番町教会説教通信(全文)
2016年8拝説教 「公正と信義に信頼して」    牧師横野朝彦

詩編85・9−14

知恵の書9・1−3

8月第1の日曜日、今日は平和聖日です。昨日は広島の原爆記念日71回目の日でありました。一昨日の夕方テレビで、女子高校生が被爆者のかたから何度も何度も話を聞き取りながら、原爆の絵を描いたことが紹介されていました。見るものに訴える力のある作品でした。絵の中央に炎が描かれています。その炎が竜巻のように渦を巻いて昇っていくのです。原爆の悪魔的な力を感じさせられました。

主イエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである」と教えられました。また、エフェソの信徒への手紙には、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と書かれています。平和聖日にあたり、平和を心から祈り求め、聖書のみ言葉に耳を傾けたいと願います。

詩人谷川俊太郎さんの作品で、「せんそうしない」という絵本があります。江頭路子さんの透明感のある美しい絵に、谷川さんの言葉が添えられています。

「せんそうしない」

ちょうちょと ちょうちょは せんそうしない  きんぎょと きんぎょは せんそうしない  くじらと くじらは せんそうしない  すずめと かもめは せんそうしない  すみれと ひまわり せんそうしない  まつの き かしの き せんそうしない  こどもと こどもは せんそうしない  けんかは するけど せんそうしない  せんそうするのは おとなと おとな  じぶんの くにを まもるため  じぶんの こども まもるため  でも せんそうすれば ころされる  てきの こどもが ころされる  みかたの こどもも ころされる  ひとが ひとに ころされる  しぬより さきに ころされる  ごはんと ぱんは せんそうしない  わいんと にほんしゅ せんそうしない  うみと かわは せんそうしない  つきと ほしも せんそうしない

子ども向けの絵本、美しい絵、リズム感のある言葉、けれども一つひとつの言葉はとても重いものです。「死ぬより先に殺される」、こんな言葉を子どもに読み聞かせていいのかなと思うほどです。でも、谷川さんはいわば包み隠さず、戦争がどんなものかを言葉で表されました。

谷川さんはこの詩について、「子どもたちが戯れる平和な日常がいきなり焼け野原になってしまう。そのショックを、子どもたちに与えたかった」と述べておられます。また、「『戦争はだめだ』という言葉を反復するだけでは、子どもは慣れてしまい、言葉が力を持たなくなる」と述べておられます。

子どもが慣れてしまうだけではなく、大人たちのなかにも、戦争はだめだとか、平和という言葉に慣れてしまい、言葉が力を失ってしまっているのかもしれません。それゆえ、谷川さんの詩を、大人も子どもも、そして大人たちこそが本当に味わわなければならないのだと思います。

「せんそうするのは おとなと おとな」と、詩に歌われていました。シンプルな言葉なのに、とても鋭く感じます。そして大人と大人が戦争をして、子どもが、自分の国の子どもも、相手の国の子どもも殺されるのです。

「せんそうするのは おとなと おとな」、けれども大人は、戦争をしてはいけないと言うこともできるし、戦争をしないためにどうすればよいかを考えることもできるはずです。人間は、そして大人は、知恵を出していかなければならない。戦争をしないための知恵を。そしてこの場合、知恵とは、知識が豊富という意味での知恵ではなく、物事を奥深く見つめる知恵、真理を求める知恵です。上智大学は英語でSophia Universityです。ソフィアはもともとギリシア語で、知恵を意味します。単なる知恵ではなく、叡知と訳したほうが良いと思います。

そして、ギリシア語で愛するを意味するphiloと、知恵を意味するsophiaが合わさって、philosophy 哲学となります。そのように考えると、わたしたちの社会、いつの時代もそうなのかもしれませんが、戦争をするための知恵が使われていても、戦争をしないための叡知が失われているのではないでしょうか。

今日は、詩編85の9−14節と、旧約聖書続編から知恵の書9章1−3節を読んでいただきました。

詩編85・9−12節を読みます。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に。彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。」

これはまことに堂々とした平和宣言です。ここで宣言されている平和は、慈しみとまこと、そして正義が天から注がれることによって与えられます。ここでは、わたしたちが平和について考えるにあたって、大切なことがいくつも教えられています。それはひとつには、平和は、正義と切り離せないということです。この社会には正義が失われ、ある人々が虐げられながら、それでいて世の中が安定しているということもあります。歴史的にいくつも例をあげることができるでしょう。現在の日本の社会も、見方によってはそのような状態にあると言うことができます。

