番町教会説教通信(全文)
2017年10拝説教 「何事にも時があり」      牧師横野朝彦

    

コヘレト3・1−13

今日読んでいただいたのは、旧約聖書のコヘレトの言葉という書物です。ご存知と思いますが、口語訳聖書では伝道の書といいます。新共同訳が出されましたとき、このコヘレトの言葉というタイトルは大変評判の悪いものでした。というのも、伝道の書というのが、とても言葉の印象がよかったのに、急に意味のわからないコヘレトなどというタイトルに変わったものですから、ともかく馴染がない、ずいぶん戸惑ったかたが多いようです。ただ元来この書物は、伝道の書というには、伝道を目的とした内容ではありません。この書物のタイトルの由来は、1章1節の「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」というところから来ています。このコヘレトをどう訳すかで随分議論がありまして、ある人は伝道者と訳し、これを伝道者の書と呼びます。でも、実際には、コヘレトという人物の名前であるというのが本当のようです。

コヘレトは1章から繰り返し一つのことを語ります。それは、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉です。この虚無的な言葉に驚かされ、いったい何を語っているのかと思わされます。コヘレトはまたこうも言います。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。 知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」

コヘレトの生きた時代、ひとつの考え方がありました。それは、敬虔主義といいましょうか、人間が敬虔であることによって神を知ることができるという考えでした。敬虔とは、体験するという意味の経験ではなく、敬いつつしむという意味での敬虔です。それは新約聖書の時代の律法主義につながるものがあります。人間がこれだけ努力をした、人間がこれだけ知識を積み重ねた。これだけよいことを積み重ねた。それで神様に近づこうとする考えです。

しかしこれに対してコヘレトは言うのです。人間がいかに敬虔であり、知恵を持とうとも、それですべてを知り尽くすことはできない。人間にとって神は不可解でありつづけ、神が造られた世界を人間は知り尽くすことはできない。それは追っても追いつかない、まるで風を追うようなことだと。人間にとっていくら努力しても極め尽くすことのできない人生は、まるで空しいとしか言いようが無い。このように、人生の不条理を述べ、空しさを繰り返し述べます。

でも、コヘレトは単なる虚無主義者ではありません。空しいからと、あきらめを勧めているのか。虚無的に生きればいいのか、コヘレトはそんなことはいいません。

コヘレトが言いたいのは、わたしたち人間は神の被造物であって、人間がこの世界の主人公なのではない、人間は神の造られた世界を極め尽くすことはできないのだと、むしろこの空しさをとおして、創造者なる神様に心を向けることを勧めているのです。

六番町に建設中の新しい会堂には、床が張られ始めました。床下には空調のための大きな配管が通り、また水道、下水道などたくさんの管が通っています。床を張ってしまうとそれらを見ることができませんが、見えないところでさまざまなものが部屋の使用を快適にするために働いてくれている。まさに縁の下の力持ちがいるということを感じさせられます。

先週には新会堂の礼拝堂正面に十字架がつけられました。もう十字架がついたのかと驚かれるかと思いますが、これは、正面壁のどの高さ、どの位置につけるのが一番よいかを調べるために、現在のこの会堂にある十字架と同じ大きさのものを、仮に取り付けたものです。来年の移転時、それより少し前になるかと思いますが、最終的には現会堂の十字架を移設することになります。このように、同じサイズのものをわざわざ用意して入念に検討されている。こういった表面には出ない、丁寧な仕事をしてくださっていることも感謝です。

これまでに何度もお話をしてきたことでありますが、現会堂の建て替えについては随分前から課題となっていました。けれども現在地に同じような建物を造ろうとしても、法律上の制約から床面積が減ってしまう。また費用も莫大なものになる。さらに3階から上に居住する人たちの権利関係の複雑さ、そのために建て替えはほとんど不可能に思えるほどでした。

一時は、大手の不動産会社が主導して地域全体の大規模な再開発の話が具体的に進んだのです。結局その不動産会社はこの事業では採算が取れないと撤退をしました。そのようななかで東日本大震災が起こり、この建物の耐震性など次々と問題が起こってきました。そしてちょうどそこへ新たな開発の話が持ち込まれ、今日に至ったのです。わたしは、長い間、いろいろな話が起こっては行き詰まってきたことを当事者として見てきました。そのようなわたしにしてみれば、今回の建て替えはまさに絶妙のタイミング、まさしく準備されていた「時」が来たという思いがいたします。

