番町教会説教通信(全文)
2016年6拝説教 「良い知らせを伝える」      牧師横野朝彦

ローマ10・5−17

稲垣えみ子さんが書かれた「震災の朝から始まった」という本があります。稲垣さんは朝日新聞社に勤め、社説をも担当する立場の人でしたが、昨年の秋に若くして退職され、現在はフリーな立場で執筆や講演をされています。つい最近もテレビのドキュメンタリー番組で彼女のことが紹介されていました。電気をほとんど使わず、冷蔵庫もない生活をしておられます。

「震災の朝から始まった」は、稲垣さんが大阪本社の社会部におられたときに書かれたものです。この本で書かれている震災とは、1995年の阪神淡路大震災です。全部で12人のかたがたの震災体験を稲垣さんが聞き取ったものです。それぞれ辛いことをいっぱい体験されたのですが、読み終わった感想としては、12人のかたがたが震災を経て歩み始めようとしているその始まりの記録だということでした。一人ひとりの再生、あるいは新生の記録と言ってもよいかと思います。

ある人は食堂をしていた自分の店が壊れたけれど、そこに残っていた食材で豚汁を作った、ダシも取れないまずいものなのに、泣いて喜んでくれる人がいた。この人は言います。「がんばったらいいって思わしてくれたんは、食べてくれた人のおかげや」と。

ある人は、これまで働くというのは金のためと思っていた、また他人のことなどかまっておられないと思っていた、けれども誘われてボランティアを始めた。彼は言います。「何していいか分らなくなったけど、まだおれにも、これから先、やることがある。まだおれ、大丈夫やって。」

またあるかたは、命あるものとして、今ここに立っていることのすごさを感じることができたと言います。

生々しい記録ですから、要約して紹介するのは難しく、また良さそうな言葉だけを切り取るのはよくない気がします。言いましたように、わたしがこれを読んでの感想は、それぞれのかたがたの新生の記録だということでした。新生、新しく生きる、キリスト教の言葉で復活と言ってもよいでしょう。すべてを失うなかで、「これから先、やることがある。まだおれ、大丈夫やって」、そう思うことが出来たということは、なんと素晴らしいことでしょうか。

今日このように話を始めたのは、お読みいただいたローマの信徒への手紙10章5−17節のなかで、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書かれているのでありますが、この「良い知らせ」について考えるなかで思わされたことです。良い知らせとは何でしょうか。聖書のこの箇所が語っていることは、直接的にはイエス・キリストの福音ということです。主イエスが救い主として世に来てくださった、イエスこそわたしたちの主であるという知らせのことです。

ただそのことを、わたしたちが日々の生活のなかでどう受け止め、どう我が身に引き寄せて考えればよいのかを考えたときに、新生ということを思わされました。今日読んでいただいた10章9節にも、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」と書かれていました。イエスが復活したと信じるとは、昔々イエスというかたが復活しましたと、遠い昔の出来事を承認するということと同じではありません。イエスの復活を信じるとは、その福音を聞いているわたしたちもまた、新しく生かされると信じることです。

どのような困難にあっても、どのような壁にぶつかっても、それが終わりではない。まさに死にも打ち勝つ信仰なのです。パウロは第二コリント4章で次のように言っています。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」文語文の聖書で、「詮方尽くれども望みを失わず」と書かれている箇所です。

ここで明らかにされているように、わたしたちの信仰とは、打ち倒されても滅ぼされない信仰です。もちろんこのように言うことは簡単なことではない。生易しいことではありません。現実の重さの前にわたしたちはしばしばたじろいでしまいます。けれども、望みを失わないのです。良い知らせとはまさにこのような福音です。

パウロは、パウロ書簡、パウロが書いた手紙のなかでキリストの死と復活について繰り返し述べ、信仰の核心的なこととして述べています。それは決して観念的なことではなく、パウロ自身の体験だったからです。彼は旧約聖書に書かれている律法を守ることに熱心でした。このことに厳格なファリサイ派のひとりでした。けれども彼に大きな変化の時が訪れます。そしてその体験は、復活の主イエス・キリストとの出会いによっておこったのでした。

