番町教会説教通信(全文)
2017年4拝説教 「御心にかなう者」        牧師横野朝彦

マタイ17・1‐13

受難節第3主日、聖書に従ってマタイによる福音書17章1−13節を読んでいただきました。「山上の変貌」とか「主イエスの変容」と言われる箇所です。この箇所の直前16章21‐28節で主イエスは、ご自身の死と復活を予告されます。福音書によれば主は死と復活を3度予告されますが、その最初の予告がされ、その6日後に主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に高い山に登られます。

そこで主イエスの姿が変わられたというのです。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。さらにそこにモーセとエリヤがあらわれます。二人は、旧約聖書に登場する重要な人物です。モーセとは出エジプトの指導者です。そしてシナイ山の上で神さまから律法を授かった人です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つをモーセ五書と言います。モーセは律法を代表しています。

エリヤは旧約聖書列王記に登場する預言者です。エリヤは人々の尊敬を集めていた旧約の預言者でした。そしていつかエリヤが再び現れるという素朴な民間信仰がありました。実際、主イエスのことをこの人はエリヤではないかと思った人たちもいました。したがって、モーセは律法、エリヤは預言者を代表しています。

このような二人が主イエスと語り合っている。この伝承は主イエスが律法と預言者によってあらかじめ知らされていた救い主であることを表しています。しかも主イエスの顔は輝き、服は光のように白くなっている。この方こそ待ち望んでいた救い主であることを、これらの出来事は表しています。このことは、イエスとは誰かということへの一つの答、信仰の告白です。

マタイ5章で主イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言っておられます。

さらに、山の上ということから思い起こすのは、モーセが山に登り、そこで神さまと出会ったという出来事です。出エジプト記33章には、「主の栄光」という記事があります。そして34章でモーセは山から降りてくるのですが、そのときのことがこう書かれています。「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」

主イエスの山上の変貌、あるいは主イエスの変容は、出来事自体は不思議な話でありますが、以上のように旧約聖書との関連でこれを読むならば、このかたこそ旧約聖書の時代から証しされ、預言されてきた神の子であるという信仰告白なのだとわかります。

もっと広く考えてみましょう。ヨーロッパの古い教会には、キリスト像の頭のところに光輪がついたものがあります。そしてまったく同様に、仏像にも光輪のつけられたものがあります。詳しいことはしりませんが、キリスト像やマリア像には丸い輪が、仏像の場合は光線が四方に輝いているものが多いようです。神々しさを表すものとして、また超自然的なものを表わすものとして、光輪は宗教の違いを越えて用いられています。

そういえば、今六本木の美術館でミュシャ展をしていますが、描かれている女性の頭の後ろに円が描かれています。また円がない場合でも、背景が丸くなっています。これは、その当時の人気女優であったサラ・ベルナールという人を気高い存在として描く手法であったと、先日放送されたNHKのテレビ番組で知りました。

そのことを思えば、主イエスの顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなったということは、超自然的な現象、不思議な話のように思われますけれど、むしろこの方は救い主なのであると、当時の人びとに、そしてわたしたちに、よく伝えている話であると受け止めていいのではないでしょうか。

そしてこれを目撃した弟子たちは、それこそ舞い上がってしまいます。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人がいましたが、そのなかのペトロが言います。17章4節です。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

何を言っているのだと思われることでしょう。事実、これと同じ話が書かれているマルコによる福音書の並行記事、9章6節には、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と書かれています。わたしたちも思いがけないことに出会ったときに、自分でもわけのわからないことを口にしてしまうことがあります。偉いかたに会ったときに、緊張のあまり、うまく言葉が出てこないことがあります。

ペトロもそうでした。ただ、ペトロのこの言葉は、まるで分らない言葉ではありません。「仮小屋を三つ建てましょう」、この、仮小屋でありますが、新共同訳聖書が仮小屋と訳しているのにわたしは少々疑問を感じます。日本語の感覚で仮小屋とはいかにも仮設住宅という感じです。でも別の翻訳では「幕屋」となっています。

