番町教会説教通信(全文)
2017年1拝説教 「これはわたしの愛する子」   牧師横野朝彦

マタイ3・13‐17

新しい年の第2週、そして今日は降誕節の第2主日です。聖書日課にしたがってマタイによる福音書3章13‐17節を読んでいただき、説教題は「これはわたしの愛する子」といたしました。

個人的な話ですが、クリスマス礼拝が終わった翌日から、先週の主の日、新年礼拝にかけて、わたしは休暇をいただいて他の教会の礼拝に出席させていただきました。この機会を与えていただいたことに感謝をしています。またその間、北原伝道師が新年礼拝を担当してくださるなど、多くのかたが留守中の奉仕をしていただきました。感謝をいたします。

旅行にでかけまして、旅先のふたつの教会で、3つの礼拝に出席しました。そしてどの礼拝でも聖餐式にあずかることができました。当初からふたつの教会に行くことを計画に立てていたのですが、3つの礼拝、3度の聖餐式というのは想定外、思いがけない体験でした。

たまに職務を離れて、他の教会の礼拝にひとりの信徒として、ひとりのキリスト者として出席をすると、とても新鮮な気持ち、満たされた思いになります。そして、礼拝っていいものだなあと思うのです。誤解のないようにお願いしたいと思います。でも、牧師という立場で礼拝に臨むのは、どうしても緊張感とか、あれこれへの配慮がかかせませんから、新鮮な思いが忘れられることがあります。今回そのような意味でも、とても良いときを与えられました。

聖餐式は、聖餐を受ける人が前に進み出ました。牧師が一人ひとりに対して、「これはキリストの体です」、「これはキリストの血です」と語りかけながら、パンと杯を渡すという方法が取られていました。

それとどの礼拝でも、平和の挨拶がありました。礼拝の終わりのほうで、皆が近くにいるものたちと握手を交わし、挨拶を交わします。そのうちの一度、わたしは他の人たちと離れて座っていたのですが、前列ではあるものの、ちょっと遠くの席の人がわざわざわたしのところまで来てくださいました。

すべてが終わったあと、牧師が帰る人たちを見おくります。10数人の人たちが牧師と言葉を交わすために並んでいます。わたしもその列に加わり、簡単な自己紹介をしました。たったそれだけ、それだけの体験なのですが、わたしは見知らぬ土地で、この人たちの一員であったという思いを強く感じることができました。

まわりは誰も知っている人がいない、そんななかで、自分もそのなかの一員であると感じることができる。それは教会という共同体であるからこそ体験できることです。あなたは誰ですか、なぜここにいるのですかと問われるのではなく、あなたはここにいてよいのですよと招かれ、呼びかけられ、自分が受け入れられていることが大きな喜びでした。礼拝という場は、神さまによって自分が受け入れられているということを気づく場であること、そして他者からも受け入れられている場であること、そのことを改めて感じることが出来たのは、わたしにとってとても感謝なことでした。

今のこの時代、この社会は、IT、情報技術や、人工知能がますます発展しています。けれどもそのなかで人と人とのかかわりがますます薄くなり、人の孤独化が増していると思えてなりません。ツイッターというのがあります。ツイッター、もともとは小鳥のさえずり、おしゃべりを意味するものです。それはそれで便利で、上手に使えば楽しい通信手段なのでしょう。でも、誰かがちょっとつぶやいたことが、あっという間に拡散して、たくさんの人につぶやきが広がる。それは同時に、人の孤独、他の人とつながりを求めていることの裏返しのような気がしてなりません。

いっぽう、ツイッター疲れ、SNS疲れというのがあるそうです。SNSとはソーシャルネットワーキングサービスの略語です。調べてみると、次のように説明されていました。「長時間の利用に伴う精神的・身体的疲労のほか、自身の発言に対する反応を過剰に気にしたり、知人の発言に返答することに義務感を感じたり、企業などのSNSで見られる不特定多数の利用者からの否定的な発言や暴言に気を病んだりすることを指す。」

わたしもこれまでに経験があります。わたしはいくつかの団体にボランティアとしてかかわっていますけれど、そこで会議を開くのに、会って話をする時間がないため、メールで複数の人たちが会議をするようなことがあります。大変便利なのですが、ちょっとした言葉に対して過敏な反応が起こり、本来話しあっていることとは違うところで相手を詰問するようなことが起こります。

