番町教会説教通信(全文)
2018年2拝説教 「人は皆、草のようで」     牧師横野朝彦


  第一ペトロ1・22−25

新しい教会堂が与えられ、最初の礼拝をこのところで持つことが許され、ここまで導いてくださった主なる神に心からの感謝をささげます。またそのために、多くの方が労苦してくださいました。感謝をいたします。

新しいこの礼拝堂、皆さんは中に入られてどのような印象を持たれたことでしょうか。また会堂全体をどのように感じられたでしょうか。人それぞれ、プラスもマイナスも含めて、さまざまな受け止め方があることでしょう。慣れ親しんだところから離れることへの抵抗や、新しいことへの戸惑いなどが出てくるのは当然のことです。

けれども、それらもかなりの程度は時が解決してくれるように思います。時を経ることで、その良さがますます発揮され、またわたしたち自身が新たな発見をしていくのではないでしょうか。

手塚建築研究所は、この教会堂が100年以上使われることを前提として設計されました。外壁はコンクリートにモルタルを塗っただけの簡素なものです。モルタルは均一な平らではなく、左官のあとが残されています。そしてこれは、年月とともに味わいが出るといいます。塔屋の十字架は青銅製でこれも遠い将来にその良さが出てくるという。電気引き込みのための配管が光っているので、これはどうだろうと思ったのですが、それさえも、年月を経たあとの材質感が話題になりました。

建物の美しさを作るのは歳月、年月であると言われます。それは立派な寺社仏閣だけではありません。古い町屋には、ふと立ち止まらせる美しさがあります。西欧の200年、300年使われている石造りの建物も、なんの装飾がなくても美しいものです。たしかイギリスの作家の本だったと思うのですが、その昔読んだ本のなかで、工場の古い煙突でさえ年月が美しさを生み出すと書かれていました。

そんなことをあれこれ考えながら、インターネットを見ていましたら、「経年良化の建物」という言葉に出会いました。普通どんなものでも、経年劣化をするものですが、建物は作り方によって、また使い方によって、劣化ではなく、経年良化することがある。興味深く思いました。

でも、それでは古ければいいのかとなると、それもまた違います。建物は使わなければ傷んでしまいます。京都の町家もそれを人々が使っているからこそ、そこに人の生活の営みがあるからこそ、美しくなるのでしょう。使わなければただの廃屋でしかありません。

とすれば、まさに教会はそこでなされる働きによって建物を美しくされていくに違いありません。そしてその働きとは、礼拝であり、祈りであり、交わりであり、また社会に開かれた奉仕する活動であろうと思います。それらが活発に、生き生きとしていくこと、また通りがかりの人や、この近くにお勤めのかたなどが立ち寄ってくださることによって、新しい会堂もよりよくなっていく、また美しさが生み出されていくのだと思うのです。

この教会堂は、まだ完成していないと思います。建築という意味では建て終えました。献堂式を3月に予定しています。でも教会としてはこれからだと思います。今年のクリスマスにオルガンが入りますので、そこでもう一歩完成に近づきます。でも、それでもまだ完成はしていません。それは、この教会に集う人たちの礼拝や祈り、そこで聖書が読まれること、賛美が歌われること、またここに新しく人が集っていくということによって、キリストの教会になっていくのだと思います。

長島曙教会という教会があります。ハンセン病元患者さんたちが住む長島愛生園のなかにある教会です。ハンセン病は誤解や偏見、差別によって長い間患者さんたちは隔離されていました。世間とだけではなく、家族からも切り離されていました。島から逃げ出そうとした人が海に溺れて亡くなったことなど、悲しい歴史が伝えられています。

療養所内には国立であるにもかかわらず、いくつもの宗教施設があります。教会はひとつだけですが、仏教はいくつもの宗派のお寺があります。隔離された人たちはそこで一生を終えることになるからです。

長島曙教会を訪ねたとき、曙教会の大嶋得雄牧師が言われた言葉を覚えています。「この教会の壁には祈りが染みこんでいる」、そのように言われました。元患者さんたちが島に隔離された、その置かれた状況のなかで、そこでは心からの祈りがささげられていました。それは教会の壁に祈りが染み込むような切実な祈りでした。