新約聖書のギリシア語では確かに雨露をしのぐ小屋なのですが、これはむしろ旧約聖書で云うところの幕屋であると思います。幕屋、遊牧民にとって移動するためのテントです。そして大事なことは、その昔からダビデの神殿が建てられるまで、神殿は神の幕屋と呼ばれていたことです。ですから、ペトロは「ここに神殿を作りましょう」と言っていると考えることができます。

ペトロら弟子たちは、主イエスがモーセとエリヤと出会って話し合うのを目撃し、まったく驚いたというか、我を忘れるほどになりました。そしてペトロは、主イエス、モーセ、そしてエリヤ、この3人のために3つの神殿を建てましょうと言ったのです。

するとそのとき、天から声が聞こえます。それだけではなく、光り輝く雲が彼らを覆ったということです。雲は、出エジプト記40章などによれば、神さまがここにおられるというしるしと考えられていました。40章34節に、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」とあります。幕屋、つまり先程言ったように、神殿のことです。

天からの声は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」というものでした。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」これと同じ言葉が、マタイによる福音書3章にも出てきます。それは、主イエスが洗礼を受けられた場面です。

主が洗礼を受けたときに、聖霊が鳩のようにくだり、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。このときからイエスは神の子としての自覚を持って公の生涯、公生涯を歩み始めたと考えられています。天からの声はイエス・キリストの地上での生涯の大きな転機となったのです。

そしてそれと同じ言葉が、今日の箇所で聞こえてきます。顔が光輝いたこと、服が光で白くなったことなどからも、この方こそ神が与えてくださった神の子、そして救い主であることが、ここではっきりと表され、描かれています。

なお、天からの声は「これに聞け」でした。この言葉は、マルコやルカの並行記事にはないものです。これはマタイが、旧約聖書申命記の言葉を思い起こさせようとしたと考えられます。申命記18章15節、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れます。そのような彼らに主イエスは近づかれ、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、すでにモーセもエリヤもいなくなり、主イエスだけがそこにおられました。

9節以下は、一同が山を下りるときに交わされた会話です。今見たことを人に話してはならないと、主は言われます。主イエスはほかの場面でも同じようにしばしば言われており、主イエスの沈黙命令として知られています。なぜ沈黙を命令されたのか。これは神学的にいろいろ議論されているところです。

今ここではなぜと問わないことにしましょう。ただ興味深いのは、「人の子が死者の中から復活するまで」という限定がついていることです。このことを言い換えれば、ここに主の受難が今一度予告されていることになり、さらに復活が予告されていること。そして主の復活ののち、すなわち教会の宣教の時代に入れば、このかたこそ神の子であると、積極的に宣べ伝えなさいということになります。

主は病める人を癒され、奇跡をおこされたあとも、黙っているようにと命じられます。奇跡行為者として評判が立つことは、主が歩まれる十字架への道にとってかえって妨げとなったからかもしれません。

そして話は続けてエリヤのことになります。弟子たちが終わりの日にエリヤが来ると言われているのはどういうことかと尋ねます。それに対して主は、直接には答えられず、エリヤは既に来たと言われます。そしてエリヤは既に来たにもかかわらず、人々はそれを認めず、好きなようにあしらったと言います。

つまりこれは、バプテスマのヨハネのことをさしています。神はバプテスマのヨハネを、救い主到来の先触れとして遣わされた。けれどもヨハネは逮捕され、首をはねられてしまいました。このことはマタイによる福音書では14章に書かれているところです。

そして今日の箇所12節にあるように、「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」と、主はご自分も受難の道をたどることを述べておられます。このことから、今日の箇所、山上の変貌、山上の変容は主イエスが神の子であることを表し、その姿が光輝いたと、その神々しさを描いていますが、けっしてそれだけの話なのではなく、そのかたが受難と復活によってご自身の使命を現わされるかたであると述べているのです。