わたしから見れば、立派な経験と知識を持った人たちが、メールでの会議になると急に相手への非難の言葉がきつくなってしまう。そんなことをわたしも見聞きしてきました。

今の社会、若いかたがたを見ていると、生身の人と人とのぶつかりあいがとても下手なような気がします。上手下手というよりも、そういう機会が少なくなっているのではないでしょうか。子育て中のお母さん、お父さんが、小さな子にスマートフォンなどの画面で絵本を見せていることがあると聞きました。おそらく音声も出て、読み聞かせをしてくれるのでしょう。便利なものなのでしょう。でも、絵本を読むということの意味は、そこに書かれていることを情報として知ることではなく、親と子とのふれあいにあるはずです。また、小さな子の目や頭には刺激的すぎます。そして今言ったようなことが、別段特別なことでも、極端な例でもなく、当たり前のことになりつつあります。

そのようなことがさらに進んだとき、社会はどのようになっていくのでしょうか。社会という言葉自体が意味を変えてしまうのだろうと思います。

そのようななかで、教会は何を発信していくのでしょうか。何を伝えていくのでしょうか。それは、人が生きていくことの原点、人と人とのつながりの原点、あなたは愛されて生まれたのですよ。あなたは受け入れられているのですよということ、それを言い続けることではないかと思います。情報社会の発展が、つながりの希薄さを生み出しているならば、それを取り戻すというか、原点に帰ること、結局それは、愛を伝えるという教会の本来のわざが必要とされているのだと思うのです。

創世記1章に、6日間にわたる天地創造物語が書かれています。その6日間の、一日、一日の終わりごとに、「神はこれを見て、良しとされた」と書かれています。そして6日目。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」聖書の冒頭、第1ページから2ページに書かれていること。それは、「あなたは良い存在なのだ」というメッセージなのです。

イ・ミンソブというかたが作詞した「君は愛されるため生まれた」という歌がありました。歌詞を読んでみましょう。「君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている 永遠の神の愛は 我らの出会いの中で実を結ぶ 君の存在がわたしには どれほどおおきな喜びでしょう 君は愛されるため生まれた 今もその愛 受けている。」

この歌のもととなったのは、旧約聖書イザヤ書43章だということです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」神さまの目に、あなたは価高いのですよと、聖書はわたしたちにメッセージを伝えているのです。

そしてこのような神の愛が、もっとも大きく表されたのが、主イエス・キリストがこの世に来られたことでした。ヨハネによる福音書3章16節は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、わたしたちに与えられた神の愛を伝えています。

主イエスは、当時の人々が嫌っていたザアカイに呼びかけ、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。この呼びかけはザアカイにとってどれほど大きな喜びだったことでしょうか。彼は徴税人でした。当時ローマの属国であったユダにとって、徴税人はローマの手先のようなものだったのでしょう。そのために単に嫌われるだけではなく、罪人と同様に扱われていたのでした。その彼に、主イエスは「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。

この「泊まる」という単語ですが、聖書に頻繁に出てくる単語のひとつです。それはただ泊まるという意味にとどまりません。ヨハネによる福音書15章で、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と教えてくださいました。そこで主は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われました。このつながると訳された単語は、主イエスがザアカイに言われた「泊まる」と同じです。

主イエスは、ザアカイに「わたしはあなたにつながっていたい」と言われたのです。人々から嫌われ、人と人とのつながりが断ち切られていたザアカイに、それは人間としてのつながりの回復を告げる言葉でした。

さて、今日読んでいただいた聖書の箇所は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたところです。そしてこの話のなかに書かれていた、主イエスが洗礼を受けられ、水から上がられたとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのでした。今日は、この「これはわたしの愛する子」という言葉に焦点を当てて、ここまでお話をしてきました。それは、「これはわたしの愛する子」という言葉が、ここにいるわたしたち一人ひとりにも、与えられていると思うからです。

バプテスマのヨハネが罪の悔い改めをうながし、人々に洗礼を授けていたこと、そしてそのヨハネから主イエスが洗礼を受けられたこと、これはキリスト者たちを戸惑わせてきました。というのは、罪のない神の独り子であるキリストが、どうして悔い改めの洗礼を受けられたのかということでした。

なぜ主イエスはヨハネから洗礼を受けられたのか。このことに簡単に答えることは出来ません。ただ申し上げたいのは、主イエスは神の子であられたけれども、この世にはまことの人として来られたということです。新約聖書フィリピの信徒への手紙に歌われているキリスト賛歌、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

