番町教会説教通信(全文)
2017年3拝説教 「どんなものでも赦されるが」   牧師横野朝彦

マタイ12・22‐32

昨日3月11日、東日本大震災から6年の歳月が経ちました。けれども、昨日のテレビ放送などで紹介されていましたが、現在なお避難生活をしているかたは先月の統計で12万3168人おられます。これだけの人数のかたがたが、今も自宅に帰ることができないでいる。またこれは公式の統計ですから、実際の人数はもっと多いのではないでしょうか。このことから、震災が過去のことではなく、現在のことであると思わずにおられません。

12万3千の避難者のうち、東京に避難してきているのは6231人です。北海道には1953人、沖縄には592人、避難の先は北海道から沖縄まで全国の全都道府県におよんでいます。避難しての生活がどれほど辛いものか、苦しいものかと思います。

住まいだけの問題ではありません。この間報道されていたように、避難している子へのいじめの問題も明らかになりました。大人同士の間でも、あの人たちは賠償金をもらって良い思いをしているといった攻撃があると聞きます。このように、他の人から悪く言われる、あたかも自分たちが悪いことをしたかのように言われる。それは生活の困難以上に心の傷となることでしょう。

被災者のかたのことをちょっとでも思えば、こんなことは言えないはずだ、そう思える言葉を聞くことがあります。わたし自身同じようなことを言ってしまっていることがあるに違いありません。

震災からまもない時、インターネット上で、被災者のひとりが次のような言葉を書いていました。「CMとかで、頑張れ頑張れとか。ちょっと気を許すと、『一緒に頑張ろう! 1人じゃない!』とか言うわけ。いや、おまえら家あるじゃん? そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。仕事もあるじゃんって。」

まったくそのとおりだと思います。わたしは3・11のことを覚えて、昨日は日を過ごしました。今日もこのような話をしています。でもたぶん明日は別のことを考えています。そうすることができるからです。

この人の言葉に対し、返す言葉などありません。まったくそのとおりですと、頭をさげるしかありません。ただ、あえて言わせていただきたいことがあります。それは、わたしたちの救い主イエスは、傷みを負う人、苦しみを負う人のもとに来られ、ご自身が傷を負ってその人たちと共に生きられたということです。主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。

帰る家もない、枕するところもない、まさにそのようにして苦しみ負う人と共に生きられ、ついには十字架への道を歩まれたのでした。わたしたちはこのようなかたを、このイエスを救い主と仰いでいます。先程の人の言葉に返す言葉もなく、心を寄せるなど大それたことは言えません。被災者のかたの気持ちがわかっているはずもありません。でも、そんなわたしでありますが、主イエスが歩まれた道をたどりながら、わたしたちも、ほんの少しでも心を寄せさせていただきたいと願っています。そしてよく言われるように、風化させないこと、忘れないことを自分に言い聞かせたいと思っています。

今日お読みいただいた聖書箇所とは直接関係なく、震災のことを話させていただきました。今日読んでいただいたのは、聖書日課にしたがい、マタイによる福音書12章22−32節です。この箇所、なかなか難しいところです。なにが言われているのか、どうもよくわかりません。

そもそも、29節で「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と言われている、イエスさまがこんなことを言われたのだろうか、これは人の家に押し入る方法、略奪の方法を教えた言葉なのかと、まるでわけがわかりません。

こんなに分かりにくい箇所でも、心に残る言葉があります。3つあげたいと思います。ひとつは、25節の「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」という言葉です。これはそのとおりです。韓国でも、今国内の対立が激しくなっています。アメリカの場合は大統領自身が対立を作り出しているように思えます。でもそれはかえって国を成り立たなくさせているように思えてなりません。

国という大きなことでなくとも、町でも家でも、そしてわたしたちが今集まっている教会というところでも、内部の争いが、たとえそれが小さなものに見えても、全体を壊してしまうことになります。