教会堂が建てられたあと、その建物に人々の祈りが壁に染み込むような、あるいは祈りが染みつくような、あるいはまた賛美の歌が染みこむような、聖書の言葉が染みこむような、そのようになってこそ、建物は初めて完成と言うことができるのかもしれません。この礼拝堂はコンクリートに漆喰の壁ですけれど、でも祈りと賛美はきっと漆喰の隙間にでも染みこんでいくことだと思います。染みこむにはいったい何年かかるでしょうか。100年では足らないかもしれません。でもそのような祈りを持ってこの会堂を用いていくことこそ大切ではないでしょうか。

さて今日は新約聖書ペトロの第一の手紙1章22−25節を読んでいただきました。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」とても心に残る大切な聖書の言葉です。

この言葉はもともと旧約聖書イザヤ書に書かれているもので、イザヤ書40章6ー8節には次のように書かれています。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

わたしたち人間、肉なる者としての人間は、まるで草のようだと述べられていました。今日の個所は、まるで詩編の詩を読むようで、心に響いてきます。どんなに永らえてもそれは野の花のようなものに過ぎないと言われています。

このような人間理解は、誰もが認めるものです。浄土真宗の葬儀で読まれる蓮如の「御文」あるいは「御文章」のなかにも、「されば、朝(あした)には紅顔ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて」と述べられているとおりです。まさに、草は枯れ、花はしぼむのです。

けれども、蓮如の言葉にしても、聖書の言葉にしても、人の世のはかなさや無常を言っているだけではありません。このように儚いものだから、刹那的に生きればよいとか、諦めればよいと言っているわけではありません。そうではなく、わたしたちには真に頼るべきもの、永遠なるものがあると言っているのです。

わたしたちには、枯れた草、しぼんだ花ばかりが目につくかも知れません。でもそうではなく、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」とあるように、わたしたちは神さまの永遠のなかに置かれるのです。草は枯れ、花はしぼむというのは、儚さを言っているのではなく、むしろ神さまの永遠をわたしたちに告げる言葉なのです。

旧訳聖書コヘレトの言葉3章に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という有名な章があります。「破壊する時、建てる時」、「求める時、失う時」、「泣く時、笑う時」といった言葉が続き、そして次のように言われています。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」

人が生きる歳月は長い歴史のなかのほんのひとこまにすぎません。一瞬と言ってもよいほどでしょう。しかし、そのようなわたしたちではあるけれども、わたしたちには永遠を思う心が与えられているのです。

パスカルは「パンセ」(瞑想録)のなかで、「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」と言いました。この言葉の直前でパスカルはこんなことを言っているのです。「天体の描く広大な軌道にくらべては、この地球も一点のように見え、さらにこの広大な軌道それ自体といえども、天空をめぐるもろもろの天体がとりまいている軌道にくらべては、ごく微細な一尖端にすぎないということに驚くがいい。」「われわれの想像がその思考のなかに自分を見失ってしまうということこそ、神の万能について感知しうる最大のしるしである。」

つまりパスカルは、この宇宙の中で地球さえも、さらには天体の運行さえも、宇宙全体の中では小さいものであり、ましてや人間存在などなんと小さいことかと考えます。そして人間は弱く小さな存在だけれど、しかし神さまを考えることが出来ると言っているのです。

パウロはコリントの信徒に宛てた第二の手紙4章で言っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

主イエスは山上の説教において、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」と言っておられます。草は枯れ、花はしぼむのです。けれども主イエスは同時に言われました。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださる。」わたしたち人間、肉なるものは実にはかなく弱く脆い存在でしかありません。でも、そのようなわたしたちであっても、永遠なる神の働きがあるのです。

主イエスはまた、山上の説教において、「地上に富を積んではならない」と言われました。なぜなら、そこでは虫が食ったり、さび付いたり、また盗人が入ったりする。それゆえ富は天に積みなさいと教えられました。わたしたちは、はかなくも過ぎ去るこの世にあって、永遠なるものに目を注いでいくのです。また、永遠を思う心が与えられているのです。

