番町教会説教通信(全文)
2017年12月クリスマス拝説教 「別の道を通って」  牧師横野朝彦

  マタイ2・1‐12

番町教会が、この場所でクリスマスの礼拝を持つのは今年が最後です。記念すべきときです。1月末に建物の引き渡しを受け、2月11日の日曜日には現在建築中の新会堂での最初の礼拝を持つことになっています。新しい建物は、すでにほぼ完成をし、内装工事を少し残すだけとなっています。皆さんには棟上げのときに一度行っていただいただけですので、可能であれば、1月末か2月初めに、もう一度見に行く機会を持つことができればと思っています。

この現在の会堂はすでに45年以上用いられてきました。染みついた習慣とか、部屋の使い方というものがあります。ですから、新しいところに移ったあとしばらくは、なかなか馴染めないとか、使い勝手の良さよりも、使い慣れていないことのほうが気になるかもしれません。その意味では、建物だけではなく、使うわたしたちもまた、新しい気持ち、新しい思いを持って出発をしていくことになります。

新しい所は四ツ谷駅近くの便利な場所です。多くのかたに用いていただきたいと願っています。今回の建築で、繰り返し言われてきたことは、Open for Allということでした。玄関部分、そして入って礼拝堂の手前はすべてガラスになっています。とても開放的で明るくなっています。礼拝堂の壁には窓がありませんが、天窓から入る光によって、昼間に電気の明かりは要らないだろうと思います。窓がないのに、礼拝堂もまた開放感があります。

正直なところ、わたしは天窓というプランを聞いたときに、いったいどのようなものになるのだろうと、イメージを掴むことができませんでした。けれども、今出来上がってみると、これは実に礼拝堂にふさわしいのではないかと思わされています。何と言っても天から光が降り注いでいるというのは素晴らしいことです。主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、「天がイエスに向かって開いた」とマタイ3章に書かれています。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのでした。

また、旧約聖書マラキ書3章に「わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」という御言葉を思い起こしました。さらに創世記28章に書かれている出来事、その昔、ヤコブは夢のなかで天に達する階段を天使たちが昇り降りしているのを見たことを思い起こします。

新会堂の開放感は、Open for Allの精神をよくあらわしたものであると思います。教会は敷居が高い、なかなか入りにくいというのが、よく聞く言葉ですけれど、新しい会堂は実際にもそして気持ちのうえでも敷居を取り払い、皆さんに入ってきてほしいと願っています。それとともに、これまで何度もお話をしてきましたが、Open for Allとは、ただ単に誰でもどうぞという意味にとどまらない大切な意味があります。それは、隔てを取り除くという意味、分かれていたものをひとつにするという意味です。

東西ドイツが分かれていたとき、ニコライ教会という教会はOpen for Allを教会の標語としました。そしてこの教会でおこなわれていた平和の祈りは、東西を分け隔てていた壁を打ち壊す力となりました。東西ドイツの統一は教会が大きな役割を果たしました。

主イエス・キリストが十字架にかけられたとき、神殿にある幕が真っ二つに裂けました。この幕とは、至聖所という神殿の一番奥にある部屋に入る隔てが取り除かれたことを意味しました。幕が裂けたということは同時に、幕が開かれた、神に至る道が開かれたということでした。

ペトロがあるとき幻を見ました。天から大きな風呂敷包みのようなものがつり降ろされてきて、そこには汚れているとされる動物が入っていました。そしてこれを食べなさいという声が聞こえます。ペトロはそんな汚れたものを食べることはできないと拒否しますが、さらに、「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」という声が聞こえたのでした。これは、これまで汚れているとされていた異邦人に福音を伝え、共に歩みなさいという命令でした。

このあとペトロは異邦人であるコルネリオのところに出かけ、イエス・キリストの福音を伝えます。コルネリオも同じときに、幻によって天使の声を聞いていました。これまで、動物だけではなく、人間をも、あの人は清い、あの人は清くないと判断していたことを、神はすべての人は清いのだ、別の言い方をすれば、神は全ての人を愛し、大切にしておられると言われたのでした。ペトロが見たこの幻で、わたしが注目したのは、夢の初めに、天が開かれたことでした。天が開かれる。

もうひとつ思い起こすのは、ヨハネの黙示録19章に出てくる白い馬です。それに乗っているのは「誠実」および「真実」と呼ばれ、またその名前は「神の言葉」でした。そして興味深いことに、この馬もまた、天が開かれて現れたのでした。その箇所を読みます。「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。」

このように、教会が「開く」という言葉を用いるとき、教会を開けていますというような意味だけではなく、天が開かれ、祝福が降り注がれ、そして人の世の隔てを取り除き、わかれているものをひとつにするのです。これは神さまからわたしたちに与えられた福音であり、またわたしたちに与えられた大切な使命です。

