番町教会説教通信(全文)
2017年2拝説教 「イエスの誓」   牧師横野朝彦

マタイ13・10‐17

主イエス・キリストは、山の上で、野原で、またガリラヤの湖畔で、多くの教えを語られました。けれども、山上の説教などは読む人によっては、これは逆説だと考えました。逆説、真理に背いているようでありながら、一面の真理をあらわしているということです。山上の説教にみられるように、そのままでは実行不可能な厳しい教えもあります。

「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」などという教えに、誰が「はい」という返事ができることでしょうか。「完全な者になりなさい」という教えに、「わかりました」と言える人がひとりでもいるでしょうか。主イエスは、数多くのことを教えられましたが、生き方のハウツーを教えられたのではありません。人の生き方について、これが正解ですという答えを教えられたのでもありません。むしろ、主イエスの教えは、聞く者を立ち止まらせ、考えさせる、そのような言葉がほとんどです。

例えば、マタイ17章で、弟子のひとりペトロが、神殿税を徴収する人たちから、「お前の先生は神殿税を納めないのか」と質問をされます。ペトロは主イエスのところに行って尋ねようとするのですが、主イエスのほうからペトロに向かって、「シモン、あなたはどう思うか」と問うておられるのです。

マタイ18章、100匹のうちの1匹の羊がいなくなったという有名な譬話において、「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」と語りかけておられます。マタイ21章には、ふたりの兄弟の譬という話があり、この話も、「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが」と話し始められています。

ルカ10章の、「善いサマリア人」の話も、主は徹底して人々に考えさせようとしておられます。律法の専門家が、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をします。主はそれに直接答えられません。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読むか」と問い返されます。律法の専門家は、それこそ専門家でありますから、すらすらと答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

でもそこで引き下がってはならないと、専門家はさらに、「では、わたしの隣人とはだれですか」と質問を重ねるのです。主イエスはここでも、隣人とはこういう人ですよといった返事はなさらず、「善いサマリア人の譬」を語られます。そして「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問いかけられたのでした。ここでも、「あなたはどう思うか」と主は問うておられるのです。

このように言うと、なかには面倒だなあと思うかたもいらっしゃるかもしれません。そんなあれこれ考えるよりも、答はこうです、というほうが聞くほうは楽なのに違いありません。言われるままにしているほうが、悩むこともありませんから、楽なのでしょう。ある、新しい宗教がしている教育法について聞いたことがあります。さまざまな設問があり、二択、三択で答えを選び、正解が多ければ上にあがれるのだそうです。今の時代は、このほうが流行るのかもしれません。

でもそれでは、考えることの放棄です。人間がロボット化されるだけです。主イエスはわたしたちに、言われるままに行動する人間になれとは言われません。それはとんでもないことです。主イエスは、わたしたちに問いを投げかけられ、また気づきを促し、立って歩きなさいと促されるのです。

今日はマタイによる福音書13章10節以下を、聖書日課に従って読んでいただきました。説教題は「イエスの譬」としました。でも読んだ箇所には譬えは書かれておらず、新共同訳聖書はここに「たとえを用いて話す理由」という見出しを付けています。そしてこの箇所は、1‐9節の「『種を蒔く人』のたとえ」と、18‐23節の「『種を蒔く人』のたとえの説明」の間に挟まれて書かれています。

この箇所はいったい何をわたしたちに伝えようとしているのでしょうか。主イエスはたくさんの譬を語られましたが、その説明がついているのは、「種を蒔く人の譬」だけです。最初から言ってきたように、ほかの話はどれも、聞く人、読む人に考えさせようとしているのに、この箇所だけは説明付きです。しかもその間に、譬を用いる理由というのが書かれている。その点、ちょっと面白い箇所なのです。

種を蒔く人の譬については、これまで説教で何度か話してきました。またこの箇所の解釈については、多く語るべきことがあるでしょう。でも、今は簡単に考え、御言葉という種が蒔かれて、それを聞かない人、聞いていても悟らない人、御言葉を聞いてそれを悟る人などに分かれる。聞いて悟る人は、30倍、60倍、100倍と実を結ぶのだと、そう説明されていました。なんだか今日の箇所は、この説明と深く関わっているように思えます。

