番町教会説教通信(全文)
2000年3月 「負い目を帳消しに」        牧師 横野朝彦

ルカ16・1―13
 「不正な管理人の譬」という話があります。使いこみのばれた管理人が本当に難しいところだからです。聖書注解書を開いてみても、これは福音書のなかで最も難解な箇所の一つであるなどと書き始められています。この譬話は、なかなか解釈の難しいところで、本を読んでもいろいろな説明があって、もうひとつよく分からない面があります。私自身、今日お話しをすることは、この難しい譬を読むにあたっての沢山の読み方、沢山の見方、角度の一つに過ぎないのですけれど、私がこの箇所から与えられているメッセージをお話ししたいと思います。
 まずどんな話だったか、簡単に要約します。ある金持ちに、財産を預けて管理させている管理人がいました。ところがその管理人が、主人から預かっているお金を使い込みしてしまうのです。主人である金持ちは管理人を呼び寄せ、会計報告を出せと命じます。そこでその管理人はどうしたでしょうか。彼は考えます。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」
 彼はこのように考え、主人である金持ちに借りのある人たちを呼び寄せます。そして油1000リットルの借りのある人には、借用証書を書き換えて500リットルにしてしまいます。小麦1000キロを借りている人には、借用証書を800キロに書き換えてしまいます。なお、今申した数字の単位は、聖書に書いてあるのをそのままではなく、今日の単位で適当な数字を当てはめて述べたものです。それにしても、主人が貸したものの借用証を勝手に書き換えるのですから、とんでもない悪いことです。このように悪いことをして、彼は、油や小麦を借りていた人を自分の味方につけてしまうのです。
 こんなに悪いことをしたのですから、これがばれたときには、大変な刑罰が与えられるだろうというのが当たり前の考え方です。ところが主イエスはこの譬話で、主人はこの不正な管理人のやり方をほめたと言われるのです。そればかりではありません。9節によれば、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友だちを作りなさい」と、このように勧めているのです。「そこで、わたしは言っておくが」というのは、主イエスの特徴的な言い方で、私たちの常識を覆し、生き方を考えさせる言葉です。いったいこれはどういうことでしょうか。悪いことをしてでも友だちを作れとはどういうことでしょうか。また不正にまみれた富でとはどういうことでしょうか。そんなことをして作った友だちは、本当の友だちと言えないのではないでしょうか。  
 この聖書の箇所は、古今東西、読む人を惑わしてきました。そして色々な解釈が生まれました。一つ考えられるのは、先にルカ12章の愚かな金持ちの譬をご一緒に読みましたけれど、そこで「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と書かれていました。人間にはこの世の富の豊かさと、神の前の豊かさがあると指摘し、この世の富はそもそも不正なものであって、我々はそれを用いて、神様の御心にかなうような使いかたをするべきであると説明をしています。お金に頼る生き方はよくない。でもお金がなければ生きられない。それならば、お金を友だちを作るために用いればよい。このように今日の箇所を読むことができます。またある本には、ここで管理人がしたことは、貧しい人々への施しを意味すると説明がされていました。
 ルカ16章19節以下は、金持ちと貧しいラザロの物語です。ここには、貧しいラザロを顧みることなかった金持ちが神様から裁かれる話が書かれています。ルカによる福音書は、富や財産、所有物についての警告をしばしば記しています。まさに「人の命は持ち物にはよらない」のです。そしてこの世の富によって生きるのではなく、神の前に富むということを勧めています。今日の話もそのような全体の流れのなかで読むことができます。13節に、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われています。私はこの箇所は、古い口語訳のほうが好きでして、口語訳は13節を次のように訳しています。「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」この、「兼ね仕えることはできない」という言い方が、強くて印象的です。なおこの13節の言葉は、マタイによる福音書6章の、山上の説教のなかにも出てきます。
 今日の譬では、不正にまみれた富という言い方がされていました。不正にまみれた富というと、なんだか、悪いことをして得たお金というふうに思ってしまいます。事実この譬では、借金の証書を勝手に書き換えるという不正の話が出てくるのですが、でも、そもそもルカがここで言わんとしているこの言葉の意味は、富というのは本来不正なものだということがあります。それゆえ、私たちが富を用いるのならば、それを自分の貪欲のためにではなく、他の人のために使いなさいというのです。
このような理解と関連して、ある本には、「物質的な所有物は友情を堅くするために用いるべきだ」と書かれていました。また別のある本には、「この世の富を巧みに用いることにより、神の国を迎える準備に役立て、み国にともに生きる友を得ることこそ、あなたがたにこの世の富を与えた神のご計画であり、求めである」と書かれていました。ちょっと堅い、難しい表現ですが、このように言われているとなんとなく分かったような気持ちになります。カトリックの本田哲郎さんという神父は、聖書をギリシャ語からご自分で訳しておられますが、今日の箇所に、「財産は貧しい人々の解放のために役立てよ」という見出しを付けておられます。
 でも、それにしても、主イエスはどうして、誰が考えても悪いおこないを譬にして語られたのでしょうか。
 そこで、今日のこの箇所を私がどのように読んでいるかということをお話しします。私はこの箇所をマタイによる福音書18章に書かれている譬との関連で考えています。「仲間を赦さない家来の譬」という有名な譬話です。あるとき、ペトロが主イエスのもとにやってきまして、質問をします。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」このペトロの質問自体が赦しと言うことの本質からすれば、滑稽なものです。赦すというのは、たとえどのようなことがあっても、相手を受け入れると言うことであって、何回という発想そのものが、赦しではないのです。あの人には1回分の借りがある、だから1回は赦してやろう、あの人には1回分の貸しを作った、だからと、互いに計りにかけて取引をしているのでは、これは赦しではありません。まさに取引でしかありません。