さて、救い主がお生まれになる。そのことを最初に知ったのは遠い東の国の人たちでした。昔から3人の博士として知られ、メルキオール、バルタザール、カスパルという名前の3人であったと伝えられています。また一人は青年、一人は壮年、一人は老人であること、また出身地がそれぞれ違うことなどが言い伝えられています。でも、残念ながらそれらは伝説の部類です。

でも聖書の記述をとおして明らかなことがあります。それは彼らが異邦人であったということです。異邦人すなわちこれまで聖書が証しする神のことを知らなかった人たちのことです。さきほどペトロが見た夢のことで話したように、ユダヤの人たちは、異邦人を汚れた民と考えていました。そして自分たちこそ神に選ばれた民であるという、つまりは選民意識を持っていました。ですから、救い主が来られるときには、自分たちの救いのためであって、汚れた民を救うためなどとは考えもしなかったでしょう。

しかし、救い主誕生の知らせは、最初に異邦人に与えられたのでした。マタイによる福音書2章に書かれている主イエス誕生の記述は、もうこのことからして、驚くべき知らせでありました。何と言っても、汚れているとされる人たちに最初の知らせがあったのですから。しかもこの知らせは、星の輝きによるものでした。占星術の学者たちがそれを見て、救い主誕生を知ったのです。

占星術、星占いということでありますが、わたしは今日最初から話をしていることとの関連から言えば、異邦人に対して天が開かれて、知らせが与えられた。そのように思いました。実際にそれがどういう形、どういう方法で起こったのかはわかりません。でも、確かなことは、神が異邦の人たちに救い主誕生を天から告げられたということです。

東の国の人たち、異邦人に救い主の誕生が伝えられたこと自体が、大きな救いのメッセージであると思います。イエス・キリスト誕生の知らせは、自分たちこそ信仰深いと思っていた人たちにではなく、東の国の人たち、異邦人である人たちに伝えられました。自分たちこそ選ばれた民、選民だと思っている人たちにではなく、あれは信仰がないとされていた人たちに、まず伝えられたのでした。

またルカによる福音書を読むと、救い主誕生の知らせはまず羊飼いたちに告げられました。羊飼いたちは当時の社会で卑しめられた人たち、重荷を人一倍負う人たちであったと言われています。貧しく蔑まれていた人たちにこそ、救いの知らせは伝えられたのです。主イエス・キリストの福音はこの社会にあって何一つ申し分のない生き方をしている人に知らされたのではなく、むしろ重荷を負う人や、また異邦人として、敵対視されている人たちに告げ知らされたのでした。

その意味で、ペトロが見た夢、異邦人コルネリオが見た幻と同じ意味のことが、主イエス誕生のときにあったと言えます。救い主の誕生。それはこれまで捨てられたと思われていた人たちに、天が開かれる出来事だったのです。

このことは、マタイのこの箇所に書かれているだけではありません。マタイは12章18−21節で旧約聖書イザヤの言葉を引用し、「彼は異邦人に正義を知らせる」、「異邦人は彼の名に望みをかける」と述べています。

さてそこで、救い主誕生の知らせを受けた彼ら、東の国の人たちはただちに出発します。長い旅でした。東の方、おそらく現在のイラクあたりでしょう。ユーフラテスをさかのぼり、一度北西方向に行ったあと南下することになります。

彼らが向かった先はエルサレムでした。これはその当時の人々の、ある意味常識だったのでしょう。ユダヤの民に救い主が現れる。それは首都であり、神殿があるエルサレムをおいてほかにない。そう考えたのでしょう。

彼らはユダの国の都エルサレムに到着します。そして彼らは、王ヘロデの宮殿に行き、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねたのでした。この質問は宮殿に、そして町中に大きな波紋を呼び起こしました。ヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれ、暴君で有名な王様です。今日であっても、自分の権力を守るために、近親者さえ抹殺してしまうという恐ろしいことを聞きます。ヘロデはその点において代表のような人物でした。ヘロデ王は、自分の王の位を狙う者が生まれたと理解します。

そこで王は祭司長たちや律法学者たちを集め、救い主はどこに生まれることになっているのかと問いただします。すると彼らはそれがベツレヘムという村であると答えたのでした。2章6節に引用されているのは、旧約聖書ミカ書5章です。

ミカ書は第4章で、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という絶対的な平和の幻が書かれています。そして小さな村ベツレヘムからイスラエルを治める者が出るとの5章1節の言葉があり、さらに5章9節では、「わたしはお前の中から軍馬を絶ち、戦車を滅ぼす」と、平和の幻が述べられています。ミカ書が述べる救い主とは、強い権力や武力で国を立て直す支配者ではなく、真の平和を与えるかたであるということがわかります。

