番町教会説教通信(全文)
2016年9拝説教 「名を呼ぶ」            牧師横野朝彦

ヨハネ10・1−6

聖書日課にしたがい、ヨハネによる福音書10章1−6節を読んでいただき、説教題を「名を呼ぶ」といたしました。10章3節の「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」から付けたものです。

アフリカの西、アンゴラに伝わる民話です。一人の娘が若者と出会い、結婚をします。相手の男性には4人の兄弟がいました。彼女はその土地の習慣にしたがって、薯のおかゆを作り、4つのお椀に盛り付けて兄弟たちのところに持っていきます。ところが兄弟たちは口々に言うのです。「これを喰ってほしいなら、俺たちの名前を言ってみろよ。」

彼女は答えます。「だってねえ、あたしはまだあんたたちの名前を知らないんだもの。」「俺たちの名前を知らないんなら、これを喰うわけにはいかねえ。こいつはもっていってくれ」、4人は口をそろえてこう言います。そこで、彼女は仕方なく手つかずのお盆をもって家へ帰ったのでした。

このようなことが何日か続きます。ある日の夕方、彼女が働いているそばに一羽の小鳥がとまり、兄弟たち4人の名前を教えてくれました。最初はよく鳴くうるさい小鳥だと思っていたのですが、それが繰り返されるうちに、小鳥が兄弟たちの名前を教えてくれているのに気付いたのでした。

そして次の日、いつものように兄弟たちにおかゆを持っていきます。「これを喰ってほしいんなら、俺たちの名をいってみろよ。」彼女はすかさず答えます。「これはトゥムバ・シクンドゥ、おつぎは、トゥムバ・シクンドゥ・ムーニャ。そして次のお前さんはトゥムバ・カウンルゥ、おしまいは、トゥムバ・カウルゥ・ムーニャ。」歌うように名前を呼ぶと、4人は顔をみあわせて笑い、4人はやっとおかゆを食べたのでした。

この話は、C.S.ソンという、台湾の神学者が提唱した民話の神学のなかで紹介されているものです。名前を呼ぶということが、その人の存在そのものを認め、受け入れることであるということ、そこから人と人とのつながりが生まれるということを語っています。またその名前を小鳥が教えてくれたということにも何か意味があるように思います。

銀行や郵便局、役所などで手続きをしていると、名前ではなく番号で呼ばれることがあります。受付番号ということですが、昨今は個人情報保護ということで、名前を呼ぶことを控える動きがあります。病院でも名前を呼ばなくなったとか、病室に名前を書かないところもあります。ある程度は仕方ないと思うのですが、どこでも番号だけというのは、なにか寂しい思いがします。

ずいぶん前に読んだ小説で、学校の授業で、教師が生徒に対して「何番」、「何番」と番号で呼び、質問の答えを言わせる場面がありました。それは、一人ひとりの個性や、長所や短所や、喜びとか悲しみとかは一切関係ない社会です。また、一人ひとりがかけがえのない存在として扱われるのではなく、誰でも代わりがきく、代替品のきく社会です。

また前に見た外国映画では、囚人が番号で呼ばれている場面がありました。皮肉なものの見方だとは思いますが、個人情報保護ということが、刑務所と同じになってしまっているというのは言い過ぎでしょうか。

熊本の地震で、個人情報保護が支援活動のネックになったと聞きました。どこに誰が住んでいる、誰はどこに避難しているといったことが、十分に開示されなかったために、救援をおこなう諸団体の連携がうまく取れなかったようです。個人情報はもちろん大事なのですが、急に何もかも秘密にされて、弊害が出てきているようです。

名前、もちろん広い世界には似たような名前も少なくなく、同姓同名もありますけれど、しかし本来名前というものは、その存在が他のものと交換することのできない、かけがえのなさを表していると思います。大勢の人が働いているなかで、10番の人がいなくなったら11番が代わりにすればよいかもしれない。別に12番でも13番でもかまわない。しかし名前が呼ばれるということは、その人でなければならない、かけがえのなさがあると思うのです。代替品によっては交換不可能な存在の尊さです。

わたしが数えたわけではありませんが、名、名前という単語は新約聖書に151回、旧約聖書には428回も出てくるそうです。聖書の世界において名がとても重要なものであることがわかります。名前というのは、その人の存在、個性、人格などと結び付いています。適当にほかの名に変えることはできないのです。

話がちょっと大きく広がりますが、日本が戦争時代にしたことのなかで、朝鮮の人たちを大きく怒らせたことがありました。それは創氏改名、名前を日本風に変えさせたことです。朝鮮は名前をとても尊び、系図を大切にする国ですから、そのときの屈辱というのは大変なものでした。日本では最近まで日本国籍を取る人に日本風の名前に変えるよう求めていました。スポーツの世界などで、外国風の名前の日本人選手が活躍していますが、このあたりの変化は、わずか最近10年、20年のことではないでしょうか。