次に心に残る言葉は、28節、「神の国はあなたがたのところに来ているのだ」という言葉です。これについては後で話します。

そしてもうひとつ心に残るのは31節です。「人が犯す罪や冒?は、どんなものでも赦されるが、“霊“に対する冒?は許されない。」これもどういう意味なのでしょうか。こういった言葉が半ページのなかに次々出てきます。全体として何が言われ、何が教えられているのでしょうか。

22節は「そのとき」という言葉から始まっています。つまり読んだ箇所の前から話が続いているということです。その話とは、12章1節以下です。前のページを開いてみると、1節以下のところに「安息日に麦の穂を摘む」と見出しがついており、9節以下には「手の萎えた人をいやす」と見出しがついています。9節以下の内容をみると、主イエスが会堂に入られたとき、そこに手の萎えた人がいました。そしてその日はちょうど安息日でした。そこで人々が、イエスを訴えようと「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねるのです。

このことについても、ちょっと解説が必要です。安息日は一切の労働が禁じられていましたが、病気を癒すというのは労働になるかどうかという問題です。ファリサイ派という律法を守ることに厳格なグループは、病気の症状が命にかかわる場合のみ安息日規定は免除されると考えていましたが、このあたりの見解はさまざま意見が分かれていたようです。

そこで人々がイエスはこのことをどう考えているか試そう、答によっては訴えようと思っての質問でした。そして主イエスは、羊が穴に落ちた例を述べたうえで、次のように断言されます。12節、「安息日に善いことをするのは許されている。」この答は、人々がしていた律法論争を根本からひっくり返すほどのものでした。安息日に善いことをするのは許されている。言い換えれば、善いこととわかっているのに規則を持ち出して何もしないというのは間違いだというのです。

これを聞いたファリサイ派の人たちは、イエスを殺そうという相談を始めます。主イエスが病める人を癒し、進んで善いことをされたことが人々の敵意を招くことになったのでした。今日は受難節第2主日でありますが、今日の聖書箇所が受難節に読む聖書箇所として指定されているのは、このような出来事の背景があるからです。

そして15節以下に、「神が選んだ僕」と見出しがあり、旧約の預言者イザヤの言葉が引用されます。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」主イエスこそ、この預言の言葉の成就であり、世に来られた救い主であると宣言されています。

以上の出来事、以上のことを受けて、今日読んでいただいたところが、「そのとき」を書き始められているのです。まさにそのとき、一人の人が主イエスのもとに連れてこられます。その人は、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けないということです。重い症状のある人や精神的な疾患のある人を、悪霊にとりつかれと表現するのは、当時の一般的な考え方だったのでしょう。主イエスはこの人を癒されます。

ところがこれを見た人々は、このイエスというのは何の力によってこんなことができるのだ、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出すのは、このイエス自身が悪霊の大きな力を持っているからに違いないと、難癖をつけていきます。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言うのです。

ベルゼブルというのは、「蠅の王」という意味だとか、「家の主人」であるとか、いくつかの説があります。旧約聖書列王記下1章に、「エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と書かれており、このバアル・ゼブブがベルゼブルのことだとも言われています。日本でも悪を働く大蛇(おろち)とか鬼とか、伝説上の存在がいますから、ベルゼブルも当時の人たちには良く知られた名前だったのかもしれません。

そこで、人々はイエスというのはベルゼブルに力をもらったに違いないというわけです。主イエスはこれに対して反論をされます。ひとつは、サタンがサタンを追い出せば内輪もめではないかということ、もうひとつは、当時悪霊を追い出すという人がほかにもいたようで、その人たちは何の力によるのかという反論でした。

でも、このあたりの反論内容は今日のわたしたちにはあまり重要ではありません。むしろここで大切なことは、28節です。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ。」ここで主は、ご自分のわざが神の霊による働きであることを示しておられます。そして、「神の国はあなたがたのところに来ている」と宣言されるのです。

今日の箇所は、ベルゼブル論争となっていますが、実はこの言葉こそが物語の中心となっています。救い主が来られた、そして神の霊によって救いのわざをあらわされた。それは安息日とか、なんとか、規則に縛られた世界から解放し、神の善いわざが与えられているのだと、神の国の到来を告げ知らされているのです。

