番町教会説教通信(全文)
2017年7拝説教 「道と行いを正し」        牧師横野朝彦

  

エレミヤ7・1−7

聖路加国際病院の日野原重明先生が先週18日に天に召され、ニュースで大きく報道されました。1911年、明治44年10月のお生まれですから、105歳と9か月でした。このかたの手帳にはいつも2年先のスケジュールも埋まっていたと言います。世の中に偉大な人や何かをなしとげた人など立派な人はたくさんおられますが、そのなかでも日野原先生というかたは、またなにか特別なかたのような気がします。わたしの印象でありますが、誰もがこの人を尊敬し、また誰もがこの人への親しみの心をもっていた、そのような思いがします。また、日野原さんというのではなく、先生とごく自然に言いたくなる、そんなかたでした。

ただ、テレビや新聞などのニュースを見て、日野原先生がキリスト者であったことが、ほとんど触れられていません。ニュースというものはいつもそんなものでありますが、残念なことです。

日野原先生は105歳という長い人生を生きられたのですが、今から40年近くも前に書かれた本のなかで、こんなことを言っておられます。「わたしたちが真に生きるためには、いろいろな生き方をした人間に出会うことが大切ですが、そのときに長寿ということは、人間としてなんら問題にならないのです。長寿は、その人を評価する物差しではありません。・・わたしたちが人間として・・人生を深く生きようとする場合に、大切なのは、長さよりも質です。わたしたちが水平的に長く生きることは、近代医学の恩恵によってある程度果たせますが、わたしたちが人間の特権として与えられているその宝を、本当に天に積むためには、わたしたちは、人生のどこかの時点で、自分の人生に垂線をたてるという考えのもとに、新しい次元の行動を開始しなければならないのです。」

これは「生の選択」という本に書かれていた言葉です。生、生きることの選択です。そしてこの本には「水平の世界・垂直の世界」という副題がついています。水平というのは、たくさんの人と出会い、人とのかかわりのなかで生きることです。そしてその人生に垂線をたてる、つまり垂直の線をたてると言われていました。日野原先生はそれを「天に向かって生きることを始める」と言われています。神さまとのかかわりのなかで生きる。それが垂直の世界です。

わたしは一昨日の正午礼拝で、阪田寛夫さんの小説「土の器」のことを話しました。第二コリント4章に書かれているように、わたしたちは土の器にすぎません。けれども神はそのような土の器に、キリストの愛という宝を入れてくださいました。小説「土の器」は、阪田寛夫さんのお母さま、阪田京さんについて書かれた小説です。

日野原先生の「生の選択」の、今引用した文章のなかにも、阪田寛夫さんの「土の器」のこと、阪田京さんが聖書の言葉に生きた人であったと書かれていました。

日野原先生の話をもう少し続けますが、1970年によど号に乗り合わせ、ハイジャックを体験されたこともよく知られた出来事です。ハイジャックで、4日間も機内に拘束されたのでした。そのとき、犯人グループは、自分たちが持ってきた本のリストをあげて、そのなかで読みたいものがあれば手を上げなさいと言ったそうです。日野原先生は手を上げて、ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の文庫本4冊を借りたのでした。

「カラマーゾフの兄弟」は、見開きのページに聖書の言葉が記されています。それは、「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」という、ヨハネによる福音書12章24節の言葉でした。日野原先生は、「わたしは、この聖句をくり返し読んだ。今の不安―自分ではどうしようもないこの『よど号』の中で読むこの聖句には、何か迫るものが感じられる。」「この言葉はわたしに新しい人生観なり価値観を与えてくれた」と、そのときの体験を語っておられます。そして無事に帰国したあと、「許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません」という挨拶状を、関係者に送ったそうです。

日野原先生はまた次の言葉が心に留まりました。それはゾシマ長老の言葉です。「お前にはイエス様がついていなさる。イエスさまを後生大事に守りなさい。そうすればイエス様もお前を守ってくださる。大きな悲しみにも出会うであろう。が、その大きな悲しみの中にも、お前は幸福を見出すじゃろう。・・悲しみの中に幸福を求めよ。働け、うまず働け。よいか。今からこの言葉を肝に銘じておきなさい。」

