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| 2001年7月 「救われるように」 牧師 横野朝彦 |
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?ペトロ2・1―10
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
キリスト教ラジオ放送のFEBCに、毎週月曜から金曜まで「恵子の郵便ポスト」という番組があります。ラジオ局に寄せられた手紙を、FEBCのスタッフである吉崎恵子さんが朗読をし、手紙の感想や返事を話されるもので、全体で8分ほどの番組です。先週水曜日、機会があってこの放送を聴きました。そして読まれた手紙の文章に、その手紙を書いたかたの信仰があふれているのに感心をさせられたのでした。手紙のなかに、神の御言葉を聴くことの渇きについて述べられ、そして、「渇きを与えられた主は、満たしの水も与えられる」と書かれていました。このように言うことが出来る信仰というのは素晴らしいなあと思います。手紙を書かれたご本人は、おそらく自分では気づいておられないでしょうけれど、このかたは、信仰のとても深いものを得ておられると思います。
わたしたちはさまざまな労苦や悩みを背負います。しかもその労苦や悩みは表面的であるよりは、わたしたちの存在を根底から問い掛けてくるものです。何年か前に教会修養会の講師をしてくださった青木優牧師は、若き日、目が見えなくなったときに、布団をかぶって「なぜだ! どうしてなのだ」と怒鳴っていたといいます。「一緒にインターンに入った10人の仲間のうち、なぜ自分だけが失明しなければならないのか。これからの生涯、それがどのくらい続くのかわからないが、失明の重荷を背負いつづけてその長いみちのりを生きて行く意味が果たしてあるのか。そのような人生に、なお生きるに足る値打ちがあるのだろうか。」
青木牧師の「なぜ」というのは、医学的な説明を求めるものではなく、失明の意味を問いつづける「なぜ」でありました。「いったい、なぜ失明したのか、これはわたしにとって最後の問いであり、それを問い続けることだけが、毎日のわたしの課題であった」と、本に書いておられます。青木牧師は、ヨハネによる福音書9章の「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」という御言葉との出会いによって、この「なぜ」に対する答を与えられたのでした。このように、わたしたちの背負う重荷は、起こってくる出来事や現象にとどまらず、人はなぜ生きるのかという根底の土台を時にゆるがし、生きることそのものを困難にしてしまうのです。
それゆえ、そこではもはや、起こった出来事や現象の解決だけが答なのではなく、もっと深いところで人を生かすものが求められていきます。青木牧師の「なぜ」は、そのようなものでした。そしてこのことからわたしは、詩編の聖句を思い起こすのです。「涸れた谷に鹿が水を求めるように。神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」これは詩42編です。
もう一箇所。「わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。」これは詩119編です。詩編119にはまた、「助けを求めて叫び、御言葉を待ち望みます」と歌われています。これらは、神様に助けを求めつつ、しかし今や出来事の表面的な解決ではなく、苦難のなかで人間を根底から生かす御言葉が求められているのです。これは、キリスト教的な表現をすれば、御言葉への渇きというべきものです。
このように、人間を根底から生かす御言葉が渇きのように求められていきます。そして神様はこの求めに応えて、わたしたちに命の水を与えてくださるのです。青木牧師がヨハネ9章の御言葉によって救われたように、人を根底から生かす命の水がここにあります。青木牧師の目は再び見えるようにはなりませんでした。けれどもこのときのことを、著書「行く先を知らないで」のなかで次のように書いておられます。「これからの自分の見通しについても、何一つたしかなものはないけれど、わたしは、神の支えが確かにあるのを感じた。何ものをも恐れる必要のない事を感じ、力の湧くのを覚えた。『わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』(ヨハネ4・14)。久しぶりに安らかな深い眠りにおちたらしい。翌朝の目覚めは、さわやかであった。」
このように、神様はわたしたちが水を求めるときに、その水を確かに与えてくださるのです。しかも「その人のうちで泉となり永遠の命に至る水が、わきあがる」とまで言われているのです。そしてここで大切なことは、神様が命の水を与えてくださるのであるならば、わたしたちが渇きを覚え、水を求めていったことさえも、神様がそのように計らってくださったということではないか、ということです。ここで最初に紹介をした、「渇きを与えられた主は、満たしの水も与えられる」をもう一度心に留めたいのです。渇き、それは現象としては出来事としての困難や、苦難、悩みが直接の原因なのかも知れません。でも、この体験をとおして命の水を知ることができるのならば、渇きもまた神様から与えられた大きな恵みであったというべきなのです。