ルカによる福音書4章で、主イエスはナザレの町の会堂で聖書を朗読されます。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして主イエスは言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

ヨハネによる福音書4章で、サマリアの女性が主イエスと出会う場面があります。人目を避けて水汲みにやってきた女性に、主イエスは声を掛けられ、永遠の命に至る水があることを教えられます。この話を聞いた女性は、「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」と言います。そのとき主イエスは、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と、自らを明らかにされたのでした。

今日の箇所で主が、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ」と言われたことは、ルカによる福音書で「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたこと、またヨハネによる福音書で「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われたことに匹敵するほどに重要なメシア宣言、救いの宣言であるとわたしは思います。

そしてこれに合わせて、31節の前半もまた、極めて重要な救いの宣言、救いの告知です。ここで主イエスは、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」と宣言しておられます。これは素晴らしい救いの宣言です。主は罪人とさげすまれる人と共に生きられました。そして主は彼らに「あなたの罪は赦された」と告げてくださいました。

罪人たち、そこには主イエスに言い逆らい、主イエスを十字架につけてしまった人たちも含まれています。それでも、主は彼らを赦してくださるのです。それはまさに彼らの救いのため、わたしたちの救いのためでした。主イエスに言い逆らい、主を十字架につけたものであっても赦されるのです。

ただ今日の箇所で、「“霊”に対する冒涜は赦されない」という言葉が続けられています。この言葉は、初代教会が付け加えたものではないかとも考えられています。どういう意味でしょうか。“霊”に対する冒涜とは何でしょうか。分かるようでわかりません。

「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。」この同じ箇所を口語訳で読むと次のように訳されています。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」ここでは、冒?ではなく、聖霊を汚す言葉とありました。

「“霊”に対する冒涜」、「聖霊を汚す言葉」、それは結論から言って、主イエスがあらわしてくださった救いの出来事を拒絶することです。28節では「神の霊で悪霊を追い出している」とありました。またそのような霊の働き、神の救いの働きを否定してしまってはなりませんよ、ということです。

日本基督教団の信仰告白に「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」と告白されています。   

聖霊を汚すとか、聖霊を冒涜するというのは、わたしはこのような救いの働きを拒否する生き方だと理解しています。神の救いの御業を認めない生き方です。神はわたしたちの犯すどんな罪をも赦してくださいます。いかなる罪をも赦してくださいます。けれども、この赦しの働きを認めず、拒否してしまったら、いったい何によって救われることができるでしょうか。どんな罪でも赦されるのに、その赦しの働きを否定したら、どこにも逃れる道はありません。

けれども、このようにして与えられている救いを拒否してしまったらお終いですよ。それが31−32節で言われているところです。

話してきたように、今日の箇所は12章1節以下から続いているところです。そしてこの話の背景には、律法に厳格であるファリサイ派の人たちが、律法を守ろうとしながら、結局神さまがくださる救いを拒否してしまっていることがあります。

わたしたちは、この世の悪や不正に対して何の力で立ち向かおうとしているでしょうか。この世に起こるさまざまな事件、人の罪、それに対して、あのような悪い者はいなくなれと思うならば、それはわたしたちまでがベルゼブルの力に頼っているということです。それこそ悪の力で悪に向かっていることになります。

わたしたちはどのように今生きているでしょうか。ベルゼブルの力を借りようとしていないでしょうか。あるいはまた、ファリサイ派の人たちのように、良いおこない、良い言葉、正しく生きているようでありながら、そこに愛を無くしていないでしょうか。神があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさいと教えられているのに、人を裁くことに熱心になっていないでしょうか。

主イエスはそうはされませんでした。そうではなく、ご自身を攻撃する言葉も、ご自身を冒?する言葉も、すべて赦されました。すべて赦されて、「神の国はあなたがたのところに来ている」と言われたのです。

どんなことでも、主は赦してくださいます。どんな罪であっても、どんなにひどい言葉を吐いても、主は赦してくださいます。しかし、そのように赦してくださっていることを拒否してしまえば、どうして救いを見出すことが出来るでしょうか。

(2017年 3月12日 礼拝説教)