ニュースでは、その功績についてたくさん紹介されていましたけれど、言いましたように、なにか大切なことが紹介されていない。それは、垂直の世界を大切にして生きてこられたということです。わたしは日本クリスチャン・アカデミーという団体に関わっていますが、日野原先生から毎年献金が届いていました。おそらくほかの団体にも同じようになさっていたのでしょう。その意味で、水平の世界を大切にし、垂直の世界を大切にして生きられました。長寿は人をはかる物差しではないと言われましたけれど、それでもやはり、物差しにしたくなるような生き方をされたと思います。

日野原重明先生のことを長く話しました。今日の聖書の箇所と直接関係なく話させてもらいました。でも、ここで自分を振り返るときに、わたしたちはこのように、水平の世界、垂直の世界をそれぞれ大切にしながら生きているだろうかと、反省をさせられるところです。

他者とのかかわりを本当に大切にしているだろうか。神とのかかわりを本当に大切にしているだろうか。水平も垂直も適当にしているだけで、実は自分ひとりが中心にいるだけで、ところどころ水平とか垂直に短い線を伸ばしているだけではないか。そのように思わされます。

今日は旧約聖書エレミヤ書7章1‐7節を読んでいただきました。聖書日課は、旧約聖書からはこの箇所が、そして福音書からはマタイ7章15‐29節が指定されています。そしてそのどちらの箇所も、信仰を持つということが、ただ言葉だけ、口先だけであってはならないと、鋭い警告として語られています。

エレミヤ書の場合、お読みいただいたように、神殿に入る人たちに向かって次のように警告されています。「主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。『主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。』

エレミヤのこの言葉は、当時の社会の人たちにどう響いたでしょうか。エレミヤは憂国の預言者と言われ、彼の生きた時代と社会が神の御心から離れていることを鋭く指摘しました。けれども人々は彼の言葉を聞かず、かえって彼を捕らえてしまった。またあるときにはエレミヤを捕らえ、水溜に投げ込んだということもありました。

時代に対する正しい批判者として、エレミヤは神との垂直の線がどうなっているのかと問い、そして人々との水平の線がどうなっているのかと問いただしたのです。

「主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」これを今のわたしたちに向かっての言葉とすれば、「主の教会、主の教会という、むなしい言葉に依り頼んではならない」ということでしょうか。仮にこのように誰かが言うとすれば、当然わたしたちは反論をし、そのように言う人を排斥したくなります。とても過激な言葉です。しかしエレミヤはそのように言いました。それはここに集う人たちが「主の神殿、主の神殿」と言いながら、実際の生活が「主の神殿」を尊ぶとはまるで言えなかったからです。

神さまが預言者エレミヤをとおして問題とされたのは、神殿に集う人たちが、自分たちの日常生活を棚に上げて、神殿にお参りをしさえすればよいという、安易な生活態度であったと思います。彼らは神殿に参りながら、実生活はきわめて功利的でした。いやそれどころではない生き方を彼らはしていたのです。5節から6節にかけて、「お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」とあります。このことを全部裏返して考えていただければ、このとき、神殿の門に入っていく人々の生活ぶりがわかります。

すなわち、道と行いにおいて間違いをおかし、正義は失われ、寄留の外国人、孤児、寡婦は虐げられ、無実の人の血が流され、異教の神々に従う人たちがいたという、とんでもない有様です。そればかりではありません。9節にあるように、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従い」と、これはまったくとんでもないことがまかり通っていたようです。

「盗み、殺し」。「盗み、殺し」と言われていることが、現実に神殿に入っていく人たち皆に当てはまるとはとても考えられません。でもどうなのでしょうか。わたしはここで主イエスが語られた山上の説教を思い起こします。主イエスは言われました。マタイ5章21節以下です。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」

自分は殺人などしたことがないと思っていても、人間誰でも、あんな人はいなければよいのにとか、あいつは馬鹿だ、あいつは愚か者だと、人を侮蔑し、その存在を否定してしまっている、それは人を殺すこととどう違うのだという厳しい批判なのです。

そして主イエスは今の言葉に続けて言われます。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」すなわち、礼拝に出席をしようとするときに、誰かのことを憎んでいる自分に気付いたならば、まず和解をしなさい、仲直りをしなさいと言われたのでした。これは大変難しい、厳しい言葉です。けれども、わたしたち人間の真相をついている言葉だと思います。人を嫌い、人を憎み、それはそれ、これはこれとして、礼拝をささげ、神さまから慰めや平安を得ようとする、それはおかしいのではないかと主イエスは言われ、なによりまず仲直りしなさい、和解しなさいとの勧めを与えられたのです。

