番町教会説教通信(全文)
2017年8拝説教 「和解のつとめ」        牧師横野朝彦


第二コリント5・14‐6・2

今日、8月第一の日曜日は、日本キリスト教団の行事歴で「平和聖日」です。神の平和があるように、天に栄光があるように地に平和があるように、心から祈りたいと願います。8月は、私たちの国にとって、特に平和について考えさせられることの多い月です。もちろん平和は、8月だけの問題ではなく、日々覚えなければならないのでありますが、広島の原爆記念日、長崎の原爆記念日、そして敗戦記念日を過ごしつつ、私たちの国が過去に犯した過ちを悔い改め、この国が、そして世界がこれから平和であるように、また紛争解決の手段として武力を用いないことを、固く誓っていかなければならない、8月はそういう月であると思います。

敗戦記念日である8月15日には、朝7時から千鳥ヶ淵戦没者墓苑で平和祈祷会が持たれます。これらのことを覚えたいと思います。わたしたちの教会と関係の深い弓町本郷教会は、8月13日に講演会を持たれます。ちょうどわたしたちの教会でも牧師招聘についての学習を、霊南坂教会の後宮牧師を招いておこないますから、日にちと時間が重なってしまったのはとても残念です。

弓町本郷教会の講演会は、京葉中部教会の山本光一牧師が講師を務められます。講演の題は「キリスト者の責任と応答 マルティン・ニーメラーの生涯から」というものです。ニーメラーは1892年生まれの牧師です。ヒトラーのユダヤ人追放政策に反対をし、1937年から1945年まで収容所に入れられていました。ニーメラーについては、月刊誌「信徒の友」8月号巻頭に、ニーメラーの有名な言葉が書かれています。そして宮田光雄先生がニーメラーについて書いておられます。ぜひお読みください。

また宮田先生の文には、何年か前から耳にする「積極的平和主義」という言葉の本来の意味について述べられていました。国際政治の研究者の間で、「積極的平和主義」とは、人間の解放や自由を実現すること、平等や社会正義を実現することであって、すべての人が違いを越えて等しく人間らしく生きる希望と能力を育成されるような社会だということです。そして力で抑えるのは消極的平和でしかありません。キリスト者は、人間の解放や自由を祈り求め、平等や社会正義の実現を祈り求める、それこそ積極的な平和を祈り求めるものでありたい、またあらねば、と思わされます。

今日はコリントの信徒への手紙二5章14節から6章2節までを読んでいただきました。これは聖書日課にしたがって選んだものです。今日は平和聖日ですので、どこか平和について書かれた別の箇所にしようかと思ったのですが、与えられた箇所を読んでいて、この箇所こそ平和聖日にふさわしいと思わされました。

それと、言いましたように今日の聖書の箇所は聖書日課にしたがったものですが、偶然にもこれは2017年度のキリスト教一致祈祷週間の聖書朗読箇所にあたります。一致祈祷週間の聖書箇所は、5章14節から20節までです。

キリスト教一致祈祷週間は、毎年1月半ばに、カトリック、プロテスタントの隔てを越えて、共に一致のために祈る1週間で、世界中でそのための集いが持たれています。ちょうど10年前になりますが、神田カトリック教会を会場に開催されたときには、わたしも計画段階から加わりまして、礼拝説教をさせていただきました。2007年の祈祷週間の準備をしたのは、南アフリカの教会であり、HIV感染者などのため共に祈ることがテーマになっていました。

今年、東京ではカトリック蒲田教会と聖公会の東京聖三一教会で開催されました。今年のテーマは、「和解―キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」です。第二コリント5章のキーワードである「和解」がテーマとなり、副題として、14節の聖句が用いられています。そして、今年のテーマや聖句、そのための準備をしたのはドイツの教会でした。

このような集会があったのか。その程度に受け止められたかもしれません。でもこのことは考えれば考えるほどに、大きな意義、歴史的出来事であったとわたしは思います。なぜかと言うと、今年は宗教改革500年ということと関係があります。宗教改革500年、マルティン・ルターがヴィッテンベルグの城教会の門に、95か条の提題を貼り出したのが、1517年10月31日のことでした。

実際には、それより前から改革の動きはありましたけれど、ルターの働きは大きく時代を動かし、これによって教会はローマ教皇を頂点とするカトリックから分かれて、プロテスタント教会が生まれたのでした。これ以降、プロテスタント教会は、聖書中心主義、信仰義認、万人祭司という3つの原理を大切にしてきました。