「恵子の郵便ポスト」では、番組を担当しておられる吉崎恵子さんが、壷ということを話されました。からっぽの壷、そこへわたしたちはいろいろなものを入れようとする、いろいろなものの例として、吉崎さんは、自尊心とか名誉ということを言われました。からっぽの壷をそのようなもので満たしてしまったなら、恩寵の入る余地はありません。神様の恵みを受け入れるには、壷をあけておかねばなりません。
シモーヌ・ヴェイユは、ノートに次のように書き残しています。「恩寵はあいているところを満たす。ただし恩寵を受け入れる真空のあるところにしか入っていかない。そしてその真空を作るのは恩寵である。」ヴェイユらしい、ちょっと難しい言い方ですが、とても大事なことが言われていると思います。神様の愛と恵みはわたしたちの欠けたところを補うようにして与えられます。わたしたちの欠け、あいたところ、真空を満たしてくれるのです。そしてその真空を、あいたところを、欠けそのものの存在も、神様の恵み、恩寵にほかならないのです。
詩119編の言葉を先に引用しましたが、同じく詩119編71節に、「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」と歌われています。この詩編で「おきて」は、「御言葉」と同じ意味で用いられています。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたの御言葉を学ぶことができました」と言い換えることができます。以上のようにわたしたちを根底から生きるものとするために、神様はわたしたちに時には試練を与え、渇きを与えられる。そしてわたしたちに命の水をくださるのです。
さて、今日は先週、先々週に続いてペトロ第一の手紙を読んでいただきました。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」ここで言われている「霊の乳を慕い求めなさい」とは、要するに神の御言葉を求めなさいということです。先週読んだ1章23―25節に「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えられ、また「主の言葉は永遠に変わることがない」と教えられていました。この言葉を受けながら、霊の乳と表現されているのです。つまり、わたしたちの魂を養う食べ物と言ったほうがわかりやすいかも知れません。なお第一コリント3章やヘブライ5章では、乳が固い食べ物と対比されており、キリスト教入門のための易しい言葉という意味で用いられています。今日読んだペトロの手紙でも、手紙の読者が最近キリスト教に改宗した人たちが中心であったということから、このような言い方がされているのだと思われます。
それとともに、「混じりけのない霊の乳」と言われているように、純粋な御言葉という意味で使われています。そしてこれを飲むことによって、主の御言葉に養われることによって、わたしたちは成長し、救われるのだと教えられています。この霊の乳は、わたしたちを、表面的にではなく、もっと深いところから、内面から、そして根底から生かすものです。でも、わたしたちの周りには、うわべだけわたしたちを生かすように見えるものがあふれています。本当はそうではないのに、まるでそれで生きているように見えるものがあふれています。
今日の箇所の冒頭に、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」とありました。こういったものをいつまでも抱え持っていて、どうして霊の乳である御言葉を求めることができるでしょうか。1節には、このように「捨てる」ということと、「求める」ということが並んで、そして対比されて語られています。ここで捨て去るべきと言われているのは、悪意とか偽りといったことで、それは当然だと思われるかも知れません。でも、わたしはそれだけではないと思います。聖書が語っているのは、もっとわたしたち人間の生き方全体についてです。1節の「捨てる」という言葉は、ローマ13章12節で、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と言われていることや、エフェソ4章22節以下で、「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」と言われているように、キリスト者とされる以前の自分を神様によって変えていただく、捨てさせていただくといった意味が強いのです。今日わたしが、渇くということと、命の水を求めるということから話を始めさせていただいたのは、実はこのこととの関連からです。つまり、渇きを与えられて主によって満たされる生き方とは、古い生き方を捨て、霊の乳を求め、新しい命をいただくということに他ならないからです。
