番町教会説教通信(全文)
2017年6拝説教 「翻って生きよ」        牧師横野朝彦

  

エゼキエル18・25−32

今日は旧約聖書からエゼキエルを読んでいただきました。エゼキエル書はなかなか親しむ機会がない文書でありますが、わたしはエゼキエルを読むとき、そこに書かれていることが、まるで今の時代、今の社会、そして今のわたしたちに向かって語られているような思いにさせられます。

その昔、「望楼に立つ」と題する本がありました。ルーテル教会の江口武憲という牧師が書かれたものでした。江口牧師は今から15年ほど前に亡くなられました。この本はエゼキエル書による説教集で、わたしは若い頃にこの本を読み、旧約聖書の預言者の言葉が、そして特にエゼキエル書が、今日のわたしたちの社会への厳しい評論となっており、またわたしたち自身の生き方を鋭く問うていることを学びました。

今日は聖書日課にしたがってエゼキエル書18章25節以下を読んでいただきましたが、この章の1節以下にはこんなことが書かれています。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。」

この諺の意味はつまり、今このわたしの歯が浮いて痛いのは、自分のせいではない、このわたしの歯が痛いのは、先祖が酸いぶどうを食べたからだというのです。もっと分かりやすく言えば、僕が虫歯になったのは、おばあさんが甘いケーキを食べたからだと言うようなものです。いや別におばあさんでなくてもかまいませんで、わたしが虫歯になったのは、友達の誰それが歯を磨かなかったからですと言っても同じです。いくらなんでもそんなことはありえないのですが、こういう諺が現に流行していたということは、自分の責任を認めず、誰か他人のせいにしてしまおうとする風潮が当時の社会に蔓延していたということにほかなりません。

ほかにも有名な箇所で言えば、エゼキエル書13章には、平和がないのに、「平和だ、平和だ」と言う偽預言者のことが書かれています。その場しのぎのことを言って世間をごまかしたりすることを、糊塗すると言いますが、エゼキエル書13章でも、偽預言者がしていることは、漆喰の上塗りのようなものだと言われています。どうやら石垣や壁を適当に積み重ねておいて、漆喰でごまかすということが横行していたようです。そしてエゼキエルは、「それは、はがれ落ちる」と預言します。剥がれ落ちるだけではなく、壁そのものが崩れ落ちると預言されています。

わたしはこの言葉から、このところの政治の動きを思わされました。どうも中身のある議論が出来ておらず、なにかを上塗りしているだけのように見えるのです。昨日の新聞に、津田大介さんというジャーナリストへのインタヴュー記事がありました。

そのなかでなるほどと思ったのは、インターネット社会では、利用者の2極化が進むということでした。ネットが発達し、どんな情報でも簡単に手に入ることができます。たくさんの考え方に触れることができるのですが、実際はそうではなく、自分が信じたい結論が先にあり、それに合致する情報を探し出すのです。ネット社会では反対意見への非難の言葉が簡単に書き込まれます。そして相手の意見を静かに聞くとか、対話ということがおこらないのです。

最近、ポスト真実、post truthという言葉をよく耳にします。アメリカの大統領が明らかな嘘を言って、それでいて人々が支持をしている。このことの根底にあるのは、不都合な事実や現実を認めないという姿勢です。イギリスのEU離脱にもこのことがありました。そして日本の国でもポスト真実というべき話をいろいろと聞きます。明らかな嘘がまかりとおっています。本当に難しい世の中になったものだと思います。

そのようななかで、わたしたちは嘘ではなく、何が本当なのかを見極めていかなければならない、真実を求めていかなければなりません。

5月最後の週の礼拝で、わたしはエフェソ書を取り上げました。そこには「愛に根ざして真理を語る」とありました。ただ真理だけではなく、そこには他者の心に響く愛がなければならないと、エフェソ書は語ります。

今日のエゼキエル書では、漆喰の上塗りを重ねるような社会、今の世の中がおかしいのは、先祖が酸いぶどうを食べたからだというような社会にあって、まず正しくあることを求めています。18章にはある言葉が繰り返し出てきます。それは「正義と恵みの業」という言葉です。5節、19節、21節、さらに27節と4回も出てきます。

そして特に18章の前半では、正義と恵みの業について具体的に語られています。人を抑圧しないこと、飢えた者にパンを与え、裸の者に服を着せることなど、単に正義をおこなうだけではなく、社会的に弱い立場の人に手を差し伸べることが勧められています。

そして今日読んだ箇所30節以下です。預言者エゼキエルは言います。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」

これはとても心に深く入ってくる印象的な言葉です。ここで最初に述べられていた「お前たちひとりひとりをその道に従って裁く」は少々恐ろしく感じるかもしれません。神の裁きの前に立たされるとき、弁解しようのない自分、罰せられる自分を思ってしまうからです。ただここでこのように言われているのは、わたしたちを断罪するためではありません。むしろ後半に書かれていたように、神さまに立ち帰るようにというのが、この箇所の本来の主張です。

ここで、「お前たちひとりひとりをその道に従って裁く」と言われているその理由は、つまり、自分たちの罪や不正義を棚に上げて、自分たちが恵みの業をしていないことを棚に上げて、先祖が悪いのだ、だれそれが悪いのだ、世の中が悪いのだと言っている人たちに対し、いやそうではない、あなたがた一人ひとりが歩んでいるその道が問われているのだということです。