話を戻し、名が呼ばれる、それはかけがえのない存在として呼びかけられることです。名を呼び、誰でもよいから返事をしろというのではなく、ほかの誰でもない、あなたを呼んでいるのですよと、名が呼ばれ、招かれていることなのです。

聖書のなかから、名を呼ばれる場面をいくつか思い起こします。最初に思い起こしたのは、ルカによる福音書19章のザアカイの話です。ザアカイは当時の社会で嫌われ者でした。評判のイエスというかたが町に来られたというので彼は見に行きますが、群衆が彼をさえぎってイエスの姿を見ることができません。そこで彼はいちじく桑の木に登ります。イエスはその木の下を通りかかったとき、上を見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

このことはザアカイにとって予想外の大きな出来事、予想外の大きな喜びでした。彼はこの時からのち、生き方を改めたということです。そしてこのことは町の人たちにとっても予想外で、あのイエスはなぜあんなザアカイの家などに泊まったのだと噂したのでした。

このことは、嫌われ者であったザアカイにとってまさに福音、喜びのおとずれでした。いつだったか、イエスさまはどうしてザアカイの名前を知っていたのだろうと質問をされました。たしかに不思議なことです。でもどのようにして名前を知ったのかはわかりませんけれど、主イエスにとってザアカイは、そこの人でも、何十何番という数字で呼ばれる存在でもなく、主イエスの救いを必要とするかけがえのない存在としてその名を呼ばれたのでした。

ヨハネ20章、主イエスの復活の場面。十字架につけられ墓に納められた主イエスのもとに、マグダラのマリアが行きます。墓についてみると墓は空になっています。いったいどうしたのだろう、どうなったのだろう、マリアは泣いています。そこへ誰かが現れ、マリアはこの人がだれかわからなかったのでありますが、このかたご自身が彼女に「マリア」と呼びかけられたのでした。ほかならずそれは復活の主イエスでした。泣き悲しむマリアに、主イエスはまさしくその名前を呼んでくださったのでした。

旧約聖書からもふたつの話を取り上げて紹介したいと思います。ひとつは創世記21章です。アブラハムの女奴隷であったハガルは、アブラハムの子イシュマエルを出産しますが、アブラハムの妻サラの妬みを受けて、家を出ることになります。荒れ野をさまよい、持っていた革袋の水もなくなり、もはや死を待つしかない状況に陥ります。幼子イシュマエルは泣いています。ところが神はイシュマエルの泣き声を聞かれたのです。21章17節、「天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。』」このように彼女の名前が呼ばれます。そして彼女の目が開かれ、そこに井戸を見つけたのでした。それはまさに命の水でした。

この話の直後、創世記22章で、神はアブラハムにその子イサクをささげるように命じられます。アブラハムがその命令に従い、わが子イサクをささげようとしたその瞬間に、「天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた」のでした。

以上のように、町の人たちから嫌われていたザアカイに、愛するイエスがいなくなったと泣いていたマリアに、死に瀕したハガルとイシュマエルの親子に、そしてわが子をささげるという大きな苦悩のなかにいたアブラハムに、神はその名前を呼ばれたのです。

すなわちどの場面をとってみても、何か用事があって名前を呼んだというのではなく、生きるうえでの苦悩を背負い、嘆きや悲しみのなかにあり、命の危機に瀕している、そのような人々に向かって、神はその名前を呼ばれました。神が名を呼ばれる、それは救いの出来事でした。

さて今日はヨハネによる福音書10章を読みました。今日は1−6節、新共同訳で「『羊の囲い』のたとえ」というところを読みまして、ここでは前の章から続いているファリサイ派の人たちへの批判が述べられています。すなわち、ファリサイ派の人たちが言うならば偽りの羊飼いであることが問題とされています。偽りの羊飼いとは、一匹一匹の羊のこと、その名前も知らず、権威ばかりを振りかざしている。そのことが言われているのでして、それを受けて7節以降の「イエスは良い羊飼い」という段落につながっています。

でも、話が複雑になるので、ファリサイ派の人たちへの批判のことは、今日は脇に置いておきたいと思います。今日述べておきたいことは、イエスは良い羊飼いであるということ、そしてそのことは今日の1−6節においても言われています。すなわち、3節にあるように、良い羊飼いであるイエスの声を羊は聞き分けるということ。そして良い羊飼いであるイエスは羊の名前を呼ばれるということ。4節にあるように、良い羊飼いであるイエスは羊たちの先頭にたって歩まれ、羊たちはそれについていくこと。羊は羊飼いの声を知っているということです。

