番町教会説教通信(全文)
2018年3拝説教 「主の慈しみは決して絶えない」 牧師横野朝彦


  哀歌3・1‐33

今日の午後、献堂式を行います。ついにこの日を迎えたという思いが強くあります。献堂式のときに配布させていただく献堂報告書に記されているところですが、日本テレビから、四番町の土地建物を買いたいと申し出のあったのが、2008年のことです。それからすでに10年が経過しました。さらにさかのぼれば、地域再開発の計画が持ち込まれ、「四番町街づくり協議会」が設立されたのが、2000年ちょうど。今から18年前のことです。このときの開発計画は、きわめて怪しげなもので、番町ヴィラに権利を持つかたのなかに、金銭的被害を受けるかたも出てきました。

振り返ってみると、実に山あり谷あり、いや谷を歩くことのほうが多かった、谷底を何度も歩いてきました。怪しげな話が持ち込まれたとき、教会は参加を保留しましたので、教会やわたしに対する言葉の攻撃がありました。あるいはまた、教会のなかでも、考え方や気持ちの行き違いから、辛い思いをしたことがありました。

けれども、このような山や谷があっても、今このように献堂の時を迎えることが出来たことは、ただただ主なる神の導きによるほかありません。

あるいはまた、2000年以降の怪しげな話も、そのお蔭で建て替えの問題を真剣に議論し始めることができました。また2002年から建築会計を開始し、積み立てを始めたのも、そのことのお蔭です。さらに、東日本大震災は番町ヴィラ権利者の多くの気持ちを、建て替えへと一致させました。それぞれ利害がある関係が、震災というできごとのゆえに、全員ではありませんが、一致へと向けさせたのでした。

そのような歴史、歴史というほどのことではない過去の経緯でありますが、振り返るときに、聖書の御言葉、パウロがローマの信徒に宛てた手紙の中で書いた、神はわたしたちと共に働いて、万事を益としてくださるということを、真実であると思わないでおられません。ローマ8章28節です。口語訳聖書で読みます。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」

自分で言うのもどうかと思いますが、よくまあ乗り越えてきたなあというのが実感としてあります。なんとかやって来られたのはどうしてだろうか。そのときどきは悩み苦しみましたから、あまり大きなことを言うことは出来ませんけれど、やはり、万事を益としてくださる神がいてくださることを知っていたからだと言うことができます。

あるいは、「主に任せよ、汝が身を」という讃美歌の言葉が、どこかにあったのだろうと思います。この讃美歌の一節は、当然のことながら聖書の御言葉から来ています。「主に任せよ」というそのままの言葉は聖書にはありませんが、次の言葉を引用しておきます。詩編37、4節、「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」詩編55、23節、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」また、ペトロの手紙一5章7節の言葉も心に留めたいものです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

聖書は、神に信頼しなさいと教えてくれています。主にゆだね、主に任せなさいと教えてくれています。主にゆだねるとは、自分はなにもしないということではありません。神に任せてしまって、あとは知らないということではありません。そうではなく、結果を主にゆだねて、自分のなしうるかぎりのことをしていくことです。そしてそれは、困難を乗り越えさせる力となります。

人は生きる限り、困難に出会うことは避けられません。ゆえなき非難に出会うこともあるでしょう。非難を受けたときには、己を振り返り、反省することが必要なのは言うまでもありませんが、しかし、どうにもならなくなったとき、わたしはいつも思っていました。神さまが知っておられる。自分の正しさも、自分の過ちも、神さまがすべて知っておられる。そのことのゆえに、どのようなときにも、投げ出すことなくやって来ることができたと思うのです。どのようなことがあっても、どのようなときにも、主が共に働いて、万事を益としてくださる。このことへの信頼をもって歩んでいきたいものです。

そして主への信頼について、今日お読みいただいた聖書の箇所では、次のような印象的な言葉で歌われています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」ここでは、神さまの慈しみに対する絶対的な信頼、神さまの憐れみに対する信頼が書かれています。朝ごとに新たになる、日々に新たになると、明日への希望が述べられています。

今日は、旧約聖書から哀歌3章1‐33節を読んでいただきました。日本キリスト教団の聖書日課は、本日受難節第5主日の聖書朗読箇所として、哀歌3章1‐9節と、18−33節をあげていますが、ここでは1−33節を読んでいただきました。

22−23節の御言葉は、わたしにとって忘れられない一節です。というのは、今からちょうど10年前の7月のことです。わたしが若いころ世話になった牧師、三鷹の教会の牧師から電話がかかってきました。急に会いたいというのです。どうしたのかと思いました。指定された面会場所は病院でした。