聖書日課では、エレミヤ7章とともにマタイ7章が指定されていると言いました。そしてマタイ7章では、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と言われています。これも厳しい言葉です。それどころではありません。このように言う人たちに向かってイエスは、「不法を働く者ども」と辛らつな言葉を投げかけています。

マタイによる福音書5‐7章は山上の説教で、「主よ、主よ」と言うものへの厳しい言葉は、山上の説教の終わりの方に出てきます。山上の説教で教えられた教えを守り、おこなう人になりなさいという話のなかで、先ほどの言葉が出てきます。この言葉のすぐあとには、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と教えられています。

「主よ、主よ」と、いかにも信仰深く主の名を呼び求めていながら、天の父の御心、神さまの御心から遠く離れた生き方をしている。いかにも信仰深いかのように言われています。けれども主イエスの言葉は容赦がありません。この人たちに向かって、「不法を働く者ども」と言われています。いかに形式的には正しく礼拝が守られているように見えても、隣人が視野に入っていない礼拝、他者の痛みに鈍感でしかない礼拝は、不法を働く者どもの礼拝と、厳しく言われているのです。

先週の礼拝では、歴代誌下6章からソロモンの祈りを読みました。ソロモンは祈りました。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」

先週の礼拝で、この箇所から学び、神殿は神が臨在する場所ではなく、神の言葉が納められた場所であり、神の言葉を介して、わたしたちは神の御旨を聴き、神と出会う場所であること。そして、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われているように、ここは祈りの場所でありました。神の言葉を聞くこと、祈ること、そして、神の言葉を聞いたものとして、それをおこなう者であることが、求められています。

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」このことを抜きにして、ただ「主よ、主よ」と言っているだけならば、また「主の神殿、主の神殿」と言っているだけならば、それは主が求められるところではないのです。

ボンヘッファーが主イエスの山上の説教を注釈し、ボンヘッファー全集の「キリストに従う」のなかに収録されています。ボンヘッファーは「主よ、主よ」と言うこととについて述べ、「言う」ということは信仰告白であるが、それがしばしば人間の権利要求につながると言っています。自分は信仰者だと言いながら、それがなにか自分をそれでもってよしとしてしまう、そういう姿勢のことです。

いっぽう、「御心を行う」の「行う」とは、たんに行いの大事さを言っているのではなく、むしろ、神の前にへりくだること、服従し、かつ奉仕することであると言っています。「主よ、主よ」という人のなかに、人間の自己義認、自分を義とする傲慢さをボンヘッファーは見ました。そして御言葉を聞いておこなうことに、へりくだりの姿を見たのです。そのことは、今日のエレミヤ書の「主の神殿、主の神殿」という言葉からも同じことが読み取れます。

ボンヘッファーは、友人ベートゲに子どもが生まれ、その子が幼児洗礼を受けるときに、祝福の手紙を送りました。ボンヘッファーはそのときナチに捕らえられ獄中にいました。1944年5月、ボンヘッファーが処刑される約1年前のことです。長文の手紙のなかで、ボンヘッファーは「『主よ、主よ』と言う者が、皆天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである」とマタイ7章の言葉を引用しています。

そして、この手紙の終わりのほうで、ボンヘッファーは厳しい自己批判の言葉を書いています。自己批判、キリスト教批判と言ってもいいかもしれません。「それは、われわれ自身の罪責だ。これまでの長い年月の間、あたかもそれが自己目的であるかのように、ただ自己保存のためにだけ戦って来たわれわれの教会は、人々のため・世界のための和解と救いの担い手である力をなくしてしまった。」本当に厳しい言葉です。そしてこの言葉は、「主よ、主よ」と言う人、「主の神殿、主の神殿」と言う人に向かっても当てられています。

そしてこのように述べ、続けてボンヘッファーが残した言葉のなかでも、よく知られている次の言葉が手紙に書かれています。「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいて成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行なうことだ。」

今日は日野原重明先生のことを最初に述べ、そして終わりにボンヘッファーの言葉を取り上げました。神との垂直の線を大切にすること、そして御言葉に聞き、祈り、行う。水平の線を、神の御旨にしたがっておこなっていくこと。垂直の線と水平の線。それはまさに十字架の形です。

(2017年 7月23日 礼拝説教)