それにしても、古い生き方を捨てるというのは簡単なことではありません。それがたとえ悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口といった悪いことであっても、いやそれだからこそ、ますます捨てるのは難しいことです。先々週の祈祷会でヨハネによる福音書3章の中ほどを取り上げ、わたしはそこで語られていることとの関連で、先程も紹介したシモーヌ・ヴェイユの言葉を話しました。それは、「悪をおこなうと、悪の正体がわからなくなる、悪は光に背を向けるからである」といった言葉でした。光に背を向けてしまうと、悪を悪と認識できなくなってしまいます。ですから、これを捨てるということも、自分が悪をおこなっていると気づいていないために、捨てられないのです。聖書は古い生き方、神様を知らないですましてきた古い生き方ということを申します。でも、古い生き方にどっぷりつかっているわたしたちは、何が古いのか、何が問題なのか、自分では気づかないことが多いのです。神様はわたしたちに思いもかけない試練を与えられたり、苦難を負わせられたりします。そしてわたしたちに渇きを与えられます。労苦や重荷をわたしたちは出来ることならば避けて通りたいものです。でも、それらはわたしたちに古い生き方を捨てさせるために、神様が与えてくださった道なのではないでしょうか。
3節には、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」と書かれています。わたしは霊の乳を慕い求めなさいという言葉にすぐ続いてこのように言われていることの意味がよく理解できませんでした。ところが注解書のひとつに、次のように書かれていて、納得をしたのです。それは次のような説明です。「主が恵み深いかたであるということは、人間が霊の乳を求めるに先立って、主がそれを与えておられることを示している。主が恵み深いかたであればこそ、悪を捨てることにも、霊の乳を慕い求めることにも意味が生ずるのである。」すべてに、主の恵みが先立っている。このことはとても大事です。
そして、このように1―3節で述べられたうえで、ペトロの手紙は、主イエス・キリストについて語り始めるのです。4節、「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」この言葉の意味は、主イエスが、ほかならずわたしたちの模範として、自らを捨て、新しい命に入られたかただということです。人々からは見捨てられた、十字架の主イエスはまさに捨てられた究極の姿でした。ヨハネ19章の主の十字架の場面で、主は死のまぎわに「渇く」と言われたと記されています。このことは今日お話をしてきたこととの関連でとても重要です。主はまさに渇かれたのです。そしてそのことによって、わたしたちの模範となられました。主がわたしたちの模範であるというのは、主が立派なおこないをされたからとか、倫理道徳で勝っていたということではありません。そうではなく、わたしたちと同じように試練に合われた、いやわたしたちに先立って試練に合われ、この世の重荷を担ってくださったということに他ならないのです。
この世の人々からすれば、そのような生き方は馬鹿げた生き方、損な生き方です。それはまさに、7―8節に言われているように、「家を建てる者の捨てた石」「つまずきの石、妨げの岩」なのです。けれども、わたしたちはここにこそ救いを見ます。人間を根底から生かすものがあると見ます。それはどんなことがあってもゆるがない、土台としての石なのであり、家を作るときの隅の親石なのです。6節、「聖書にこう書いてあるからです。『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』」これはイザヤ書28章16節です。「それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」
以上のように、ペトロは、わたしたちに模範としてのキリストを語ります。そして、わたしたちが今やキリストにあって新しくされたと語ります。10節、「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」古い自分がキリストによって新しくされ、確かな揺るぐことのない土台を与えれた喜びがこのように述べられています。
さて、このようにお話をしてきましたが、霊の乳を求めなさいと言っていたペトロの言葉が、いつのまにか、土台としてのキリストに話が移っているのに気づかれたことだと思います。申しましたように、聖書のほかの箇所との関連からしても、また第一ペトロ1章の終わりとのつながりから言っても、霊の乳という言い方は、明らかに神の御言葉をさしています。ところが霊の乳を求めなさいという言葉が、続けて「主のもとにきなさい」、つまり主イエス・キリストのもとに来なさいという薦めに変わっている。ここでわかることは、ペトロにとって、永遠に変わることのない神の御言葉は、キリスト・イエスにおいてあらわされ、成就しているということなのです。ヘブライ書1章1―2節にこうあります。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」つまり、今や御言葉とはキリストのことにほかならない、ここにこそ永遠に変わることのない御言葉、ここにこそどんなことがあってもゆらぐことがない土台がある。それゆえにこそ、神様はこの救いにわたしたちを導くために、ときに渇きを与え、そして満たしの水をも与えてくださるのです。
(2001年7月8日 礼拝説教)
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