番町教会説教通信(全文)
2017年5拝説教 「喜び、忍耐、祈り」        牧師横野朝彦

ローマ12・12

今日は午後に教会総会が開かれます。一年のまとめをおこない、また新しい一年を望み見るときです。今年度は年間の主題聖句をローマの信徒への手紙12章12節の御言葉としました。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」この聖句を1年間覚え続けたいと思います。

昨年1年間は、ヘブライ人への手紙10章の聖句でした。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」これは年間の聖句とするには、少し言葉の難しいところかと思ったのですが、ここに書かれていたように、主イエスが「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」を特に覚えたかったからでした。

わたしたちの教会は、会堂建築にあたり、open for allが建築コンセプト上の重要な言葉としてきました。教会が多くのかたに来ていただき、多くのかたに用いられるように、開かれた場にしていこうとわたしたちは考えます。

またここでopenという時、それはあらゆる隔てを打ち破るものです。今世界は、国と国、民族と民族、人と人との間に壁を作ろうとしています。しかしわたしたちはそのような隔ての壁を壊していくのだという思いがopenという言葉にはあります。

主イエスが「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」ということ、エフェソの信徒への手紙2章にも、キリストは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」てくださったと書かれているように、わたしたちが教会を開いていくという以前に、それに先立ってキリストがそれを開いてくださっているということです。

そして「新しい生きた道を開いてくださった」ということからさらに思うことがあります。それは例えばこの間の建築の問題を考えてみるとき、すべては神が開いてくださった道であるという思いを強くいたします。この建物をいつかは建て替えなければならないということは思っていましたが、複雑な権利関係から、自分たちの力では不可能と言ってもよいほどの状況でした。

ところが今ここまで建築が進んでいる。今日の週報には先週撮影したばかりの工事現場の写真を載せることができました。これもやはり、神さまが開いてくださった道であると思わずにおられません。わたしたちがするべきことは、あれこれ思い煩うことではなく、まさしく、道を開いてくださる主なる神への信頼であると思います。

そして新しい年度の主題聖句は、申しましたように、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」といたしました。わたしたちは今年度新しい会堂が与えられ、新たな出発をしていきます。そのときに何か考えるべきだろうとか、何を心に留めるべきだろうか。それを考えたとき、最初に思ったのは、教会が抱えている宣教活動の困難さ、そして教会がそれを担うにはとても力弱いと思えることでした。

実際、この教会だけではなく、日本の教会全体が人数の減少に直面しています。若い人が教会にいない、来ないという状況があります。地方では教会の維持が困難になっているところが少なくありません。そしてわたしたちの教会もその活動をどのように次の世代に受け継いていくか、次の次の世代はどうなっているだろうかと思わされます。

このようなとき、わたしたちはどうすれば良いのでしょうか。いろいろな方策が必要なのでしょう。具体的なプランが必要なのだろうと思います。皆で知恵を出し合ってほしいと思います。でも、わたしがこのことを考えるときにいつも思うことは、方策や対策を立てる前に、まず教会が人々にとって魅力的な場所になっているだろうか、と思わずにおられません。魅力的ということは、なにも楽しい会をやっているということではなく、まず集まっているわたしたちが、神の恵みを喜び、希望に生きているかどうかということです。

わたしたちの目には、困難が多くあり、それは先行きを暗くさせるようなものであるかもしれません。けれども、神さまの目から見たときにはどうなのでしょうか。キリストの十字架は人間的にはまさに絶望であり、これで終わりという出来事でした。しかしわたしたちはキリストの復活を知っています。そしてわたしたちは復活を信じる生き方へと招かれているのです。

パウロは第二コリント4章で言っています。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」なぜこう言えるのか。パウロは今の言葉に続けて言います。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」キリストの復活は、このわたしをも新しくしてくださる。それゆえに希望を持って喜ぶことが許されているのです。

生まれてまもない教会、初代のキリスト教会は多くの困難を抱えていました。異教世界で福音を宣べ伝えることがどれほど大変であったかは言うまでもありません。迫害がおこっていました。それも殉教者を出すほどの迫害がおこっていました。それにもかかわらず、イエスを主と告白する人は増え、福音は広まっていきました。

