番町教会説教通信(全文)
2001年8月 「謙遜と献身」        牧師 横野朝彦

?ペトロ5・1―7

国連は毎年、中心的に推進していくべき課題をかかげ、今年は国際何々年だといったことを定めています。正確には、その年一年間だけのことではなく、それから10年間、その課題を覚えつづけ、理想の実現を目指すということです。もう何年も前に、国際障害者年ということがうたわれ、そのときは新聞などでもよく取り上げられていたように思いますが、最近はあまり聞かなくなりました。2001年、今年は国連が定めた「ボランティア国際年」です。でももう一つよく知られていないようです。

ボランティアというのは日本語に直しにくい言葉ですが、任意の奉仕活動をさしています。強制されてするのではなく、自発的におこなわれるものです。ところが日本では、学校の授業の中にボランティアを取り入れようという意見が出されたりしています。奉仕活動の義務化としての体験学習です。私はこういったことは、それなりに意義はあると思います。でも、強制されたボランティアというのはおかしなことですし、ボランティアというのとはちょっと違うような気がしてなりません。申しましたように、ボランティアというのは日本語に直しにくいと言われている言葉です。どうして直しにくいのだろう、そのことを考えるときに、見事にボランティアの本質を言い表した言葉があります。それは今日読んでいただいた聖書の箇所、ペトロ第一の手紙5章2節、「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで」という言葉です。「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで」、これがボランティアの本質だと思います。ところがこの言葉のうち、特に真ん中にはさまれている「神に従って」ということがどうも理解されない、うまく伝わらない、それがボランティアという言葉を日本語に直しにくくしているのではないかと思うのです。

明治学院大学の副学長をしている山崎美貴子という先生は、国連のボランティア国際年の日本代表でありますが、山崎先生は、次のように言っておられます。「ちょうど神様が私たちにしてくださいましたように、知らない第三者に対して、一人の隣人としてかかわることが、キリスト教のベースになっています。しかし、長いこと家族制度といいますか、家制度といいますか、家の中のことは家の中で処理するということが、長く日本の社会の中を支配してきたこともあって、知らない第三者に対して、一人の隣人としてかかわれる私たちの力量は不足しており、全く知らない第三者によるボランタリーな活動に対する社会的自覚については、まだまだ十分ではないと思います。」

日本では、家族とか友人とか、身近な周りの人に対する親切はいくらでもできるのだけれど、知らない第三者と共に生きるというのが、なかなかうまくいかない、そして、ボランティアをはばむ一つの要因として、家の中のことは家の中でするという日本の社会のありかたが関係しているという、山崎先生の指摘に、私はああそいういうこともあるのかと気づかされました。

家の中で自己完結してしまうのと同じように、日本社会はこれまで、会社人間という言葉で表現されるように、会社の中で自己完結してしまうことがあったように思います。考えてみれば、教会も同じかもしれません。教会の親しい兄弟姉妹で信仰共同体を作り、居心地の良い教会が作られる、けれどもそこでは、教会がかかわるべき、また仕えるべき、この社会のさまざまな問題や人が抜け落ちているのではないでしょうか。

「もしあなたがたが、イエスに従おうと願うなら、成功と権力への階段を昇ろうとするのではなく、重要人物になるのではなく、そうではなくて、梯子を一段一段降りていかなければなりません。傷つき、苦しむ人と、出会い、そして共に歩むのです。」これは、フランス・パリ郊外にあるラルシュ共同体、心身障害者の施設であるラルシュ共同体の創設者ジャン・バニエ神父の「ひとつとなるために」という本の中の言葉です。ジャン・バニエ神父については前にも紹介したことがあります。ラルシュとはフランス語で箱舟を意味します。今ではラルシュ共同体は世界各地にあり、今年5月に私は、ヘンリ・ナウエンというカトリック神父が書いた「アダム」という本を紹介しましたが、それは、カナダにあるラルシュ共同体での体験、アダムという重度の障害を負った青年との出会いを描いたものでした。アダムは、自分では何もできない存在でした。しかし彼は何もできないということによって、周りの人を慰め、癒していったのです。なお、ナウエンにはたくさんの著作があり、日本語にも訳されていますが、そのもっとも有名なのは、「傷ついた癒し人」という本です。

ジャン・バニエ神父は、「イエスに従おうと願うなら、梯子を一段一段降りていかなければなりません」と言います。昇るのではなく、下へ降りるというのです。日本でも、亡くなられた中森幾之進牧師が、浅草北部教会での働き、山谷での労働者との出会いを自伝にあらわし、その本の題を「下にのぼる歌」とされました。下にのぼるというのは不思議な言葉ですが、ただ降りるというのではなく、降りることによって神様に高めていただくという、とても深い信仰表現だと思います。