ところで、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」、この言葉の背景にはどのようなものがあるのでしょうか。ペトロはこの手紙の1章の初めのところで、あなたがたはキリストの復活によって新たに生まれさせられ、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐものとされたと言っています。数々の試練があり、悩まなければならないことが多くあるが、それによって失望することなく、神によって新しく生きるものとされたことを覚えなさい。草は枯れ、花は散るけれども、主の言葉は永遠なのだ。このように、ペトロは述べています。

なおここで、「主の言葉は永遠」というのが、わかるようでわかりにくいものです。主の言葉、それは主なる神の救いの約束、あなたと共にいて救い出すという、救いの約束の言葉です。

そしてこの24節の言葉はすでに話したように、旧約聖書イザヤ書40章からの引用です。そして40章から55章は、最近にもお話をしましたが、第二イザヤと呼ばれており、バビロン捕囚からの解放を伝える預言です。紀元前586年、ユダ王国はバビロニア帝国によって滅ぼされました。そして人々の多くが異国の首都バビロンに連れて行かれたのでした。

異国バビロニアは権勢を誇り、また街には巨大な建物、それこそバベルの塔を思わせるようなジグラットと呼ばれるものもありました。そこに連れて来られた人々は自らの不幸を嘆きました。またエルサレム神殿から遠く離れてしまったために、神はどこにおられるのだろうとも考えました。137に「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」と書かれているとおりです。

そしてこのように国を失って嘆きの底にある人々に向かって、イザヤは神の救いを預言します。地にあるものはいつか滅びる、しかし神さまがわたしたちに与えられた救いの約束はけっして変わることがない、預言者である第二イザヤはそのことへの強い確信と信頼を持っていました。

第二イザヤのメッセージは、52章途中から53章におよぶ「主の僕の歌」でいわば頂点に達します。そこで歌われている苦難の僕の姿は、苦難を己が身に引き受けられた主イエスの姿を思い起こさせるものです。

第二イザヤは、「草は枯れ、花はしぼむ」と言いました。この言葉から人の世の儚さを感じます。「夕(ゆうべ)には白骨となれる身」という言葉に通じるものがあります。でも実はそれだけではありません。第二イザヤはある意味もっと大きくものごとを見ていました。第二イザヤはなによりも自分たちの国が滅んだことを、身をもって知っていました。あの栄華を誇るソロモンの王国でさえ滅んだのです。

さらに第二イザヤは、預言者として、これから起こることをも見通していました。すなわち、バビロニア帝国落日の日を見ていたのです。自分たちを支配していたバビロニアが滅びるのを、はっきりと見通していたのです。

しかしこのとき彼はもうひとつ、非常に大事なことをこれまた実感として持っていました。それが先ほどの箇所に続けて述べられている言葉です。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」いかに巨大な帝国であっても、滅びるときが来る、けれども神さまの言葉は永遠であると、このことを彼は確かな信仰としてもっていました。

さて話を最初に戻します。手塚さんはこの会堂を100年持つものとして設計してくださいました。設計を依頼して間もないころのやり取りで覚えていることがあります。設計を依頼したときに、わたしたちは町に溶け込んだ建物をということを考えました。けれども手塚さんは、町の風景はこれから変わる、しかし教会は変わらないと言われました。これにはなるほどと思いました。

この、「教会は変わらない」という言葉の代わりに、「主の言葉は永遠に変わらない」という言葉と言い換えてもよいでしょう。これから周りの風景は変わっていきます。げんに北隣の家も売りに出され、通りを隔てた広い家は雙葉学園が買い取ったと聞いています。周りの風景は変わっていくでしょう。けれどもここに建てられた教会が語っていく神の言葉は変わらないのです。

さらに言わせていただくならば、100年を視野に入れたこの会堂も、それでは200年経てばどうなるのか、300年経ったとき、やはり建て替えがされているのではないか。しかしそれであっても、草は枯れ、花は散っても、虫が食ったり、さび付いたり、また盗人が入ったとしても、それでもこの会堂には変わらずに残るものがある。

それは、主の言葉であり、主の救いの約束です。そしてそのことを信じて集まる群れであるわたしたちの、祈りや賛美や、聖書の言葉が読まれることや、また社会的に開かれた奉仕のわざが、この会堂の壁に染みついていく。仮にこの会堂が百何十年先に寿命が来たとしても、その染みついたものは、永遠に続くのではないでしょうか。

(2018年 2月11日 礼拝説教)