でも、このことは結果として教会が大きく二つに分裂したことになります。わたしがまだ若かったころ、わたしの頭のなかのカトリック教会といえば、16世紀より前のカトリックのままで、古い体質を引きずったままのイメージを持っていました。いっぽう、カトリックの人たちからしてみれば、プロテスタントといえば道を踏み外した可哀想な人たちというものでした。そして両者が互いを知ろうとすることはほとんどありませんでした。

カトリックとプロテスタントに交流が生まれたのは、1962年から1965年の間に開かれた第二ヴァチカン公会議によって、カトリック側が門戸を開いたからでした。それ以降、さまざまな交流が生まれ、現在では、新共同訳聖書、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した聖書が用いられています。カトリックでは、前にはキリストの名はイエズスでありましたが、現在はイエスとなっています。

話を戻し、このように分裂していた教会に交流が生まれ、そして500年にあたる今年1月のキリスト教一致祈祷週間において、「和解」がテーマに取り上げられたのでした。この祈祷週間のために何年にもわたっての準備がされました。またルターの教えを教派として引き継ぐルーテル教会とローマカトリック教会は、共同で作業をおこない、「争いから交わりへ」という歴史的な文書を公にしました。そのなかで、カトリック教会はルターのことを「福音の証人」であると認めたのでした。

一致祈祷週間に、世界各地で教派を越えた礼拝が持たれましたが、ローマ教皇フランシスコは、「キリスト者間の真の和解は、わたしたちが互いの賜物を謙虚と素直さをもって理解し合い、人から自分を学んでもらうことを待たずに、自分から先に人を学ぶことによって実現することができる」と説教しました。

各地でおこなわれた礼拝は、いろいろな形式でされたことと思いますが、このために用意された冊子には、礼拝の持ち方の例が詳しく出ています。礼拝には12個の石が用意されました。実際には石ではなく、包装した箱などです。そして12人の石の運び手がそれを礼拝堂に持って入り、それで壁を作るのです。それらの石には文字が書かれています。

最初の石には、「愛の欠如」と書かれています。司式者が言います。「わたしたちの壁にある石の一つは、『愛の欠如』です。」石の運び手が「愛の欠如」と記された石を置き、運び手が言います。「恵み深い神よ、キリストの愛は、愛せない時にはいつもゆるしを求めるようわたしたちを駆り立てます。へりくだった心で祈ります。」そこで会衆一同が祈ります。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」

次に司式者が言います。「わたしたちの壁にある石の一つは、『憎しみと軽蔑』です。」このように式が進められ、12個の石によって壁が作られます。12個の石に書かれた文字は、「愛の欠如、憎しみと軽蔑、不当な告発、差別、迫害、失われた交わり、不寛容、宗教戦争、分裂、権力の乱用、孤立、高慢さ」でした。

このあと、聖書朗読や賛美、説教と続き、壁は壊されます。12個の石は十字架の形に並び替えられます。石の運び手がそれぞれ言葉を言いますが、ここではそのうちの一部を読みます。「創造主である神よ、あなたはご自分の姿にかたどってわたしたちをお造りになり、御子イエス・キリストを通してわたしたち をあがなってくださいました。人間家族全体をあわれみ、見守ってください。わたしたちの心を汚す傲慢さと憎しみを取り除いてください。わたしたちを隔てる壁を崩してください。愛のきずなによってわたしたちを一つにしてください。」

このように、礼拝のなかで壁を作り、それを壊す、今年の一致祈祷週間の準備をしたのはドイツの教会であったと言いましたように、ここには東西ドイツを隔てていた壁が象徴されています。祈祷週間の冊子にも次のように書かれていました。「1989年のベルリンの壁の崩壊の発端は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)で始まった、窓際や戸口にろうそくを置いて自由のために祈る平和祈祷運動でした。」

キリスト教一致祈祷週間のことを長く話しました。そして今年の祈祷週間の聖書箇所は、コリントの信徒への第二の手紙5章14‐20節でした。そしてこの箇所の冒頭で聖書はわたしたちに語ります。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」

なにがそんなにわたしたちを駆り立てているのか、それはキリストの愛であると。そしてその内容が続いて言われています。「一人の方がすべての人のために死んでくださった。」すなわち、主イエス・キリストがわたしたちのために命を捨ててくださった。この愛にふれたわたしたちは、もはやじっとしてはおられない。なにかしないではおられない。それは、15節にあるように、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