東の国の学者たちは、聖書の御言葉によってこれらのことを知り、そしてベツレヘムへと再び旅を続けたのでした。このとき彼らはヘロデ王からひとつ頼みごとをされます。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わたしも行って拝もう。」この言葉が偽りであるのは明らかです。ヘロデ王というのは、自分の地位を守るために、自分の家族兄弟を殺害した人物として歴史に名を残しています。そのような人物が、「自分も行って拝もう」などと考えるはずがありません。本当は自分も拝もうと思ったのではなく、見つかったならば、この幼子を殺してしまおうと考えたのです。

学者たちはベツレヘムに行きます。そこは小さな村でした。でもその村は、その昔ダビデ王が生まれた村として知られています。そして彼らがベツレヘムに向かって旅を再び始めたとき、東のほうで見た星が再び輝いたのでした。

ここで星が再び現れたことは興味深いことです。彼らは占星術の学者として、東のほうで星を見て救い主誕生を知りました。それは天が開いて、神の御旨が伝えられた出来事でした。でも、そこから先、彼らはこの世の常識に従って首都エルサレムに向かい、この世の常識に従って王の宮殿に向かいます。でも、彼らが常識に従って行動しているとき、星は消えていたのです。

そして預言者イザヤの言葉がこう預言していると、ベツレヘムの村の名を知り、そこへ向かったとき、再び星が輝いたのでした。そして彼らは幼子に出会います。そして黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでした。

ところがそのとき、神さまは夢で彼らに語りかけられます。夢のなかで、「ヘロデのところに帰るな」とお告げがあったということです。そこで彼らは、ヘロデの頼みに背いて、エルサレムに戻ることをせず、別の道を通って帰っていったのでした。

彼らが別の道を帰って行ったというのは、地理的な意味で、来た道とは別の道ということです。けれども、そこには深い意味があると思います。ひとつに、ヘロデ大王が君臨し、政治的宗教的な権威の象徴である都、経済的にもほかと比べられない豊かさを持っていた都エルサレムには立ち寄らなかったということです。

夢のなかで「ヘロデのところへ帰るな」というお告げがありました。ですから、ヘロデから離れる道、ヘロデの生き方とは違う、別の生き方です。申しましたように、ヘロデはヘロデ大王と呼ばれ、暴君で有名でした。また自分の地位を守るために、自分の家族兄弟を殺害した人物でした。権力を守るために、力を用い、また民を抑圧した、己を絶対とする生き方でした。そういった生き方とは別の道、反対の道を行け、と神は言われるのです。

わたしはここでふと、アシジのフランシスコの祈りを思い起こしました。讃美歌499の「平和の道具を」と歌われているあの祈りです。フランシスコの祈りのなかで、「憎しみに愛を、戦に和解を、分裂に一致、疑いに信仰、誤りに真理、絶望に希望、暗闇に光、涙に喜び」と歌われています。そこで別の道ということとあわせて考えるならば、これまでわたしたちが憎しみの道を歩いていたならば、別の道、愛の道を歩いて行こう、これまで戦と分裂の道を歩いていたならば和解と一致の道を歩いて行こう、これまで疑いや絶望の道を歩いていたならば、これからは信仰と希望の道を歩いて行こう。そのように言うことが出来るに違いありません。

パウロもまた、コリントの信徒への手紙のなかで、人々が分裂し、派閥を作っている状態を憂い、叱責をし、わたしたちはキリストの体の部分なのだ、わたしたちはひとつの体なのだと述べ、そして続けて「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言っています。それは第一コリント13章です。「そこで、わたしたちはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしはさわがしいどら、やかましいシンバル」という、あの有名な愛の賛歌です。パウロは、愛に生きることを、最高の道と教えました。

そしてここで別の道について申し上げたいことは、己を絶対化するヘロデの道と正反対の道があるとすれば、それは主イエス・キリストが自分を捨ててまで他を愛された十字架への道であろうと思います。

神はわたしたちのために、主キリストを遣わし、愛の道を、身をもって示してくださいました。ヨハネの第一の手紙3章にも書かれています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

最初に、イエスが十字架にかけられたとき、神殿の幕が裂けたことを話しました。そのことについて、ヘブライ人への手紙10章にこう書かれています。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」

まさに、神はわたしたちのために、天の窓を開いてくださり、わたしたちに新しい道を開いてくださいました。その道を歩ませていただきましょう。

(2017年 12月24日 礼拝説教)