平和が正義と切り離せない。そしてここで言われていることは、正義は、人間が主張する正義、人間がこれは正しいと主張する正義ではなく、天から注がれるもの、神さまがわたしたちに求めておられるということです。そして神さまが与えられる正義を、わたしたちは悔い改めの心をもって受け止めていかなければならない。それが9節に書かれている「主の慈しみに生きる」ということであり、また「愚かなふるまいに戻らないように」ということなのです。

さて今日は、もう一箇所聖書箇所を選んで読んでいただきました。旧約聖書続編知恵の書9章1−3節です。続編って何? 知恵の書ってどこにあるのと思われるかたもいらっしゃると思います。その内容に入る前に、続編について少し説明をしておく必要があります。

キリスト教書店に行くと、新共同訳には2種類の聖書が販売されています。続編付と続編なしのものです。続編に含まれているのは、トビト記、ユディト記、マカバイ記、知恵の書、ダニエル書補遺の2つなど全部で13、紀元前3世紀以降に書かれたもの、だいたい、旧約聖書と新約聖書の中間時代の文書です。

これらはカトリック教会では第二正典として、ミサでの朗読にも用いられてきました。いっぽうプロテスタントでは聖書正典ではないと扱ってきたのです。カトリックとプロテスタントが共同して聖書を翻訳することになったとき、この扱いが問題となりまして、結局続編という名称が与えられました。

このようにプロテスタントでは、ほとんど顧みられることなく、その存在さえ知られること少なかったのでありますが、歴史的に、そして信仰的にも重要な文書であることに間違いはありません。例えばマカバイ記は、紀元前2世紀におこったマカバイ戦争、ユダ・マカバイの指導による独立戦争について伝える重要な記録です。

皆さんのなかで、西洋の絵画をご覧になって、あるいは小説のなかで、どうも聖書を素材にした話らしいけれども、聖書のどこかわからないと思われた経験はないでしょうか。もしあれば、それらは続編のなかに含まれている可能性があります。ラファエルという天使の名前を聞かれたことがあると思います。それこそ絵画や小説でラファエルが出てきます。ラファエルは旧約聖書続編のトビト記に登場する天使です。レンブラントの作品で「長老たちに脅かされるスザンナ」という絵があります。ほかにもスザンナという女性を描いた絵画がたくさんあります。これは旧約聖書続編ダニエル書補遺、スザンナという物語に出てきます。

それだけではありません。新約聖書文中、たとえばパウロの手紙には知恵の書からの引用ではないかと思える言葉がたくさんでてきます。また今日読んだ知恵の書9章1節の「あなたは言によってすべてを造り」は、ヨハネの福音書1章3節「万物は言によって成った」とつながっています。パウロ書簡およびヨハネ福音書には知恵の書とつながりがたくさん見られます。

このように、続編はプロテスタント教会ではほとんど知られてさえいなかったのですが、聖書を学ぶうえで重要な書物であることがわかります。

続編についての説明が長くなりました。では今日読んでいただいた知恵の書とはどのような文書なのでしょうか。古くにはこの書は「ソロモンの知恵の書」と呼ばれていました。今日読んだ箇所もソロモンが自ら語った言葉のように書かれています。でも、実際にはソロモンの作ではなく、書かれたのは紀元前1世紀の前半ではないかと推測されています。

旧約聖書でも、箴言やコヘレトの言葉は実際にはそうではないのですが、ソロモンの作と信じられていました。旧約聖書列王記上3章には、「ソロモンの知恵」と見出しがついています。神はソロモンに何でも欲しいものを求めるがよいと言われ、ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えました。このソロモンの願いを神は喜ばれ、「今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われたのです。

この有名な話から、ソロモンの作とされる文書がたくさん出てきたのです。今日的には、著者の名前を勝手に使ったということになりますが、古代では、その作品の価値を高めるためによくおこなわれていました。

さてそこで知恵の書の内容でありますが、全部で19章あり、最初に人生の意義と目的、人間の誕生と死、死後の運命などについて知恵とのかかわりで述べられています。次に知恵とは何か、さらにそれが人間の歴史のなかでどのように働いてきたかが述べられています。

そしてここで教えられていることは、知恵は神から来る、神から与えられるものだということです。その一部を読んでみましょう。知恵の書7章です。「知識に基づいて話す力、恵みにふさわしく考える力を、神がわたしに授けてくださるように。神こそ知恵の案内者、知者たちの指導者であられるから。すべては神の手の中にある。わたしたち自身も、わたしたちの言葉も、どんな考えも、仕事の知識も。存在するものについての正しい知識を、神はわたしに授けられた。宇宙の秩序、元素の働きをわたしは知り、時の始めと終わりと中間と、天体の動きと季節の移り変わり、年の周期と星の位置、生き物の本性と野獣の本能、もろもろの霊の力と人間の思考、植物の種類と根の効用、隠れたことも、あらわなこともわたしは知った。万物の制作者、知恵に教えられたからである。知恵には、理知に富む聖なる霊がある。この霊は単一で、多様で、軽妙な霊、活発で、明白で、汚れなく、明確で、害を与えず、善を好む、鋭敏な霊、抵抗し難く、善を行い、人間愛に満ち、堅固で、安全で、憂いがなく、すべてを成し遂げ、すべてを見通す霊である。」