言い換えれば、わたしたちが計画を立てて、スケジュールを組んで、これまでやってきたのではなく、大きな御手の働きによって今わたしたちにこの時が与えられているということです。そしてわたしたちはその時が与えられたことに感謝をし、神が与えられた時を生かして、感謝と喜びの思いを持って働かせていただくことです。

どのようなことにも、定められた時があると思います。随分前に読んだ本で、内海隆一郎さんというかたの随想集のなかに、「月の仕業」という文章がありました。「慶良間諸島のサンゴは年に一度、5月から8月にかけての満月の夜、一斉に産卵するのだそうだ。」このような言葉で書き始められていました。それはまさに神秘的な光景だということです。そしていろいろな例が紹介されています。刀剣造りの高名なかたは、刀に焼きを入れる時期を満月の夜と決めている。晴れても曇っても満月の日を選び、精魂込めて刀を打つと、かならず見事な仕上がりになるのだそうです。

あるいは、染色家のかたが、「満月の夜は、藍の発色が際立ってよろしいんです」と言われたこと、また病院関係者によれば、満月の夜は交通事故や喧嘩の怪我、殺人事件までが普通の日よりも多いとか。

田畑に苗を植えるとき、あるいは収穫物を取り入れるとき、農家のかたがたは季節と相談しながら、天候と相談しながら植えるとき、取り入れるときを決められます。このときを逃してしまうと、得られるはずの収穫が得られなくなってしまいます。面倒だから植えるのは明日にしようなどと考えたならば、一年間の収穫を失うことさえあります。

わたしたちは定められたときに、まさに時が満ちるようにしてこの世に生を受けました。死もまた同じです。わたしたち人間の思いをはるかに超えたところで、その時は定められているのだと思います。

戦国の武将がじっと時を待って旗揚げする場面がありました。じっと時を待つのです。勝機という言葉があるように、時を無視しては何事もいきません。戦いの終息も、平和の到来も時があるのでしょう。いがみ合い、反目しあっていても、思いも掛けない和解の時がやってくることがあります。

いっぽうにおいて、しない時、出来ない時というのもあります。10年ほど前まで早稲田教会におられた上林順一郎牧師、現在は江古田教会におられますが、上林牧師の説教集に「なろうとしてなれないとき」というのがあります。上林牧師はその説教のなかで、自分は幼少のころ蒸気機関車の運転士になりたかった、次にはかっこよさにあこがれて警察の刑事になりたかった。その次には土木技師になりたかった、自分の人生は小さい頃からなりたいと思っていたものにはなれなかった。そして紆余曲折しながら、最終的には牧師になりたいという思いを、それなりに実現して今日にいたっている。なろうとしてなれないとき、それは決して挫折や敗北ではなく、実はキリストにあって新しい自分を得ることのできる時だと、このように説教をしめくくっておられました。

上林牧師の経験はわたし自身の経験でもあります。もっとも自慢できるようなことではなく、挫折の繰り返しでありましたが、それでもそれらの体験は今の自分の土台となったと思っています。

時が定められているからといって、わたしたちが何もしなくてよいわけではありません。わたしたちはそれなりに努力をし、計画も立て、力を尽くす必要があるでしょう。でも、それが仮に計画通りにいかなくても、思い煩うことはないのです。それこそ、その日の苦労はその日だけで十分であり、明日のことを思い悩む必要はないのです。これは主イエスが山上の説教で教えてくださったとおりです。

今日読んでいただいた旧約聖書コヘレトの言葉3章1‐13節は、聖書日課に従って選んだものです。これもまた、時が与えられて今日読むことになったのでしょう。生まれる時から始まって、平和の時まで、28の時があげられています。そしてその一つ一つが、なるほどそのとおりだなと思わされ、すべてのわざに時があると教えられます。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉で始められています。口語訳聖書では「コヘレトの言葉」ではなく「伝道の書」となっています。そこでは「天(あめ)が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と訳されていました。

この冒頭の言葉に続いて、「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時」と書かれています。これも口語訳聖書をみると、「生(うま)るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり」となっています。何かをするのに、時があるのです。

生まれるのも死ぬのも、神の御手のうちにあります。人がその時を定めることは出来ません。植える時、植えたものを抜く時というのは、さきほど田植えを例にさせてもらったとおりです。

