエゼキエルが神の言葉を伝えても、彼らはそれを聞いてくれない、かえって反逆されるだけだということが、預言者として立てられたときから分かっているというのです。これは大変なことです。せめて幾人かは言うことを聞いてくれれば、預言者としての活動もやりがいがあるでしょうが、誰も聞いてくれないことが前提とされて預言者として立てられる。そんな辛いことはありません。
そして、こういう前提のもとで、今日の7節以下が書かれているのです。「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」ここでエゼキエルは神様から命じられます。それは口を開いて神様が与えられるものを食べなさいということでした。それは9節、10節にあるように、巻物でした。表にも裏にも文字が書かれている巻物で、しかもその言葉は、哀歌とうめきと、嘆きの言葉であったというのです。おいしいご馳走どころか、どう見てもおいしくない、まずい食べ物です。これが何を意味しているかは明白です。つまり、神の裁きの言葉だということです。そもそも南王国ユダが敗れ、バビロン捕囚に至ったのは、ユダの人たちが神様の御心を離れ、悪しきことをおこなっていたからだというのが、聖書の述べている歴史理解だと思います。そこでエゼキエルは、厳しい裁きの言葉を食べよと神様から命じられるのです。
裁きの言葉、出来ることならばそんなのは食べたくない、もっと見た目によく、食べておいしそうなものが欲しい、それが私たち誰もが感じる反応だと思います。実際、この時代には、平和がないのに平和という偽預言者が横行したと、このエゼキエル書にも、またエレミヤ書にも書かれています。人々の耳に心地よいことばかりを語る宗教者が存在したのです。けれども、エゼキエルはそのような預言者ではありませんでした。哀歌とうめきと、嘆きの言葉で満ちた裁きの御言葉を食べよと神様に命じられたのです。「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」エゼキエルはこれを食べ、そしてそれを反逆の家の人々に語るように命じられます。神様が預言者を召し出される召命とはなんと厳しいことかと思わされます。
エゼキエルはこの神様の命令に従います。そして彼は口を開き、巻物を食べたのでした。哀歌と、呻きと、嘆きの言葉。さぞかし不味い、気持ちが悪くなるような食べ物だと思えます。ところが今日読んでいただいた最後の部分、3章3節に不思議なことが言われているのです。それは、「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」ということです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。私は今日の話の結論として二つのことを申したいと思います。第一に、聖書の御言葉はしばしば私たちを戸惑わせ、実行することの不可能なようなことを突きつけてきます。申しましように、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という主イエスの言葉などは、典型的と言ってもよいほど、難しい言葉です。けれども、実はここに私たち人間の本当の生き方がある。そんな言葉は食べられない。だけど、無理をして少し食べてみると、ここに私たちを本当に生かす力があると気づかされていくのです。パウロは第一コリント1章で、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と言いました。多くの者にとっては愚かな言葉、つまずきとなる言葉であっても、実はここに本当に人を救う神の力がある。私たちはそう信じて、御言葉をいただくのです。もう一つ申しておきたいこと、それは、エゼキエルが食べたものが、裁きの言葉でありながらそれが甘かったということは、実は、これら裁きの言葉の深いところに、神の愛があるということです。神様はただ裁くために厳しい言葉を言われるのではありません。そうではなく、反逆の家に対して、神様に立ち返るように求めておられるのです。事実、エゼキエル書は33章以下で、イスラエルの回復が預言されています。その頂点とでもいうべきが、37章の「枯れた骨の復活」の預言です。「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
私たちは、今この社会、この現代の社会で、さまざまな判断を迫られています。毎日の生活のなかで御言葉に生きるとはどういうことかを思わされます。非常に具体的なことを言えば、テロの惨事のために、軍事的報復が声高に叫ばれ、日本も共同行動をしようとしています。でも、そういう状態のなかで御言葉を食べることはどういうことなのか。「敵を愛せよ」と言われた主の言葉の難しさを覚えます。しかし、これを食べたときにこそ神の愛が味わえるという今日のエゼキエルの体験を、私たちもまた体験していきたいと願うのです。
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