ここで述べられているように、神こそ知恵の案内者であり、知者たちの指導者であり、すべては神の手の中にあるということです。人間が発見したと思える原理も、人間が獲得したと思える知識も、それらは神によって与えられたものだと教えられています。そうであるならば、わたしたちはそれを用いるにあたって、何よりも謙虚であらねばなりません。

ギリシア神話のプロメテウスの火の話が、現代科学技術への警鐘とされているように、人間が人間の力によって知恵を獲得したとすれば、それは傲慢をもたらすことでしょう。そしてそれは、悪しきことに用いられるやもしれません。人間は今やこの地球そのものを滅ぼすほどの力を手に入れてしまった。このことは考えることさえ恐ろしいことです。

しかし、知恵の書は、知恵は神から与えられたものであると言います。わたしたちが自分で手に入れたと思っている知識でさえ、神から与えられたものだと言います。そしてこのように与えられた知恵は、本来神のものであるので、それは神の善であると言います。

「知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、汚れたものは何一つその中に入り込まない。知恵は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である。」

この書が強く主張していることのひとつは、この世の為政者、権力者であっても、神の前には小さな存在に過ぎないという認識です。6章には次のように書かれています。

「だから、王たちよ、聞いて悟るがよい。地の果てまで治める者たちよ、学ぶがよい。多くの人々を支配し、その国々の数を誇る者たちよ、耳を傾けよ、あなたたちの権力は主から、支配権はいと高き方から与えられている。主はあなたたちの業を調べ、計画を探られる。あなたたちは国に仕える身でいながら、正しい裁きをせず、掟を守らず、神の御旨にそって歩まなかった。神は恐るべき姿で直ちにあなたたちに臨まれる。上に立つ者は厳しく裁かれるのだ。最も小さな者は憐れみを受けるにふさわしい。しかし、力ある者は力による取り調べを受ける。万物の主はだれの顔色もうかがわず、強大な者をも恐れない。大いなる者も小さな者も、御自分が造り、万物を公平に計らっておられるからだ。しかし、権力者には厳しい吟味が行われる。支配者たちよ、わたしはあなたたちに言う。知恵を学び、職務にもとることがないように。」

そもそもこの知恵の書の冒頭、1章1節にこう書かれています。「国を治める者たちよ、義を愛せよ、善良な心で主を思い、素直な心で主を求めよ。」また1章6節には、「知恵は人間を慈しむ霊である」とあります。知恵は神から与えられ、それは人を慈しむものなのだと。

今日読んでいただいたのは知恵の書9章の最初の部分です。「先祖たちの神、憐れみ深い主よ、あなたは言によってすべてを造り、知恵によって人を形づくられました。あなたが造られたものを人が治め、信仰深く、義に基づいて世界を支配し、公正な心で裁きを行うためです。」

ここに、この社会を治める原理、この世を支配する原理が述べられています。それは、神から与えられた知恵によって、信仰深く、義に基づいてそれをおこなうということです。神とのかかわりの中で、神のみ旨に沿った道を求めていく。そしてまたそこでは公平ということが大きな原則となります。

今日は平和聖日にあたって、詩編85の「主は平和を宣言されます」というみ言葉を読んでいただきました。そしてそれに合わせて、普段はなかなか読むことがない、旧約聖書続編から知恵の書を読んでいただきました。知恵の書9章を選んだ理由は、「あなたが造られたものを人が治め、信仰深く、義に基づいて世界を支配し、公正な心で裁きを行うためです」という言葉を心に留めたかったからです。

日本国憲法は、その前文において平和宣言をしています。そしてその平和を武力などによって作り出すのではないことを明確にしています。では何によってか。そこには次のように宣言されています。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

この言葉は、今日読んでいただいた知恵の書9章3節に見事に重なります。「あなたが造られたものを人が治め、信仰深く、義に基づいて世界を支配し、公正な心で裁きを行うためです。」

戦争をしないための叡知が、まさに知恵が求められています、そのようななかで、知恵は神から与えられたもので、人を慈しむものだと今日の箇所で教えられました。そして信仰深く、義に基づいて歩むようにと教えられていました。このことこそ平和の出発点であるとわたしは思います。

 (2016年8月7日 礼拝説教)