ジャン・バニエ神父の言葉をもう少し読みます。「傷ついた人に仕えるということは、母親が子どもを手助けするように、いっそう自立できるように助けながら手を貸して、彼らが自分で賜物と美点を見つけ出したら、あとは、ゆっくりとわたしたちは姿を消せばよいのです。これは階段を下りていくことであり、イエスがなさったように、彼らの足を洗い、そして、小さな祝福を見出すことなのです。人目につかない仕え人となり、いちばん隅に自分の場所を見つけ、そこでこそイエスに出会うのです。」バニエ神父は、わたしたちは姿を消せばよいと言います。また人目につかない仕え人となり、いちばん隅に自分の場所を見つけるのだと言います。これはこの社会の常識とは反対の生き方です。バニエ神父もこの本の中で述べていますが、この社会は階段を上っていくことのみを奨め、より大きな権力や世間の評判がその人の評価につながります。しかし、私たちが主イエスに出会う場所は、そのように権力や世間の評判のある場所ではなく、むしろそのようなものから遠く離れ、姿を消すことであり、人目につかない仕え人であることなのです。

私たちは、6月以降、ペトロの手紙をご一緒に読んできました。そこには、これまで何度もお話をしましたように、仕えて生きることが勧められていました。神のしもべとして生きること、従順であること、さらには、理不尽と思えるような悪の力に対しても、それに逆らって悪をおこなうくらいなら、苦しむほうがましだと言われていました。そしてこの手紙は、最終章である5章で、今一度手紙の読者に対して勧めをするのです。今日は5章の1節から7節を読んでいただきましたが、その前半1―4節では、長老たちへの勧めがされています。5節は若い人たちへの勧めです。6―7節は、若い人たちへの勧めの続きのように思えますが、全体に対する勧めと読むこともできます。

この手紙が書かれた時代、教会の制度がどの程度整えられていたのか分かりませんが、ユダヤ教の制度から来たものであり、教会の指導者であり、かつ管理や牧会の役割を担っていたようです。しかもそれは極めて重要な役割であったようです。第一テモテ5章には、「御言葉と教えのために労苦している長老たち」と書かれています。またヤコブの手紙5章には、「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」とあります。ですから、教会のおもだった人たちというにとどまらず、牧師のしているような働きをも担っていたようです。考えてみれば、日本でも明治期の教会では、牧師の絶対数が不足していますから、信徒たちが教会の運営を熱心に担っただけではなく、熱心に証をし、語ることにも熱心でした。また今日でも地方に行くと、牧師不在のまま熱心に、信徒たちが礼拝を真剣に守っているところも少なくありません。それはともかくとして、初代教会において、長老たちは、教会を指導し、かつ管理や牧会の役割を担っていました。それはまったく、組織ということを考えるならば、上に立つべき人たちでした。

けれども、ペトロはあなたがたは上に立つ偉い人たちだなどとは言いません。むしろ彼らに対して、バニエ神父の言葉を用いるならば、階段を下りることを勧めるのです。2節を見るとまず、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」と書かれています。教会の群れ、弱く迷い易い羊たちを養うことがあなたがたにゆだねられていることだと、このように言われているのでして、そのことからも、初代教会における長老の役割の大きさがわかります。なおここで、ゆだねられているという言葉が2節と3節に2回繰り返されていることに興味を覚えます。教会に色々な人が集まっています。それはたまたま一緒になったというのではありません。たまたま同じ電車に乗り合わせたというのではなく、群れを養うべく、神様によってゆだねられたのだというのが、ペトロの理解です。この手紙の著者はペトロ自身ではなく、ペトロの後継者であると思われますが、しかし、ペトロがヨハネ21章に書かれているように、主イエスから「わたしを愛するか」と3度も尋ねられ、そして「わたしの羊を養いなさい」と使命を与えられたことがありました。このことは教会の大切な働きであり、またキリスト者の大切な働きです。すなわち、私たちは皆、神の羊の群れであるということです。

そしてこのようにゆだねられた羊の群れと述べた上で、羊の群れを牧するにあたっての心構えが3つ述べられます。それはそれぞれあるべき姿と、あってはならない姿が対になって語られています。否定すべき姿がまず述べられ、そしてあるべき姿を勧められています。

まず2節で言われているのは、強制されてではなく、神に従って、自ら進んでということです。次に、卑しい利得のためにではなく献身的にということ、そして3節に、権威を振り回すのではなく、むしろ、群れの模範になるべきことです。強制されてではなく、仕方ないとかというのであってはならないのでして、パウロも、福音宣教について、「わたしはそうせずにおれない」と第一コリント9章で言っています。また卑しい利得のためではなくとあります。利得といっても、金銭上のことであるよりは、名声とか名誉のためではなくと、広く理解されます。そして第3番目に言われていることは、権威をふるってはならないということです。「自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである」とパウロもガラテヤ書で述べているところです。そして注意したいことは、権威をふるうことの反対の言葉として、群れの模範となれと述べられていることです。群れの模範となる、それは羊の一匹として歩むことであり、先週ご一緒に読んだ4章の言葉を用いれば、「賜物を生かして互いに仕える」ことだと思います。そしてまた利得のためではなく、献身的にとあったように、献身、自らの身を献げる生き方がこの箇所で言われていることの重要なポイントだと思います。