行ってみると、彼はその病院に入院中でありました。彼はわたしに、二つのことを頼みたいと言われました。ひとつは、娘の結婚式の司式をしてほしいということ、そしてもう一つは自分の葬儀をしてほしいということでした。わたしは驚くとともに、彼の人生の最後にこのような大事なことをわたしに頼んでくれたことに、感謝の思いを持ちました。それから4か月後に彼は天に帰っていきました。葬儀はわたしがさせていただき、また娘さんの結婚式も、10月初めころだったでしょうか、させていただくことができました。

その彼が、病院で自分の葬儀を頼むと言われたときに、葬儀の説教は哀歌3章22−23節を読み、聖書の話をしてほしいと言われました。彼自身の愛読、愛唱の聖書箇所だったのでしょう。この言葉に支えられていたのでしょう。そしてそれとともに、この箇所を読んで葬儀をして欲しいと頼まれたわたし自身を支える言葉となり、わたしにとって、忘れがたい、大切な聖書箇所となったのでした。

哀歌。読んで字のごとく、哀しみの歌です。一般にエレミヤ哀歌と呼ばれています。エレミヤという預言者が歌った悲しみの歌と考えられてきたからです。実際にはエレミヤ本人ではなく、複数の人であったと考えられていますけれど、エレミヤと同時代の人で、エレミヤと同じように苦悩の体験のなかでこれを歌ったのです。

紀元前6世紀、ユダの国はバニロニア帝国によって滅ぼされ、多くの人がバビロンに連れて行かれました。遠く故郷を離れ、親しい人たちとも生き別れ、死に別れ、人々はどうしてこのような苦しみにあわなければならないのかと嘆きました。哀歌の背景には、バビロン捕囚の哀しみ、苦しみがあります。

1章の冒頭は、「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が」という言葉で始まっています。かつて繁栄を誇り、人々が行きかっていた都エルサレムが、閑散としてしまっていることを、孤独に座っているという表現で歌われています。1章から、いくつか言葉を拾い読みします。「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き、異国の民の中に座り、憩いは得られず、苦難のはざまに追い詰められてしまった」、「これほどの痛みがあったろうか。わたしを責めるこの痛み」、「それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、わたしの目よ涙を流すがよい」、「わたしはこうして呻き続け、心は病に侵(おか)されています。」

1章の初めも、2章の初めも、最初の言葉は「なにゆえ」です。なにゆえこのような苦しみにあわなければならないのですか、どうしてですか。それゆえ、日本語の聖書では、哀歌、哀しみの歌となっていますが、もともとは、冒頭の単語を使って、「なにゆえ」というタイトルです。そしてこれは哀歌全体の内容をよく表す言葉になっています。それはただ悲しみを歌っているだけではなく、嘆きの底から神さまに向かって深刻な疑問を投げかけているのです。

そして3章もまた、自分を襲った苦しみをこれでもかこれでもかというほどに、書き留めています。1節は、「わたしは主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」という言葉で始まっています。そもそもこの人が受けた苦しみは、主の怒りの杖だというのです。

「怒りの杖」といわれているように、神が罰を与える時の道具としての意味を持っています。哀歌を歌った詩人は、バビロン捕囚の苦しみを、人間の罪のゆえであると、信仰的に受け止めていました。そして、このことから逃れる道を、ただ神の赦しと救いに求めたのでした。

4−17節は、人間的な苦しみの数々です。それもとても耐えられないほどの、厳しく辛い苦しみの数々です。4節、「わたしの皮膚を打ち、肉を打ち、骨をことごとく砕く。」わたしはこれを読んで、その昔ヨブが体験した苦しみを思わされました。14−15節、「民は皆、わたしを嘲笑い、絶え間なく嘲りの歌を浴びせる。わたしを苦悩に飽かせ、苦渋を飲まされる。」これを読むとき、主イエスの十字架を思わずにおられません。

このような苦しみの極みのなかで、哀歌の詩人は言うのです。18節、「わたしは言う。『わたしの生きる力は絶えた。ただ主を待ち望もう』と。」この言葉をしっかりと味わいたいと思います。わたしの生きる力が絶えたというほどの状況、すべてが絶望につながるような状況のなかで、詩人は、「ただ主を待ち望もう」というのです。言い換えれば、ただ主を待ち望むところに、希望が残されているということです。

