番町教会説教通信(全文)
2017年9拝説教 「希望によって救われている」  牧師横野朝彦


ローマ8・18‐25

先週水曜日、建築委員会の常務会メンバー、ステンドグラスを製作してくださる井上千恵美さん、ほかに音響関係の会社のかたなどが集まり、六番町の建設現場を見ることができました。その日は薄曇りで、時々日が差すという天候でしたが、礼拝堂内はとても明るく、広く感じられました。

今日午後に建築協議会を持ち、そのあと六番町の現場を開けてくださいますので、ご希望のかたとご一緒に行きたいと思います。水曜日には、天窓に何種類かのステンドグラスを当ててみて、その色の具合や光の入り方を調べました。とても興味深いものでした。

建設はすでに工程の半分以上を終えることができましたが、大きな問題、小さな問題、次々と起こってきます。先週1週間だけでも3つものことで弁護士の先生に相談をし、動いていただきました。10月末で現在のこの場所の権利を失うのでありますが、そのあとも数カ月間この場所を使用するための契約書や、六番町の土地に隣の塀が傾いて入ってきていることなどなどです。

契約書を読んでも専門用語の意味がよくわからず理解することさえ難しいものがあります。また交渉事もたくさんありますから、どうしたものかと困ってしまうことがあり、正直なところ大変です。どうしてこんな大変なことをしているのだろう。自分の力の及ぶところではない、そんなことを思いながら、それでも投げ出さずにやっているのは、職務ということもありますが、それ以上に完成したときの喜びを希望として持っているからに違いありません。

先週水曜日に新会堂のなかを見ることができたのは、与えられている希望の一部が形と現れてきたということですから、これからしなければならない多くのことへの励みとなるものでした。

もっとも、それでは来年になって新会堂が完成すればそれでわたしたちの希望はそれで終わるのかと言えば、そうではありません。否むしろ、さらなる夢と幻を持ち、希望をもって共に歩む、それが教会です。それは、わたしたちのこの教会という建物、教会という組織だけのことではなく、より大きな言葉で言うならば、神の国を待ち望む信仰です。争いに満ちるこの世界に、神の平和が来るようにと待ち望む信仰です。

東西ドイツの壁が壊れる少し前に、ドイツ人によってドイツの問題について書かれた本があります。著者はドロテー・ゼレ、そのタイトルは「幻なき民は滅ぶ」というものでした。わたしは、この本の内容もそうですが、それ以上にこの本のタイトルに心ひかれました。

このなかでゼレは東西ドイツ、東欧、あるいは南アのこと、さらにチェルノブイリのことなどを具体的に論じています。しかしこれは政治の本ではありません。私たちに幻を思い起こさせる本だと言えばよいでしょうか。ゼレはこれらの具体的なことを述べながら、わたしたち教会は、神の御国を待ち望むのだと述べます。教会がこの世にあってなるべきことは、より大きな幻を持つこと、御国の幻、つまり神の国の来ることを待ち望むことです。

そしてゼレは人類のもっとも古い幻を忘れてはならないと述べ、イザヤ11章を引用します。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」

そして事実、ゼレがこの本を書いてしばらくして東西ドイツの壁が崩れる体験をしました。人種隔離政策をとっていた南アは大きく変化しました。これは偶然そうなったのではありません。ある人々がこのための幻を抱きつづけ、希望を抱きつづけたからに違いありません。どちらも教会が大きな役割を果たしました。

会堂建築の話から、急に大きなことに話題が変わりましたけれど、わたしたちは目の前の具体的な課題に取り組み、会堂の完成の日を希望として持っているのでありますが、しかしわたしたちはさらにその先に、より大きな幻を持ち、より大きな夢を持っている。神の国を待ち望むことを希望として抱き続けているのです。

そしてそのようなより大きな希望を持っているがゆえに、わたしたちの前に現れるさまざまな出来事、立ちはだかる困難をも、恐れることをしないのです。教会というところは、恵みを分かち合い、共に神を仰ぐ、礼拝共同体です。聖霊降臨によって教会が建てられたとき、人々は夢と幻を見ました。それを思えば、教会は夢と幻を共にいだく信仰の共同体であるということもできます。困難さを数え上げることよりも、与えられた喜びを数え、感謝の心をもってさらなる希望を抱くのです。