あの迫害の時代に、キリスト者となることは不利益であったはずです。にもかかわらずその信仰が広まっていったのはなぜでしょうか。社会的な背景、社会科学的な分析をすればいろいろあるでしょう。でもわたしは初代教会の人々が持っていた信仰の熱意を思います。つまりそれは初代教会の人々の信仰の姿勢、生きる姿を人々の胸を打ったからではないでしょうか。もちろん初代教会がなにもかも理想的な姿であったのではありません。たくさんの問題をかかえ、内部的な争いもあり、異端とも言える間違った信仰理解もありました。けれども、たとえ全体ではなくても、そこには人々をして、あっこんな人がいるのだ、こんな生き方ができればどれほど素晴らしいだろうと思わせるような立派な人たちがいたのです。

それは社会的地位において立派ということではありません。そういうこととは関係なく、謙虚さ、柔和さ、愛と寛容、そういったことが人々の胸をうったのです。迫害する人に対して憎しみをあらわすのではなく、かえってその人のために祈る。貧しい人の貧しさを自分のこととして助け、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、隔てなく人と接し、悪をもって悪に返すことをしない。

このことを初代教会の人たちが皆実行できていたとは思いません。でもその信仰の姿勢は、人々を感動させました。今よりもはるかにはっきりと分かれていた身分制度、一般市民とは特権階級を意味し、多くの人は虐げられた状態にあった時代にあって、それらは人々を虐げから解き放つ福音となって広まったのだと思います。人々は、当時世界を支配していたローマ帝国に代表されるような大きな力とは違うところに、新しい希望を見ていたのでした。

そして今述べたことのなかで使った言葉、それは今日読んでいただいた聖書の箇所の同じ段落に出てくるものです。毎年教会総会のある日は、その年度の主題聖句を取り上げていますので、今日は12章12節だけ、とても短いところを読んでいただきましたが、これは9節から21節までのひとつのまとまり、段落のなかに入っている言葉です。

そしてこの段落、「キリスト教的生活の規範」と見出しのついたところには次のように書かれています。長くなるので12節から18節までをお読みします。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」

これらの言葉が、当時の社会の人々にとって、特に抑圧されていた人々にとってどれほど心を震わせることであったか、これまでまったくなかった新しい価値観、新しい生き方を示すものであったと思います。そしてこのなかに書かれていたように、どのような厳しい状況にあっても希望を持つこと、どのような苦難にあっても耐え忍ぶこと、そしてたゆまず祈ること、この三つは信仰者の生き方の土台とでも言うべきことでした。

どのように厳しく、四方八方がふさがれたような状況であっても、神は必ず道を開いてくださる。そのことを信じ、いや確信して、苦難を耐え忍ぶのです。ローマ8章にも書かれています。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

また、ローマ5章の言葉も、今日の12節の言葉のよき説明となっています。

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 すなわち次のように書かれていました。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

ところで、国立新美術館でミュシャ展が開かれています。美術館に行かれたかた、ご覧になったかたもおられると思います。またNHKが二度にわたって特集番組を放送しましたので、これをご覧になったかたもおられると思います。わたしも正直なところ、ミュシャについて知りませんでした。いわゆる美人画、ポスター画については知っていましたが、それ以外の作品は知りませんでした。でもこのたび、ミュシャの20枚にわたる大作「スラブ叙事詩」を見て、圧倒をされる思いがしました。

「スラブ叙事詩」については受難週の祈祷会でも話をしたのですが、この作品はスラブ民族の歴史を3世紀から20世紀の初めまで、20枚の絵に描いたものです。どの作品も大きく、一番大きいものは、高さ6m、幅8あります。どの作品も深い味わいのあるものです。

どの絵も興味深く、味わい深いものでしたが、わたしがそのなかで特に興味をもった作品を3つ、簡単に紹介したいと思います。ひとつは、聖書がスラブ語に翻訳され、スラブ語で読まれるようになったという作品です。今わたしたちは日本語で聖書を読んでいますが、その昔それは当たり前ではありませんでした。教会ではラテン語で聖書が読まれ、典礼の言葉もラテン語だったのです。