使徒言行録9章ほかに書かれているこの出来事をとおして、パウロは新しく生まれ変わります。彼はこれまで自分は律法を熱心に守っていると思っていました。しかし彼は気づくのです。それはただ、人間の自己努力によって救われるということであって、神さまの愛や恵みを忘れたものではなかったか、ということです。そして、自分は律法を熱心に守ってきたのではなく、むしろ律法に縛られてきたのだと気づいたのです。そして、律法から解き放たれて、彼は新しく生まれ変わります。これこそパウロの新生体験がもたらした大きな喜びでした。ここに、パウロが語る「良い知らせ」のもうひとつの大事な点があります。

今日は聖書日課に従って5節以下を読んでいただきましたが、今言ったことは10章2−3節に明確に書かれているところです。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」

その熱心さは認めるのです。しかしそれは、自分で自分を正しいとするだけであって、神さまは不必要になっている。それがここで言われているところです。このことはその昔のファリサイ派に当てはまるだけではありません。キリスト教のなかにも、そのような傾向は見られます。熱心であればあるほど、真面目であればあるほど、その熱心さ、その真面目さによって救われようとしてしまうのです。そこには神の恵みの入る余地がありません。

パウロはこのことについて、律法の奴隷になっている状態だと指摘をし、キリストはそのような状態からわたしたちを解放してくださったのだと述べています。ガラテヤの信徒への手紙などに書かれています。そしてそのことは、今日の箇所のテーマともなっています。5節にも、「掟を守る人は掟によって生きる」と、掟に縛られていることを述べています。この言葉は、旧約聖書レビ記の言葉をパウロが自分の主張に引き寄せ、言い換えて用いたものです。

6−7節はちょっとわかりにくい表現です。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」

ここで言われているのは、人間が自分の努力で天に上ろうとするな、また、自分は努力が足りないから陰府にくだるなどと考えるなということです。熱心さのゆえに、神様の領域に属することを判断しようとする愚かしさが述べられています。わたしたちはしばしば、自分の努力の有無だけではなく、他の人まで評価しようとします。あの人は悪いことをしたけれど神さまのもとに行けるだろうか、あの人は救われるだろうか、あの人はあんな良いことをしたから神さまに受け入れてもらえるに違いない、そんなふうに、わたしたちは目に見える価値観で人を判断し、裁き、そして時には、自分が神さまであるかのように他の人を評価したり裁いたりしてします。そういうことをしてはならないと、ここで言われているのです。

そしてまた、そのように人を評価することは、わたしたちの罪を背負って十字架につかれた主イエスの救いさえも疎かにすることになります。あの人は立派だから救われるというなら、キリストによる救い、キリストの十字架はいらなくなります。6節で「キリストを引き降ろすことになる」と言っているのはそういう意味です。またあの人は悪いから救われないと言うなら、これまたキリストの救いを否定することになります。それではキリストの十字架がなんのためにあったのか分からない。「キリストを死者のなかから引き上げることになる」とはそういう意味です。

良い知らせとはキリストにあって新しくされること、新しい命を与えられるということであるとともに、こうでなければ、ああでなければといった際限なき自己努力の捕らわれから解放されることでもあります。キリストにあって自由にされることです。

8節で、「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と教えられます。キリストの福音は、特別に熱心なだれかのためのものではありません。キリストの福音は、誰にとっても、近くにあるもの、だれでも信じることによって自分のものとすることができるのだということです。

律法からの自由でありますから、この福音は、律法を持っている人たち、選ばれた民とされていた人たちだけのものではなく、すべての人に与えられるものです。12−13節に「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」とあります。

以上のように、キリストによって与えられた良い知らせについて述べ、このあと14節以下では、呼び求めるためには、聞くことが必要であること、聞くためには宣べ伝える人が必要であること、そして宣べ伝えるということも人のわざではなく、神が遣わされるのだと、すべて神さまの側からの働きであることが述べられています。そして17節の、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と、重要なメッセージがここに記されています。

キリストによって与えられた良い知らせ、それは人を古い生き方から解き放つものです。これを守らなければ、あれを守らなければといった律法の縄目から解き放つものです。それは言い換えれば、自分に固執することから自由になることでもあります。ですからこれは、自己主張ではなく、聞くということから始まるのです。旧約聖書の詩編62に、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」と歌われています。魂を沈黙させて神さまに心を向ける。打ち砕かれた、悔いる心を持って神さまの前に向う、それは自己主張をすることではありません。