3節に「殺す時」という言葉があってちょっとどきっとします。もちろん殺すということが容認されているわけではありません。ただこのような恐ろしいことを企てたとしても、やはりそこには時というものがあるのだと思います。そしてまた癒すにも時があります。お医者さんたちは、経験によってある程度の病気快復の予測を立てますが、実際には思う通りになるのではありません。やはり癒される時というのがあるのだと思います。こわすに時があり、建てるに時があり。冒頭で会堂建築の時が与えられたと言いました。時が来なければ、まったく実現不可能なことでした。

2週間前の礼拝で、新約聖書のギリシア語には時をあらわす単語がふたつあり、ひとつは時刻をあらわす時、もうひとつは定められた時を意味すると言いました。かけがえの無い、今この時という時をあらわします。それと同じように、旧約聖書のヘブライ語でも、時間としての時よりもむしろ内容的な、今まさにこの時という時が多く言い表されています。創世記に「家畜を集める時」、ミカ書に「産婦が子を産むとき」、サムエル記に「王たちが戦いに出る時」などなど、時という言葉は、何かの事柄に結びついて大事な今まさにこのときをあらわしています。

泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時/石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時/求める時、失う時/保つ時、放つ時/裂く時、縫う時/黙する時、語る時/愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

どんなに泣いていても、笑う時が必ず与えられるのでしょう。黙する時があり、また語る時があります。黙ったほうがいいという時があります。また今こそ語るべきときだという時もあります。求める時があり、失う時があります。口語訳聖書では捜すに時があり、失うに時があると訳されています。そしてまた、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時があります。

このようにわたしたちには、すべてに時というものが与えられている。その時が来ていないのに求めても得られません。時間薬という言葉がありますが、心身を癒すにも、与えられた時があります。

コヘレトは、このように述べたうえで「人が労苦してみたところで何になろう」と9節で言っています。この言葉は少々誤解を与えるかもしれません。人は労苦しなくてよい、働かなくてよいと聞こえるかもしれないからです。でもそのような意味ではありません。ここで言われていることは、与えられた時というものがあるのだから、あれこれ思い煩うなということです。先に述べたとおり、その日の苦労はその日だけで十分だということです。

10‐11節、わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。何事にも時がある。神はすべて時宜にかなうようにしてくださるのです。そして大切なことは与えられた時をとおして、わたしたちは神の御旨に触れることになります。永遠を思う。永遠、それはただ時間が長いという意味ではありません。ここで言う永遠とは、わたしたち人間存在の一切を包み、愛し、導き、その一つ一つのわざに、最もよい時を与えてくださる神のことです。コヘレトは、わたしたちの人生のひとこまひとこまを通して、わたしたちをはるかに超えた神を思うことができると言っているのです。

12節にはこうあります。「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。」自分の努力によって救われるのではない、神が与えてくださる時を生きること、すべて神の与えてくださる賜物として、喜ぶこと、それこそがこの空しい人生を過す過ごし方ではないか。

何事にも時がある。すべてのわざには時がある。ここでわたしたちは新約聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。マルコによる福音書の冒頭主イエスがガリラヤで福音を語り始められたときの第一声は何だったでしょうか。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でありました。主イエスが来られたこと、それは神が用意された救いの時が、まさに時に満ちてやってきたということでした。

ヨハネによる福音書は、主イエスの十字架と復活によって神の栄光が現わされると述べています。カナの結婚式で「わたしの時はまだ来ていない」と言われた主イエスは、ヨハネ12章、十字架を前にしたいわゆる訣別説教のなかで、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われ、続けて「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われたのでした。

そしてもう一箇所、コリントの信徒への第二の手紙6章でパウロは言っています。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」

キリストが、己を低くしてしもべの姿を取られ、十字架の死に至るまでにわたしたちに仕えてくださったことをとおし、わたしたちは神の救いを知ることができました。そしてわたしたちに永遠の命の約束が与えられました。

生まれるに時があり、植えるに時があります。建てる時があり、笑う時があり、愛する時があり、平和の時があります。そして「今や恵みの時」と主キリストによる救いの時がわたしたちに与えられています。これらはすべてわたしたちに与えられる神の賜物です。

(2017年10月 8日 礼拝説教)