キリスト教は、そして聖書に描かれている人々は、まさにそのように夢と幻を持って歩みました。新約聖書ヘブライ人への手紙11章に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と書かれ、アブラハムをはじめとする信仰の先輩たちのことが取り上げられています。

アブラハムは神が指し示されたままに、住んでいた土地を離れ、行先を知らずに旅立ちます。そして現在のパレスチナ地方にやってきたのでありますが、でもそれが彼の最終目的地ではありませんでした。ヘブライ人への手紙は、そのことを、「実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」と述べています。

昨日、教会学校のデイキャンプがおこなわれました。モーセ物語を取り上げました。その昔、エジプトで奴隷であった民がエジプトを脱出するのでありますが、彼らもまた、神がくださると約束された、「約束の地」への希望をもって旅をしたのでした。旅は40年にわたって続きました。その困難、労苦は並大抵のものではありませんでした。けれども彼らは約束の地をはるかに望み見て、喜びをあらわしたのでした。

話をもう一度建築のことに戻し、わたしたちは形としての会堂をまもなく与えられようとしています。それは本当にうれしいことです。けれども、今わたしたちに求められていることは、ちょうどアブラハムがさらに勝った故郷、天の故郷を求めていたように、わたしたちも、さらなる希望に生かされることだと思います。会堂が与えられ、そこでこれからどのような活動をしていくのか、キリストの愛をどのようにあらわしていくのかが大きく問われています。本当に大変なのはむしろ完成後なのだと思います。そのとき、どのような信仰共同体となっているのか、キリストの体とされる教会の実質が問われているのだと思います。そのような意味で、今このときこそ、わたしたちは言うならば信仰の原点に立ち返らなければならないと思います。

主イエスは山上の説教において、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えられました。マタイ6章33節です。なにかと忙しいのは確かですが、そのような時にこそ「まず、神の国と神の義を求める」ことなのです。

主イエスがマルタとマリアの二人の姉妹の家に行かれたときのことを思い出してください。マルタはイエス先生を接待しようと台所仕事に忙しくしていました。でもマルタは結局主イエスの言葉に聴くという大切なことを後回しにしてしまったのです。あえて申し上げたいことは、あれもしなければ、これもしなければ、そう考えていると、本当に大切なことが疎かにされます。「これらのものはみな加えて与えられる」このことへの信頼を持って、神の御国を待ち望む信仰をしっかり持つこと、それがなにより大切なことだとわたしは思います。

さて、今日は聖書日課に従い、ローマの信徒への手紙8章18−25節を読んでいただきました。この箇所は、「現在の苦しみ」という言葉で始まっています。この「現在の苦しみ」というのが何なのか、正確なことはわかりません。ひとつ考えられることは、ローマの教会が負っている困難です。またいっぽうで考えられることは、手紙の著者パウロ自身の個人的なことです。パウロは重い持病を抱えていました。肉体のとげというべきものでした。

このローマ書8章は、パウロがエフェソで体験したことが背景にあるとも言われています。彼がエフェソでなにを体験したかと言うと、それは第二コリント1章8節に書かれているのですが、彼はこう言っています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」続く1章10節では「大きな死の危険」とも言っています。パウロの伝道に対して、一部の反対者たちが暴動のような形で彼を迫害したのでした。それは死の危険を大きく感じるほどの迫害でした。

福音宣教にあたって、彼はしばしば捕らえられ、投獄され、迫害を身においました。鞭を打たれたことさえありました。船で難破したこともありました。はなはだしいほどの苦労や困難を彼は体験しています。病の苦しみか、迫害の苦しみ、あるいはそれらすべてを含む複合的な苦しみだったでしょう。

けれどもそのような大きく重い苦しみを背負いながら、パウロは言うのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」彼はこのような苦しみのなかにありながら、しかしその苦しみがすべてであり、その苦しみが終わりであるとは考えてはいませんでした。彼はさらにその彼方にあるもの、神が現してくださる栄光を、希望を持って見ていました。

第二コリントで「生きる望みさえ失ってしまいました」と彼は言っていますが、それですべての望みを捨てたのではありません。彼はこの言葉に続けて言うのです。「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」