幼いときの預言者サムエルは、「僕は聞いております。主よ、お話しください」と神さまに向って申しました。この姿勢は、ただたんに聞くことの大切さというだけではなく、信仰の始まりとなる姿勢です。列王記上19章によれば、預言者エリヤは、非常に激しい風や地震という、おそらく大音響のなかで、静かにささやく神の声を聞いたといいます。

神さまがわたしたちに何を求めておられるか、耳を澄まして聞いていく。なかなか聞き取れないことでしょう。周りは、激しい風や地震という騒がしさがあることでしょう。いや、それ以上に、自分の心のなかに騒がしいものがあって、神さまの御声を聞くことが妨げられているに違いありません。しかしわたしたちの信仰は、ここに述べられているように、まさしく聞くことによって始まるのです。

わたしたちはどれだけ自分の思いを空しくして聞いているでしょうか。キリスト教は、そしてユダヤ教もまた、共に聞くということそれ自体を、礼拝する行為として、大切に守ってきたのです。少々極端な言い方をすれば、聞いている内容が大事なのは言うまでもないにしても、それと共に、いやそれ以上に、聞くという姿勢そのものが大切なのだと思います。

学問的な講演会ならば、そこで語られていることを、批判的な気持ちで聞くということもあるでしょう。そこで語られたことの一部におかしな点があれば、挙手をして質問することもあるでしょう。でも教会の礼拝ではそのようなことをしません。なぜでしょうか。

わたしは若い頃、自分のつたない話を、知識の面でも経験の面でも自分よりもはるかに勝っている人たちが聞いてくださることに、本当に恐れのようなものをいだいていました。恐れというか、よくもこんな話を皆さん聞いてくださるものだと、あきれる

ような気持もありました。

キリスト教の礼拝は、その意味でも、語られている内容が大事なのはもちろんにしても、それ以上に、聞くという姿勢そのものが大切なのです。それはすなわち、日ごろの自己主張を置いて、神さまのまえにいわば主導権を明け渡すということだからです。悔いる心を持って、しもべは聞きます。主よお話しくださいという、その姿勢こそが礼拝そのものだからです。

最初に稲垣えみ子さんの「震災の朝から始まった」という本を簡単に紹介しました。この本を読んで、そこに出てくる12人の人たちが、震災によって多くのものを失い、苦難を背負いながらも、なにか新しいものが始まっていることを思わされました。

そしてそれとともにわたしが感じたことは、このような新しい一歩に新聞記者である稲垣さんもひとつの役割を果たしているということでした。記者としてすでにおこった体験を聞き取っているだけのようでもありますが、やはりそれだけではなく、稲垣さんが、言うならば傾聴の役割を果たしているとわたしは思いました。12人のかたがたは、稲垣さんという良き聞き手と出会うことによって、自分の体験を整理していったのだと思います。

そしてこのことは、稲垣さんにとっても同じことです。彼女は、震災の直接的な被害を受けませんでしたが、震災のときに神戸に住んでいて、崩壊した家や町中が焼けてしまった様子を目の当たりに見ています。彼女自身の心の傷も大きなものでした。ろくに取材もできず、被災者に話しかけることもできなかったと言います。

けれどもこのまま逃げるわけにはいかないと思い、震災から2年以上経ってから取材を始めます。「この苦しみは、経験していない人にはわからない」と言われながら、泣きたいような思いで記事を書いたそうです。

前に、教会学校の子どもたちに、「くまのしんぶんきしゃ」という絵本を読み聞かせしたことがあります。こんのひとみさんというかたの作品です。熊のくんちゃんは、バクおばあちゃんがお腹を大きくふくらませて苦しんでいるのをみて、どうしたのだろう、なぜだろうと思い、おばあちゃんを取材することにしました。

「取材っていうのはね、相手の話をいっぱい聞くことなんだよ」とお父さんに教えられて、一生懸命話を聞きました。おばあちゃんの、亡くなったおじいさんのこと、悲しかったこと、苦しかったこと、おばあちゃんの5人もいるお孫さんのことなど、たくさんの話を聞きました。このように話を聞くことによってなにが起こったでしょうか。それはバクのおばあちゃんの、大きかったお腹が小さくなって、おばあちゃんが元気になったのでした。

「これから先、やることがある。まだおれ、大丈夫やって」、大きな苦難に会いながら、なおかつこのように言うことが出来る。人間は新しく生きることが出来るのです。このような新生体験を、わたしたちもキリストの言葉を聞くことによってさせていただきたいと祈り願うものです。

(2016年 5月29日礼拝説教)