ここで、今日読んだエゼキエル書について少し考えておきたいと思います。エゼキエルという預言者は、紀元前592年に預言者としての召命を受けました。紀元前592年、これを遡る5年前、バビロニアの軍隊が南王国ユダに攻め入ります。北王国イスラエルはそれよりもはるか前に滅んでいます。そしてついに南王国も滅び、住民の多くは遠くバビロニアの国へ連れて行かれます。いわゆるバビロン捕囚です。

この連れて行かれた人々のなかにエゼキエルもいたと考えられています。このような時代、このような場所でエゼキエルは預言者となったのです。彼はこのとき、大きな苦難を自ら負い、そこから預言者として語っていきました。わざわざ遠い国まで強制連行されるのですから、過酷な労働が待っていたことでしょう。そして当時の人々がおそらくさかんに口にしていたのが、「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」という言葉、諺です。

このように国が滅び、異国に連れて行かれるという悲惨な状況について、これはわれわれはどうしようもなかったのだ、これはもう時代がそういう流れになっていたのだ、誰も抵抗しようがなかった、一代前の王さまの時代なら、まだ何とかなったかもしれない、2代前の王さまの時代なら助かっていたかもしれない。でも、もうどうにもならない、われわれの歯が浮いて痛いのは、われわれのせいではない、それは先祖が酸いぶどうを食べたからだと、このように諺を言い合っていたのです。

確かにこの考えかたは古くからありました。出エジプト記などには「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも」といった言い方が出てきます。しかしエゼキエルはもはやそのような考え方はしないのです。そして諺を言い合って、自分には責任がないとつぶやく人々に向かって、エゼキエルは言うのです。「お前たちひとりひとりをその道に従って裁く」と。

18章全体がひとつの段落になり、ここには「各人の責任」という見出しがついています。個人罪責論といいますか、罪を犯した本人の責任が論じられています。だれかほかの人のせいではなく、あなた自身はどう生きてきたか、どう生きているかと問うのです。

そしてそのうえで、悔い改めの呼びかけがされるのです。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」

この呼びかけの言葉に、「新しい心と新しい霊を」と言われていることは、旧約聖書のなかではとても新しいメッセージです。わたしはここに、新約聖書の福音につながるものを感じます。そしてこのメッセージはエゼキエル書に繰り返し出てきます。11章19節には、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける」と書かれています。36章26節には、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と書かれています。

これは、2週間前に聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を守ったわたしたちにとって、聖霊降臨の出来事をそのまま思い起こさせる言葉です。弱く小さく、怖がりで、主イエスのことを知らないとまで言ってしまった弟子たち、彼らが福音宣教者となったのは、まさしく新しい心、新しい霊が、神さまによって与えられたからでした。

そして神はエゼキエルをとおして言われます。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」

ここで、ルカによる福音書15章に書かれている、いわゆる放蕩息子の譬話を思い起こします。彼は父親から相続すべき財産を前もって受け取り、異邦の地に行き放蕩のかぎりをつくしました。この譬で父親は神さまのことです。神さまから多くの恵みを受けていながら、それを感謝することもなく、異邦の地、つまり神を神としない場所に行って好き勝手放題をするのです。

しかしすべてを使い尽し、食べる物にも事欠く状態になったとき、彼は我に返ったのでした。そして父親のところに戻ります。父のもとに帰ったとき、まだ遠く離れていたのに父は彼を認め、走り寄って彼を抱きしめ、受け入れたのでした。放蕩息子のお父さんは、家の外に立って、彼が帰ってくるのをじっと待っていました。お父さんは彼が立ち帰るのを心から望んでいたのでした。

今日の説教の題は、「翻って生きよ」といたしました。この言葉は今日の箇所、18章32節から取ったものです。つまり、「お前たちは立ち帰って、生きよ」の部分でありますが、この箇所は、口語訳聖書では、「翻って生きよ」となっています。本来の意味からすれば、神様に立ち帰ってということですから、新共同訳のほうが良いのでしょうが、わたしはなんとなく、口語訳の「翻って」という言葉が豊かな意味をあらわしていると思います。また、立ちかえり、さらに前へと向かって行く、その躍動感があらわされていると思います。

あるいは、失われた一匹の羊の譬をも思い出していただきたいと思います。羊の群れのなかから1匹の羊がいなくなります。良い羊飼いは、他の羊たちをその場に置いてでも、失われた一匹を捜しに行きます。そして失われた羊が立ち帰るために懸命の努力をするのです。

この譬話は、エゼキエル書34章がもとになっています。34章には次のように書かれています。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」

このような状態のなかで、神さまはどうされたでしょうか。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」「わたしは良い牧草地で彼らを養う。」

神さまはわたしたち一人ひとりが、このまま滅びることを望んではおられません。ヨハネによる福音書3章16節で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるように、神はわたしたちが滅びることを望んではおられず、滅びではなく、永遠の命を与えるために、御子をお遣わしになりました。わたしたちが滅びることではなく、神に立ちかえること、わたしたちが翻って生きることを、神は求めておられるのです。

(2017年 6月18日 礼拝説教)