わたしは礼拝説教のなかで、例話をよく用います。先週は北原伝道師の説教でしたので、先々週の1月22日の礼拝のことで言えば、東京のJRや地下鉄が時刻表どおりに正確に運行されていることを例にあげて話を始めました。ほかにもわたしはよく小説などを例にあげます。1月15日の礼拝では、門井慶喜さんというかたが書かれた「屋根をかける」という小説、宣教師であり建築家であったウィリアム・メレル・ヴォーリズの生涯を描いた小説を紹介しました。わたしがこのような例をひんぱんに用いるのは、2000年前に書かれた福音書の言葉を、過去の出来事としてではなく、今日のわたしたちに引き寄せて考えたい、そう思うからです。

でもこれはわたしがしているのは、あくまで例話です。例話、例をあげればこんな話ですと、例をあげています。主イエスがなさった話のなかには例話もありますが、譬話というのは例話とは同じようでありながらちょっと違います。どう違うのか。例話は「例えて言えばこうですよ」と、例えているものと、例えられているものがわりとはっきりしています。

「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」というのは、例であって、譬ではありません。ここで主イエスがぶどうの幹であり、わたしたちがその枝であるというのははっきりしています。しかし譬話の多くは、それが何に例えられているのかは、いわば聞く側に任せられているのです。その譬をとおして何が教えられているかは、聞く側に任せられている。それが譬話の特徴ではないかとわたしは思っています。

具体的に言えば、100匹のうちの1匹の羊がいなくなった、羊飼いは99匹を野原に残したままでいなくなった1匹を捜し求めます。この譬話はこの世の効率、多数か少数かを考えれば、1匹を見捨てでも99匹が失われないようにするのが当然でしょう。99匹を野原に残したままならば、その99匹はいったいどうなるのだ、それが当たり前の考えです。この世の価値観からすれば、99匹のほうが大事なのは当たり前です。

しかし、迷い子になった1匹の羊の立場になって考えるならば、迷ってしまった自分を懸命に捜し求めてくださるかたがおられる。羊飼いが迷った自分を捜してくださっている。それはどんなに大きな喜びでしょうか。この羊がいなくなったのは、この羊自身が好き勝手に遊びに行ったのかもしれません。でも、この譬話のもととなっていると思われるエゼキエル書34章を読むと、羊は悪い羊飼いによって散らされた、追い出されたように思えます。さらにエゼキエル書34章では、力のある羊たちが牧草を踏み荒らし、泉の水をかき回して汚していると書かれています。そのような背景のもと、失われた1匹を捜し求めてくださるかたがおられるというのは、なんと大きな福音でしょうか。

つまりは、同じひとつの譬話を聞いていても、99匹の側に立つのか、失われた1匹の側に立つのかによって、話の聞き方、受け止め方はまったく違うものになるのです。

ぶどう園に朝早く、夜明けと同時に雇われた人たち、9時から雇われた人たち、12時から、3時から、そして5時から雇われた人たちの譬が、マタイによる福音書20章にあります。彼らに与えられたのは、いずれも1デナリオンでした。この譬で朝から雇われた人たちは、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と文句を言います。

この文句の言葉は、この世の常識からすれば当たり前のことです。常識以前と言ってもよいでしょう。けれどもどうでしょうか。仕事もなく、一日過ごしていた人にとって、5時になってから「ぶどう園に行きなさい」と声をかけられたことは、どれほど大きな福音であったでしょうか。大きな企業に勤め、安定した収入を得ている人にとっては、この譬話は、おかしな話、こんなことがあってはならないという話です。でも、今日の糧、明日の糧に困っている人にとってみれば、これはまさしく福音です。

譬話ではありませんが、「貧しい人々が幸いである」といった言葉。主イエスの言葉を聞いたのは、本当に貧しい人たちだったことでしょう。そして彼らは、「何を言っているのだ」ではなく、こんな自分たちのことを幸いだと言ってくれる主イエスのことを、目を輝かせるようにして見て、また話を聞いたと、わたしは思います。なお、幸いであるというのは、ハッピーという意味ではなく、ギリシア語の単語では、神の祝福があるという意味です。

以上お話をしてきたように、主イエスの言葉は、そして譬話というのは、何がたとえられ、なにが教えられているのかは、聞く側によって随分と違ってきます。わたしは思います。主イエスが山で、野で、ガリラヤの海辺で、民衆に語られた時、きっと人々は主イエスの言葉をわがこととして聞いたことでしょう。

失われた1匹の話を聞いたとき、きっとああそれは自分のことを言ってくれているんだと思ったことでしょう。5時から雇われた人が1デナリオンもらったと聞いて、ああそうだようなあ、神の国ってきっとそんなところだよなあと思ったことでしょう。それは聞く人々にとって、まさしく神の国の福音だったのです。