ここにあるように、主イエスは自分を無にし、僕となってくださったのです。神の子なのだから、十字架は苦しくなかったなどということはありません。わたしたちの重荷をすべて担われ、苦しみを苦しんでくださったのです。まことの人となられたのに、「いやわたしは罪がありませんから洗礼はいりません」などと言えるでしょうか。まさに罪人の一人として、わたしたちと共に生きてくださったのです。

それゆえにこそ、罪を告白し洗礼を受けることは、主イエスにとって、「正しいこと」でした。そこで、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と答えられたのです。

以上のように思うとき、主イエスの洗礼、罪を告白し洗礼を受けるということは、自分を無にして、僕の身分になるということではなかったでしょうか。つまり、このときから主イエスは公の生涯、公生涯が始まるのでありますが、その出発において、まず徹底してご自分の身を低くされたのです。それが主イエスの受洗であったとわたしは理解しています。

そしてこのようにして主が洗礼を受けられたとき、聖霊が降り、天からの声が聞こえたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」

この天からの声の意味についても、これまで色々と解釈されてきました。神さまが、神の子イエス・キリストのことを、「これはわたしが愛する神の子キリストだ」と公に宣言をされた、そのように読む解釈があります。また主イエスご自身が、このときから神の子としての自覚をもって生きられたという解釈もあります。それらは正しい解釈だと思います。

しかしわたしはこれをもう少し広く受け止めたいと思っています。わたしがこれを広く受け止めたいということの意味は、神さまの前に身を低くするものに対して与えられる神さまの祝福の言葉だということです。それは神さまの前に身を低くする者に対して、神さまはそれをご覧になって良しとされたという出来事です。あなたはそれで良いのですよという、祝福の言葉です。フィリピの信徒への手紙は、「自分を無にして、僕の身分になり」という言葉に続いて、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と述べています。

主イエス・キリストが洗礼を受けられたということ、そして「これはわたしの愛する子」という声を聞かれたことは、ここにいるわたしたちにも与えられている福音であると思います。身を低くして神さまの前に出ていくとき、わたしはあなたを愛していますよ、あなたはわたしにとって価高い存在ですよという神さまの呼びかけをわたしたちもまた聞くことを許されているのです。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われた主イエスは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と、わたしたち一人ひとりに対して呼びかけてくださっているのです。

ザアカイは周りの人たちから嫌われていました。けれども、神さまの愛は人を分け隔てすることはありません。

主イエスの山上の説教において、主イエスは、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と教えてくださっています。善人にだけ太陽を昇らせるとか、正しい人にだけ雨を降らせるということではありません。悪人には太陽を昇らせないでおこうとか、正しくない人には雨を降らせないというようなことはありません。それは当然のことです。そしてそれと同様に、天の父なる神の愛や、神の恵みは、すべての人々に注がれているのです。

そのことを思うと、主イエスが、天の父なる神さまが「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われたことは、まったく当たり前のようでありながら、実はわたしたちへの鋭い問いかけになっていると思われます。つまり、あなたがたは、あの人は悪い人だとか、あの人は嫌いだとか、あの人の言うことは間違っているとか、人と人とを隔て、裁いてしまっているが、神さまはそのような隔てを作られない、神さまはそのような隔てなく、誰にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせ、愛を与え、恵みを与えてくださっている。にもかかわらず、どうしてあなたは隔てを設けようとするのですか。主イエスの言葉はこのような問いかけだと思います。

信仰を持つということは、自分を絶対とする気持ちを捨てることです。それがなければ、いくら信仰深いように見えても、その信仰は無に等しいとさえ思えます。信仰は神さまのみを絶対と認めることであって、自己絶対化であってはならないのです。信仰を持つということは、神さまの前に皆が等しく価値を持っている、誰も価値のないものはいないと気づかされることです。

バプテスマのヨハネは悔い改めの洗礼を授けました。悔い改め、それは自分を絶対とする心を捨て、神さまの前に身をかがめることです。自分は正しいという思いを捨て、神さまに新しくしていただくことです。そのような思いをもって神さまの前に進み出るとき、神さまが、「これはわたしの愛する子」という呼びかけを与えてくださっていることを、聞くことができます。

(2017年 1月 8日 礼拝説教)