申しましたように、今日の山上の変容の話は、16章21‐28節の「イエス、死と復活を予告する」の話に続けて書かれています。このことは、並行記事であるマルコでもルカでも同じです。死と復活の道を歩まれるこのかたこそ、神の子キリストなのだと、ここで述べられる。そして17章14節でも、「そのように人々から苦しめられることになる」と述べられているのです。

わたしは今ここで、宮沢賢治の代表作である「銀河鉄道の夜」を思い出します。前にも一度話したことがあります。今日も部分的に引用して紹介したいと思います。ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道に乗り、幻想的な旅をします。

カムパネルラが独り言を言います。「いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。」ここでカムパネルラは、どんなことをすればおっかさんが喜んでくれるだろうと独り言を言っています。ここではお母さんとなっていますが、わたしは、これを「父なる神」と置きかえて言えば、その意味がはっきりすると思います。もちろん「母なる神」でもかまいません。

「いったいどんなことが、神さまのいちばんの幸なんだろう。」「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。」ここでは何のことかわかりませんが、このときカムパネルラはある善いことをしようと決意をしたのです。

するとそのとき、列車のなかが白く輝きます。ダイヤモンドのような河床の流れの上に、青白く後光のさした島があり、そこには白い十字架が立っており、金色の円の光をいだいています。小説を読みます。「『ハルレヤ、ハルレヤ。』前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈っているのでした。」

列車にはまた、男の子と女の子が青年に連れられて乗っています。この子たちは船に乗っているときに、船が氷山にぶつかったのです。青年は彼らの家庭教師でした。二人を助けようと必死に努力しますが、救命ボートにはすでに沢山の小さな子どもたちが乗っています。ボートに乗るためには、すでに乗っている子たちを押しのける必要がありました。

助けたい。けれどもほかの子を押しのけるなどできない。仕方なく青年は、この男の子と女の子を神さまのもとに届けるため、自分もついて行くことにします。すなわち、銀河鉄道という幻想的な旅、それは天国への旅、神さまのもとへ行く旅なのです。

列車はサウザンクロスに近づきます。すると、「ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。」「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。」

物語の最後で、ジョバンニは現実の世界に引き戻されます。銀河鉄道の旅は終わり、場所は川にかかった橋のたもとです。橋の上は人がいっぱいで、警察官も出ています。「何かあったのですか」、ジョバンニが尋ねると、「こどもが水に落ちたんですよ」という答が返ってきました。友だちのひとりザネリが舟から落ちてしまった、それを助けようとカムパネルラが川に飛び込んだのです。ザネリは助かりました。でも、カムパネルラが行方不明になってしまったのです。銀河鉄道の夜、これはカムパネルラが友だちを助けるために犠牲の死をとげるに至るまでの物語です。

死への旅の途中で、彼らは十字架を見たり、また白く輝く世界を見て、ハレルヤという賛美を聞いたのでした。そしてここで思い起こすのは、カムパネルラの独り言です。すなわち、どのようなことをすることが善いことなのだろう。おっかさんは、つまり、神さまの御心はどこにあるのだろう、こうつぶやいて、彼は犠牲の死をとげたのです。

主イエスは、16章の終わりのところで、死と復活を予告されました。けれどもそのことが何の心の痛みもなく言えたはずがありません。ゲッセマネの祈りにあるように、できればこの杯を取りのけてほしい、けれども御心のままにという心境だったことでしょう。

まさにそのとき、主イエスの顔は、そしてその体は光輝きます。律法と預言書、すなわち旧約聖書を代表するモーセとエリヤの姿もそこに現れます。そして天からの声が聞こえるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」

主イエスに聞く、何を聞くのでしょうか。主イエスはその生涯にわたって多くの教えをされました。山上の説教と呼ばれる話や、あるいはたくさんの譬話が残されています。その教えに聞きなさいということでしょうか。そうではありません。イエスに聞け、ここで言われていることは、直接的には主イエスの受難ということです。主がご自身をささげられ、ご自身を捨て、十字架の死に至るまで愛を与えてくださった、このことに聞きなさいということです。

(2017年 3月26日 礼拝説教)