一般の民衆はそこに何が書かれているのかわかりませんでした。それが自分たちの言葉で聖書が読まれるようになった。およそ600年前の出来事です。それを描いた作品です。

紹介したい二枚目の作品は、戦争場面です。ただいさましく戦う場面ではなく、人々が死に果てた姿、何人かが生き残り、ある者は悲しみにくれ、ある者は茫然としている。戦争がいかに悲惨なものかを描いています。その絵の中央に黒い服を着た人が立っています。彼は右手に聖書を持っています。そして傍にいる人に手をのべて何か押しとどめているように見えます。

この絵は「ペトル・ヘルチツキー」というタイトルで、「悪をもって悪に報いず」という副題がついています。画集の説明に次のように書かれていました。「非暴力・平和主義を貫く地元の司祭ペトル・ヘルチツキーが、生き残った者たちを慰撫するようすが描かれている。前景には死者が横たわり、画面中央では、黒衣をまとい、聖書を手にしたヘルチツキーが、復讐を誓う若者の左手を押しとどめている。」

「悪をもって悪に報いず」、この言葉は聖書に2か所出てきます。ひとつはペトロの手紙一3章。そしてもうひとつはローマ12章の今日の段落です。「だれに対しても悪に悪を返さず」と書かれていました。

そしてわたしが興味を持ったもう一枚の絵。それは全20枚のうちの最後の1枚です。「スラブ讃歌」という題の絵です。縦5m、横4mの大きな絵の右下は青いところは古代のスラブ民族が描かれ、左上の赤いところは中世が、右上の黒いところは暗黒時代が、そして中央と左下は1918年のスラブ諸国の独立を描いています。中央に大きく手を広げた若者がいます。若者、それは未来を担う人の姿でしょうか。両手には丸い輪、花飾りのついたような輪を持っています。輪は民族統一のシンボルです。

大きな絵のなかに、古代の人々、中世の人々、そして暗黒時代と歴史全部をこの一枚に凝縮させながら、それにもかかわらず絵全体は喜びと希望に満ちたものになっています。さあこれから新しく生きるのだという喜びが全体にあらわされています。

そしてこの絵には、まるでちょっと見ただけでは気づかないような絵が描きこまれています。わたしも最初画集で見たときには気づきませんでした。それは中央に描かれた大きく手を広げた若者、その頭のすぐ右上に光輪をかぶったキリストの姿があるのです。さらにその後ろに約束の虹があります。

このように、民族の長い歴史、侵略と抑圧のなかで人々が苦しんだ歴史を描きながら、その最後の1枚でキリストの姿を描き、人々が喜び立ち上がる様子が描かれているのです。

話を最初に戻します。教会総会にあたり、教会のこれからをわたしたちは真剣に考えていかなければなりません。四ツ谷駅近くに移ったあと教会のありかたはどのようなものになるのか、それこそいろいろと方策を考え、それを実行に移していかなければならないでしょう。

しかしなによりも大切なことは、そのような方策以前に、わたしたちがキリストにある新しい命を喜んでいくことだと思います。書かれていたように、他者の貧しさを自分のものとして助け、迫害する者のために祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、隔てを越えて人と接し、悪をもって悪に返さず、すべての人と平和に暮らしていくことを求める。

現実がいかに困難であろうと、今述べたことがわたしたちの生活に少しでもあらわされていくならば、そして希望をもって喜んでいくならば、そこに神は大いなる祝福を与えてくださるに違いありません。

さらにひとこと付け加えるならば、今の世界の状況、この国の状況の暗さを思わされます。今にも戦争が始まるような、いや始まっているような気にさえさせられます。そして何かあれば、軍事力を使うのが当然のような、やむを得ないような、そんな空気があります。

しかし、聖書は「すべての人と平和に暮らしなさい」、「悪に悪を返さず」と教えてくれています。いやそれは単なる教えではなく、キリストがそのように生きてくださった。そしてキリストはその命をささげてくださったということです。キリストの十字架の死は、この世的には敗北、これで終わりであったことでしょう。しかし、主は甦られました。

わたしたちの信仰は、キリストが復活され、わたしたちに新たな命を与えてくださるという信仰です。途方にくれても行き詰まらず、キリストが道を開いてくださり、万事を益としてくださるという信仰です。平和に生きる信仰です。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る者としていただきましょう。

(2017年 4月30日 礼拝説教)