哀歌全体について、もう少しお話しをします。詩編のなかにもいくつもあるのですが、哀歌は各章が22節ある「いろは歌」となっています。3章だけは66節ですが、これは22×3です。ヘブライ語のアルファベットは22文字で、各節の最初の一文字がいろはのい、いろはのろ、つぎはは、となっています。これは、人々が口に出して覚えやすい、人々に親しみ深い歌として作られたことがわかります。

人々は、日常の生活のなかで、自分たちが背負う苦しみはなぜなのかと問い、時には神はどうしてわたしを見放したのかと思える状態を歌い、そしてその歌は、途中で転調し、絶望の淵にあった詩人の心は、希望へと変わり、神への信頼と賛美の歌として、人々の口に歌われていったのでした。

わたしは、今回この箇所を読み返していて、今から30数年前のことを思い出しました。わたしより20歳ほど年上のかたでありましたが、ご病気のために60歳で天に帰って行かれました。亡くなられる1週間ほど前に、病院に見舞いに行きました。枕元には、よく読み込まれた聖書が置かれていました。そして聖書には、「イザヤ2章22節を自分の聖言とする」と書かれていました。自分の聖なる御言葉とする。その時に読んだのは口語訳でしたの、今も口語訳で読むことにします。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。」言い換えれば、自分は人に頼るのではなく、ただ神に拠り頼むということです。このかたは、被差別部落の出身でした。幼少期からの厳しい生活、受けてこられた差別、そういったことと重ね合わさって、わたしにとって、この聖書の御言葉がわたしにとっても大切な一節となりました。

哀歌に話を戻します。「なにゆえ」という言葉で書き始められ、哀しみの言葉が書きつらねられていた哀歌は、3章18節の言葉を転換点として、ちょうど音楽において転調があるように、ここから大きく変化します。「わたしの生きる力は絶えた」と今の現実を歌いつつ、「ただ主を待ち望もう」と、主なる神にのみ希望があることを歌い、19節以下で次のように歌うのです。

「苦汁と欠乏の中で、貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそ、わたしの魂は沈み込んでいても、再び心を励まし、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」

これは、漠然と希望を述べた言葉ではなく、どん底ともいえる嘆きを体験してきたものだけが言うことのできる 希望と信頼の言葉です。

イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この深い絶望の底から叫ばれた言葉は、これまで読む人の多くを戸惑わせてきました。この絶望の叫びは、主イエスの心からの叫びであったことでしょう。と同時に、これは詩編22の言葉です。主は十字架上で詩編の言葉を口ずさまれたのだとも理解されています。

詩編22の作者もまた、「なぜ」、「なにゆえ」と問いかけました。嘆きのなかでの問いかけの言葉を書き表しました。詩編22を読み進むと、ここでも途中で大きく転調していることに気付かされます。冒頭で「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と歌われるこの詩は、「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」と歌い、最後の節では、「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ」、「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます」と、主への賛美の歌となるのです。

十字架の上で詩編の言葉を口にされた主イエス・キリストは、十字架の死ののち、甦りの栄光をあらわされ、わたしたちに永遠の命の希望を与えられたと聖書は証ししています。人間が持つ嘆き、悲しみ、なぜ、どうしてということに、まさしく主イエスご自身によって大きな転調が与えられたのでした。

今日は献堂式の日、わたしたちの教会にとってまことに喜ばしい日です。いっぽう今日は主の受難節第5主日、主の十字架の苦しみを覚えるときです。どのようにこのときを持つべきかと考えさせられました。でも考えてみれば、わたしたちがいただいている喜びは、なんの犠牲もなく与えられたものではありません。主が共に歩いてくださり、主が苦しみを担ってくださったからこそ、今わたしたちは主への賛美ができるのです。

哀歌の詩人が体験した苦しみ、詩編における嘆きの歌と呼ばれる歌を歌った詩人たちが体験した苦しみに比べれば、わたしたちが体験していることなどはまことに小さなものにすぎません。でも、そのようなわたしたちの背負っている重荷、苦しみ、人生の哀しみを、主が共に担い、主が共に歩んでくださっているがゆえにこそ、わたしたちに今日の日の喜びが与えられているのです。

どのようなときにも、主に信頼を持つものとなりましょう。「主の慈しみは決して絶えない」ことを、「主の憐みは決して絶えない」ことを、「それは朝ごとに新たになる」ことを、心に刻みましょう。最後に25−27節を読みます。「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。」

(2018年 3月18日 礼拝説教)