キリストがご自分の命を捨ててまで、大きな愛をあらわしてくださった。その愛によって、わたしたちもキリストのために生きる者になるのです。誰であっても、自分のために生きることを考えることでしょう。けれども、聖書は、「自分を捨て」とわたしたちに勧めを与えています。主イエスはわたしたちに教えられました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」マルコ8章の御言葉です。またマタイ10章や16章、主イエスの受難予告の場面で、主は言われます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

キリストはわたしたちのために生き、死んで復活してくださいました。わたしたちも、自分をささげ、キリストのために生きるときにわたしたちはいのちを得る、聖書はそう教えてくれています。

14節に書かれている「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」、15節に書かれている「自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きる」、わたしたちはこれらの言葉をどれほど真剣に受け止めているでしょうか。

パウロは続けて、これからは肉に従ってキリストを知ろうとはしない、と言います。これはいかにもパウロらしい、わかりにくい表現です。肉に従って、この言葉の意味は、自分の欲望を満足させるためにキリストを知ろうとはしないということです。

これまで自分を満足させることを目的に生きてきたとすれば、それは古い生き方だ。これからはキリストの愛に駆り立てられ、新しく生きるのだ、と。それゆえ17節以下で言われています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

以上のように教えられ、そして続けて和解という、今日の箇所の中心的な言葉が出てきます。18‐19節、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」

和解、それはキリスト教にとって、またキリストにしたがって生きようとする者たちにとって、とても重要な言葉です。裁判において、紛争当事者が相互に譲り合って合意点を見出し、争いをやめることを和解と言いますが、でも日常生活でそれほど使う言葉ではありません。その意味で、聖書が用いている和解という言葉は、聖書独特の意味を含んだ言葉だと考えられます。

聖書は、わたしたちが罪ある存在だと指摘しています。そこで罪とは法律違反ということではなく、神さまの御心から離れていることを意味します。つまりは、人の罪によって、神との間にいわば争いがあるのです。それを仲直りしなければならない、和解しなければならない。でも人間にはそのような力はありません。そこで、神さまのほうから和解の手を差し伸べてくださった。神に背き、神から離れていたわたしたちのために神は御子イエス・キリストを遣わしてくださり、わたしたちに赦しを与えてくださった。それがパウロの語っている「和解」の直接的な意味です。

そして、このように神がわたしたちを赦してくださっているのだから、あなたがたも互いに赦しあいなさいというのが、わたしたちキリスト者に与えられた生き方です。自分自身のことだけを考えるのではなく、他の人のことを自分のことのように考え、愛するものになりなさい。そしてなにより主なる神を愛しなさい。

21節、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」そして6章2節では、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という、美しいともいえる宣言の言葉が記されています。

今日は5章20節「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」から始まり、わたしたちの信仰にとって極めて大切なメッセージが述べられ、そして6章2節の「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という言葉に至りました。そこでわたしは思います。6章2節のこの言葉を聞いたわたしたちは、今再び5章20節に戻って、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」と言うことができるのです。

神の側からわたしたちに赦しが与えられ、和解が与えられました。神から和解が与えられた者であるわたしたちが、どうして他者との間に平和を求めないでおられるでしょうか。

今日の箇所は5章11節からひとつの大きな段落となっています。この段落に新共同訳聖書は、「和解させる任務」という見出しをつけています。わたしたちキリスト者も、一人ひとりがこの使命を与えられています。キリスト者であることを、この世にどうのように現していくのか、キリスト者であることをどのように証ししていくのかが問われています。まさに「キリストの愛に駆り立てられている」と言えるでしょうか。「自分のために死んで復活してくださった方のために生きる」と言えるでしょうか。神から差し伸べられた和解の福音を受け止め、平和への道を歩ませていただきたい。

「愛の欠如、憎しみと軽蔑、不当な告発、差別、迫害、失われた交わり、不寛容、宗教戦争、分裂、権力の乱用、孤立、高慢さ」、このようなたくさんの石がわたしたちの周りに積み重なっています。いや、わたし自身がその石を積んできたのです。キリスト教一致祈祷週間の礼拝では、「信仰のもとに応える 和解に生きる」というところで、石が崩されていきます。壁は分厚く、高く、固いですけれど、神さまのほうから和解の手が延べられています。神から与えられた和解に生き、石をひとつふたつと、取り崩していきたいものです。

(2017年 8月 6日 礼拝説教)