生きる望みを失ったとき、彼は自分を頼るのではなく、復活の主に頼るようになったと告白をしているのです。そしてこのことのゆえに、彼は立ちあがることが出来たのです。第二コリント4章9節では、「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と書かれています。それこそ倒れても、自分は神の愛のうちに生かされていると信じていたのです。

「現在の苦しみ」、今、パウロが受けた迫害や彼の病気のことなどを述べましたが、それだけではありません。ここでパウロはさらに深く、人間が生きるということ自体のなかにある苦しみを言っています。パウロはローマの信徒への手紙7章でわたしたちの内にある罪について述べています。7章7節以下には「内在する罪の問題」という見出しがついています。そして7章15節でパウロは自分のことを次のように告白しています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

さらに、7章24節では「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と言っています。パウロはこのように述べ、彼自身の内にある罪を告白しています。具体的にどのようなことを指して言っているのかはわかりませんが、パウロの人生体験のなかで、彼は彼自身の内にある罪を告白せずにおられませんでした。

そしてこの言葉は、パウロひとりの言葉ではなく、わたしたち人間たるものが謙虚に己を振り返ったときに、誰もが告白しないではおられない現実です。「現在の苦しみ」とは、外からやってくる困難、外からやってくる迫害、体の痛みや病気、そしてそれとともに、わたしたちの内にある罪との戦いでもあります。

19節で、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」と言われています。さらに20節で「被造物は虚無に服しています」と言われています。パウロはこのような人間の姿を見ています。

今日の箇所で何度も「被造物」という言葉が使われています。そして被造物であるわたしたちは誰でも、すべて例外なく、苦しみを背負っており、そればかりか虚無に服していることをパウロは指摘します。罪に支配され、病や死に支配され、持っていたものが失われ、出来ていたことが出来なくなり、立っていたのに倒れてしまうのです。

しかもそれは、自分でそうしようと思ってそうなるのではなく、私たちの意思をはるかに超えたところでおこるのです。20節でパウロは「それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり」と言っています。服従させた方、ここでパウロは何か悪しき力のことを考えているのではないようです。そうではなく、すべてのことのうちに働きておられる神の意思と受け止めています。私たちの人生にはそれこそ倒れるときもある、虚無に服することもある。しかしそれらはすべて神の御手のうちにあるのだとパウロは考えます。

罪ある私たちにとって、現在の苦しみは避けることができません。でも苦しみにあっても、同時に希望を与えてくださる、滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれると言われているのです。

今のわたしたちの苦しみ、それは言うならば、産みの苦しみとなるのです。パウロは22節で「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」と言っています。産みの苦しみ、それはより大きな喜びを体験するための苦しみに他なりません。

それはすなわち、わたしたちが神の子とされるための苦しみです。己の罪を見つめることは苦しいことです。自分の弱さを認めることは苦しいことです。とても辛いことです。けれども、この苦しみを経ることによって、わたしたちは神の愛と出会い、神が与えてくださるさらなる希望をいだくことができます。

苦しみのなかにあって、希望を持つことができるかどうか、それが私たちの生き方の分かれ道になります。苦しみの中で希望を捨てたとき、それは終わりを意味します。しかし苦しみの中でもなお希望を持つならば、それは新しい命の始まりになるのです。そもそも目に見えるものを望むことを希望とは言いません。すべてスケジュールどおりに行くのならば、そこには感謝も喜びもありません。でも私たちの人生は私たちのスケジュールどおりにはいかない、思うようにはならない、だからこそ私たちは待ち望むのであり、希望を抱くのです。24節、25節、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

教会は問題点や困難さを数えるところではなく、恵みを数えるところです。そして感謝の思いを持ち、希望をいだき、喜びをもって歩むべきところです。それは困難や問題の有無の問題ではなく、希望に生きているかどうかです。教会のこれからを考えるにあたっても、困難なことを数えて働きを制限するのではなく、そこにこそ神の恵みが働くということを信じていくところです。

わたしたちは小さな群れにすぎません。できることはわずかです。けれどもわたしたちは、大きな幻を持っています。大きな希望を持っています。それは神の国を待ち望む希望。御国が来ますようにという大きな希望です。そしてその希望によってわたしたちは救われているのです。

(2017年 9月 3日 礼拝説教)