 そこで主イエスは譬を語られます。1万タラントンの借金をしている家来が、主人にその借金を免除してもらいます。1万タラントンというのは、大変なお金です。聖書の時代、ヘロデ・アンティパスという王様がガリラヤとペレアから得た年貢が200タラントンであると本に書かれていました。それから換算すれば、1万タラントンとは、ちょっとした国家予算です。ところがその家来は自分が100デナリオン貸している仲間を捕まえ、首を絞め、借金を返せとせまり、ついに仲間を牢獄に入れてしまいます。100デナリオンは、だいたい100万円くらいです。国家予算とも言える大金を赦された人が100万円の借金のある人を牢獄に入れてしまう。とんでもない話です。このことを聞いた主人は家来の借金の免除を取り消し、彼を牢獄に入れたという話です。そしてこの譬の終わりのところで、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」という主人の言葉が語られています。そして主イエスは、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と教えられています。
 私は、この「仲間を赦さない家来の譬」は、今日の「不正な管理人の譬」とちょうど表と裏のような関係にあると思います。私はルカ16章で「主人に借りがある」という言葉の「借り」を、「罪」とか「負い目」というふうに理解すると、この箇所が分かりやすくなると思います。つまり、主の祈りで私たちは、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく」と祈ります。私たちが祈っている主の祈りは、言うまでもなく主イエス・キリストが私たちに教えてくださった祈りです。マタイによる福音書6章を読むと、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」となっています。そしてルカによる福音書11章を読むと、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と書かれています。今日の譬話の説明が、まさにこの主の祈りの一節でできると思います。「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」不正な管理人と呼ばれるこの人がしたのは、まさにこのことだったのです。譬話で言われている「主人」は言うまでもなく神様のことです。
 私たちが今、神様の前に立たされ、あなたの会計の報告を出しなさいと言われれば、どのようにすればよいでしょうか。神様の前に私たちは罪を背負っています。どう計算をしても、赤字ばかり、負債ばかり、負い目、罪ばかりが帳簿に並ぶことになってしまいます。私たちはどう考えるでしょうか。逃れる道があるとすれば、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と祈っていくほかないのです。管理人は、そこで主人に負債のある人、負い目のある人のその負い目を次々と帳消しにしていきます。神様の前に負債だらけの私たちが、他の人の負債を許さず、取り立てようとすれば、それこそ私たちの負債も許されず、そればかりか牢獄に入れられることになってしまうことでしょう。そうではなく、他の人の罪を率先して赦していくこと、管理人はそこに言うならば自分の生き残る活路を見出そうとしたのです。
 神様の前に負い目をいっぱい持っている私たちがなすべきことは、他の人の負い目を赦していくということでしかないと私は思います。そして主人はこの管理人のやり方をほめたのでした。互いの罪、ある人が別の人に犯した罪、人と人との間に起こったことであるとしても、それは究極的には神様の前に裁かれるべき罪だと思います。管理人が書き換えた借用書は主人のものでありましたが、互いに赦し合うということと矛盾するものではありません。申しましたように、相手がこれだけしか赦していない、あの人にはこれだけ貸しがある、そこで1回分貸しがあるからこちらも1回分は赦そう、それでは赦しではありません。それはただの取引です。主イエスは私たちにそのような取引をしなさいとは言われません。主イエスの十字架は、まさにそのような取引とは無縁のものでした。それこそ一方的に、私たちの負い目を、しかも国家予算に匹敵するくらいの負い目を赦してくださったのです。
 「不正にまみれた富で友だちを作りなさい。」この言葉は、すでに言いましたように、悪いことをしたお金で友だちを作れという意味ではありません。そうではなく、この世に於いて、富や財産とまったく無関係に生きるということができないのならば、せめてそれを自分の貪欲のためにではなく、友だちを作るために用いなさいということでした。友だちとは何でしょうか。仲良し、趣味の合う人、色々な言い方ができるでしょうが、私は、友だちの最も重要な用件は、相手の犯した過ちを、裁くのではなく、赦すことだと思います。適切な忠告は必要でしょう。でもそれ以上に大事なのは、なによりも相手を受け入れるということに違いありません。そこで思い起こすのは、主イエスが私たちに対して、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言ってくださっていることです。これはヨハネ15章の、わたしはまことのぶどうの木という譬の後で言われている言葉です。
 ところで、不正という言葉について、私は思うのですけれど、そもそもこの世の法律やこの世の常識に従えば、罪を犯した人は当然裁かれるべき存在です。裁かれずに、何も処罰されずに赦されることはすなわち不正だと思います。主人が家来の負債1万タラントンを帳消しにしようというのも、明らかに不正です。家来が仲間の100デナリオンを取り立てたのは、言うならば公正なことです。でも、それでは本当のところ人間は生きられないのです。神様は私たちが生きるものとなるように、私たちの罪を赦し、独り子イエス・キリストを十字架につけられたのでした。私たちが赦され、神の独り子が十字架にかかる、これは私たちのために神様がしてくださった不正ではないでしょうか。裁かれるべき相手を友と呼んでくださる。このようにしてまで神様は私たちを赦してくださっている。それゆえ私たちがなすべきは、互いの罪を赦しあっていくこと、それしかないのです。

(2001年3月11日 礼拝説教)