5節以下では、若い人たちへの勧めです。長老たちに従うべきことが述べられています。ここで若い人たちというのは、実際に年齢的に若いということもあるでしょうが、むしろこの手紙の読者たちが、キリスト教信仰に入ってまもない人たちであったことを考えれば、信仰生活の若い人たち、つまり長老と呼ばれる信仰生活の長い人たちと対になった言い方だと思われます。そして、彼らに長老に従うべきことが勧められる。これはペトロがすでに、キリストにある従順を繰り返し述べてきたことの続きです。それはキリストにあって身を低くすることの勧めであり、謙遜こそがキリスト者のあるべき姿勢だということです。そして、6節で、神の御手のもと自らを低くするようにと教えられるのです。また思い煩いは神にゆだねよと言われている。思い煩いとは、自らの位置、自分を守ろうとすることから来ているのかも知れない、自分を捨てきれないことかも知れない、そういったことは神様にゆだねて、安心して身を低くしていきなさいというのです。

6―7節は、若い人への勧めというよりは、長老たちと若い人たちとの両方に勧められた言葉なのかも知れません。以上のように、長老たちには献身を、信仰に入って年月の浅い若い人たちには謙遜が勧められる、それが今日読んでいただいた5章1―7節です。そして、どちらに対しても、自分を低くしなさいと教えられているのです。5節に「若い人たち、長老に従いなさい」とありますが、この言葉をこの箇所だけとりあげて、だから長老は偉いと思うとすればそれはとんでもない勘違いです。そうではなく、長老たちには献身を、若い人たちには謙遜を勧められている。どちらも自分を低くするように言われているのでありますが、献身と謙遜という言葉を考えるならば、信仰生活の長い長老たちに対するほうが、より厳しく、自らを低くするように言われていると考えてよいと思います。

以上、今日私は、聖書の言葉を一行ずつ順を追って解説するように話を進めてきました。ここでもう一度5章の初めの言葉に戻りたいと思います。それは、この手紙の著者が、自分のことをキリストの受難の証人と呼んでいることです。キリストを証しする人のことを、聖書は、ほかに、復活の証人といった言い方がされますけれど、この手紙では、受難の証人と言われます。それは、キリストが徹底して自らを低くする生き方に生きられたことを言いたいからです。2章では、キリストが家を建てる者たちの捨てた石であるという言い方がされていました。また2章後半では、キリストはののしられてもののしり返さず、十字架によって私たちの罪を負ってくださったと言われ、また3章で、キリストも罪のためにただ一度だけ苦しまれましたと言われている。そして4章では、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりませんと教えられています。このように、キリストの受難こそが私たちの一切の模範であると、この手紙は繰り返して語っているのです。

キリストが十字架の死に至るまで従順であり、それが私たちの模範であり、救いであることは、聖書全体を通して語られているところです。ペトロの手紙は、実にその一点に集中して、私たちに勧めをなし、教えを与えています。それは今日私が最初に述べた言葉で言えば、梯子を降りること、あるいは階段を下りるべきことです。自分は階段をおりずに、高いところにいて、あの羊たちは迷っているとか、あの羊たちは間違っているなどと言うとすれば、それは正しいありかたではありません。また自分は梯子を降りずして、教会のありかたをあれこれ言うのもおかしなことです。

教会というところは、この世にあるかぎり多くの問題を抱えていかなければなりませんが、何よりも、長老も若い人たちも、信仰生活の長い人も短い人も、どちらも階段を下りること、梯子をおりることから始めなければならない、そうでなければ、教会は教会として成り立たないのではないかと思わされます。

ナウエンが書いた「アダム」を先月紹介しました。ナウエンはこの本の前に、「この杯が飲めますか」という本を書いています。「この杯が飲めますか」 これはお気づきのように、主イエス・キリストの言葉です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが来るべき神の国において自分たちを取り立てて欲しいと願ったとき、主が彼らに語られたのです。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」 彼らはこの質問に対して、「飲めます」と自信を持って答えていますが、彼らがこの言葉の本当の意味をどれだけ知っていたのか怪しいところです。 「杯を飲むことができるか。」 これは他ならず、主イエス・キリストが負われた十字架の苦難をあなたたちも担うことが出来るかという質問だからです。

「杯を飲むことができるか。」これは実に厳しい問いかけです。でも、この言葉は、「わたしが飲もうとしている杯」という前提があります。主イエス・キリストがまずこの杯を飲んでくださったのだという前提があるのです。キリストが飲まれた杯、それは十字架という苦難の杯であり、死に至るまで己を低くされた生涯でありました。キリストがこのように杯を飲んでくださった。このことに力を受け、助けられつつ、私たちも階段を、梯子を一歩、二歩、降りていきたいと心から願います。家の中で自己完結するのではなく、そこから抜け出て、強制ではなく、神に従って、自ら進んで、献身と謙遜の道を歩みたいものです。

(2001年8月19日 礼拝説教)