ルカによる福音書15章には、「見失った羊のたとえ」が書かれています。マタイでは18章に並行記事があります。ある人が100匹の羊を飼っていました。そのうちの1匹がいなくなります。聖書の世界では草のあるところを求めて、羊たちを移動させていましたから、道に迷う羊や、また野獣に襲われる羊もいたことでしょう。1匹いなくなるということもしばしばあったのかもしれません。

ルカ15章の譬では、失われた1匹のために、他の99匹を野原においてでも、捜し回ると書かれていました。この世の価値では99匹のほうが大事でしょう。しかし主イエスにとっては、失われた1匹こそが大事だと譬によって語られています。失われた1匹をどのように捜したのでしょうか。おそらく、大きな声をだして、その名を呼んだに違いありません。

羊飼いは全体の数をかぞえて、おや1匹足らないと思ったのではありません。羊飼いは1匹1匹の顔や名前をよくわかっていました。わたしたちには、羊はどれも同じような顔をしているとしか思えませんが、羊飼いにとっては、顔を見ればすぐわかる、それどころか、昔読んだ本によれば、目隠しをして羊の顔をさわるだけで、どの羊かわかるとありました。それだけ良い羊飼いと羊との関係は、深い信頼とつながりがあったのです。

今日の聖書箇所のすぐあと、10章14節で、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、主イエスは述べておられます。ここで、羊飼いは羊を知り、羊も羊飼いを知っているとありました。今日の箇所でも「羊はその声を知っている」とありました。顔がわかるだけではありません。その声を聞くだけで、どの羊が鳴いているのかもよくわかるのでしょう。

この「知る」という言葉でありますが、ギリシア語の「知る」という単語は、ただたんに知識を身につけるといった意味での知るとは同じではありません。ここで「知る」とは、もっと全人格的に相互の深い関係を意味するものと言われています。ガラテヤの信徒への手紙4章9節でパウロは、わたしたちが神を信じるということについて、「しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られている」と表現しています。

このような深いつながり、深い関係が、羊飼いと羊の間にはあるのです。ですから羊がもしも迷い出たとき、羊が苦悩のなかにあるとき、悲しみや嘆きにあるとき、羊飼いは羊の名を呼びます。そして羊は捜され、見出され、回復が与えられ、救いが与えられるのです。

詩編23編では、神さまが羊を、憩のみぎわ、水のほとりに連れていってくださる、それゆえ、たとえ死の陰の谷を行くときも、わざわいを恐れませんと歌われていました。羊であるわたしたちが神さまへの絶対的な信頼によって歩むことが歌われています。

しかしヨハネによる福音書では、さらにすすんで、主がわたしたちの救いのために命を捨ててくださるというのです。10章11節で主イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語ってくださっています。ヨハネ15章で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語ってくださった主イエスは、この言葉をまさに生き抜かれました。それが主の十字架の出来事でした。主が十字架にかかられて、私たちの贖いとなってくださったこと、私たちの救いとなってくださったこと、このような救いの出来事が、羊と羊飼いという例えの中で語られているということです。主は良い羊飼いとして、羊のために命を捨ててくださったのです。

今日は、名を呼ぶということから話を始めました。名を呼んでくださるかた、そのかたはわたしたちのために命さえ捨ててくださるかたです。狼によって羊が襲われると、自分までが逃げ去るような羊飼いではなく、羊のために身代りにまでなってくださる方だというのです。そして10節では、この方によって、わたしたち羊は、命を受けることが出来ると言われます。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」

あといくつか聖書箇所を引用したいと思います。ルカによる福音書8章の、ゲラサ人の地における奇跡物語、墓場に住む男が自分の体を傷つけている、自傷行為におよんでいる話があります。この箇所で主イエスは男に対して、「名はなんと言うか」と問いかけておられます。名を直接呼びかけることをしていませんけれど、これもまた主が名を呼ばれた出来事としてよいでしょう。人々から捨てられ、「悪霊に取りつかれた男」としか呼ばれていなかったこの人に、主は「名はなんというか」と問われ、主イエスとレギオンという名の男との間につながりが生まれ、そして救いがおこったのでした。

このように神さまはわたしたち一人ひとりを大切な存在として、その名前を呼んでくださいます。ローマの信徒への手紙9章には、旧約聖書ホセアの言葉が引用され、次のように書かれています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。」

このように呼びかけてくださる主の呼びかけに応えていきたいと願います。先頭に立って歩いてくださり、青草の原、憩いの水辺に連れて行ってくださる良い羊飼い、わたしたちを捜し求め、命さえ捨ててくださる良い羊飼い、主イエスのあとに従い、主の御声を聴いていきたいと願います。そしてローマ10章に、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」とあるように、わたしたちも主の名を呼び求めていきたいと願います。

 (2016年9月4日 礼拝説教)