けれども、この同じ譬が、聞く人によっては、なにをおかしなことを言っているのだと思えても不思議ではありません。そのことを譬話自体が明確に表しているのが、あの放蕩息子の譬に出てくるお兄さんでしょう。放蕩の限りを尽くした弟息子が家に帰ってきたとき、父親は抱きしめて迎え入れ、そればかりか宴会を開きます。兄息子はそれを見て怒ります。「あなたの身代を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」と、父親に怒りをぶちまけるのです。

食べることさえできなくなった弟息子にとって、父親が自分を家に迎え入れてくれたことは、どんなに大きな喜びだったことでしょうか。しかし、そのことを、兄は、日頃の生活の不満まであわせて、父親に怒りをぶつけるのです。これも、どの立場にいるかによって、話の聞き方、感じ方は正反対になるよい例だと思います。

このように、譬というのは、それ自体に、聞く者に判断をゆだねる面があります。さらにそれだけではありません。話が少々込み入るのですけれど、主イエスが人々に語られたときから、福音書が書かれるまでに何十年かの年月が経っています。この年月の間に、譬の持っている意味も、ますます分からなくなったという問題があります。

最初に聞いた人たちは、ああこれは自分たちに語ってくれているのだと、福音として聞いた話も、それが言い伝えられていくうちに、ふーん、それでどうしたんだ、この話は何を言おうとしているのだと、よくわからなくなったということも少なくありませんでした。

聖書学という学問の立場からすれば、マタイ13章18節以下の「『種を蒔く人』のたとえの説明」というのは、主イエスご自身がなさったものではなく、後の時代、つまりマタイの教会の時代における解説です。この時代の教会の人々のなかに、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、艱難や迫害が起こるとつまずいてしまう人、世の思い煩いや富の誘惑によって実を結ばない人、御言葉を聞いて悟り100倍もの実を結ぶ人、そのような違いが顕著に見られたこと、そのような状況があったのを、譬の説明として述べたのです。

今日の13章10節−17節も、今言ったこととの関連で考えることができます。主イエスは、11節で、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」と、大変厳しいものの言い方をしておられます。また、今日は10節以下を読みましたが、直前の9節を、わたしは10節以下の段落に入れたほうが良いのではと思います。

すなわち9節で言われています。「耳のある者は聞きなさい。」この言葉は、それこそ99匹の側にしか立ってものを感じることしかできない人、朝早くから雇われて仕事をしていた健康で能力のある人、そのような人たちが主イエスの譬話の意味がどうにもわからないでいる。それに対して、主は厳しくも、「あの人たちには許されていない」と言い切られたのです。

そしてマタイは、旧約聖書イザヤ書の言葉を引用します。14‐15節、「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』これはイザヤ書6章9−10節の引用です。

なお、12節の言葉、「持っている人は更に与えられて」という言葉は、今日の箇所の話の流れのなかではわかりにくいところです。ルカ19章では同じ言葉が、ムナの譬のなかで出てきます。ここではこれ以上難しく考えないでおきますが、主イエスの言葉を聞き取ることのできる人は、ますます聞き取れるが、そうでない人はますます聞き取れない、そのような意味に受け取っておきたいと思います。

話をもとに戻し、わたしたちは主イエスの言葉を、主イエスの譬を、どのように読んでいるでしょうか。どのように聞き取っているのでしょうか。主イエスは、わたしたちに、人生の答を全部教えて、それを覚えなさいとか、そのとおり実行しなさいとは言われません。あなたはどう思うか、あなたはどう読むか、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うかと、わたしたちに問いかけをしておられるのです。

自分には力がある、自分は正しい、自分はわかっている、そのように思っているひとにとっては、主イエスの言葉は、そして主イエスの譬は、つまずきにしかならないかと思います。パウロが、「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚か」であると、第一コリント1章言っているように、それはつまずきでしかありません。

しかし、主イエスの言葉を聞きに集まった人たち、弱さを自覚する者、世の無に等しい者にとって、主イエスの言葉は、救いの力、神の力でありました。譬で語られていることは、まさしく自分にあてて語られた福音のメッセージとして受け止めたことでしょう。今ここにいるわたしたち、主の言葉をどのように聞いているでしょうか。主イエスはわたしたちに呼びかけて言っておられます。マタイによる福音書11章5‐6節です。「貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

(2017年 2月 5日)