番町教会説教通信(全文)
2016年5拝説教 「助け主が来られる」       牧師横野朝彦

ヨハネ14・15−27

昨日は熊本で最初の大きな地震がおこって1か月でした。その後に余震どころか本震というのがきて、今も不安な日々が続いています。家を失った人たち、家を離れて生活をしている人たちが、少しでも安心な毎日を送ることができるように、生活を取り戻すことができるように、祈り願うものです。

先週の新聞に、熊本の被災地では宗教者たちによる支援の輪が広がっているとの記事がありました。「被災者の声に耳を傾ける臨床宗教師が各地から駆けつけ、寺や教会を避難所に開放するところもある。心のケアに動いた東日本大震災の経験が息づく」と書かれていました。

臨床宗教師、宗教師の師は教師の師です。この働きは東日本大震災以降、東北大学が最初に講座を設け、仏教とキリスト教といった垣根を越えて、被災した人たちの心の傷みに寄り添ってきました。これはもともと、キリスト教が病院や学校にチャプレンと呼ばれる牧師を置き、患者さんたちの心のケアにあたってきたことが出発としてあります。東日本大震災を機に、仏教の僧侶たちが若手を中心に立ち上がり、キリスト教会とも連携をした活動が始まりました。

熊本でその経験が生かされてきています。熊本市内にあるお寺の副住職、糸山さんは東北大学で講座を受講したひとりです。ご自分のお寺も大きな被害を受け、本尊も墓も壊れ、本堂もいつ倒壊するかわからないにもかかわらず、被災者のところへ出かけ、話を聞き、また米や畳を届けておられます。

新聞記事には、牧師の二人の名とその働きも紹介されていました。臨床宗教師は全国各地から集まり、益城町や南阿蘇村に入り、避難所で傾聴活動を続けているとのことです。また臨床宗教師という肩書きでなくても、多くの宗教者たちが精力的な働きをしておられます。こういった働きは、言うならば、宗教のありかたを問い直す新しい展開であると思います。

これまでは、どちらかと言えばキリスト教のほうが社会的な活動に熱心で、事実日本の社会福祉分野の先駆者はキリスト者たちが多くおられ、仏教にはあまりそういう活動は聞かれなかったのですけれど、最近では、逆転してきているようにも思えます。仏教界のなかで、全体としての割合はわずかでも、基盤となる力が巨大ですから、大きな働きとなっています。それに対してキリスト教はどうも内向きになっているようです。なにも働きを競うことではなく、共にこのような働きができるとすれば、それは素晴らしいことです。

さてこの話は一度置いて、聖霊降臨について話をしたいと思います。今日は聖霊降臨日、教会の誕生日と言われる日です。主イエスの十字架と復活から40日経って、主は天に昇られました。それから10日後、つまり復活から50日後のことです。ペンテコステとはギリシア語で50という意味です。そしてこの日に、弟子たちが集まっていると、天から聖霊がくだったというのが、使徒言行録2章による聖霊降臨の記録です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」。

なんとも不思議な話です。イエスの弟子たちは、受難節のときに、またこれまでにもしばしば話をしてきたように、彼らは自分たちの先生であった主イエスを裏切り、また「こんな人は知らない」と言い、主の十字架の場面から逃走しています。人間の弱さをいわば徹底的に体験した人たちです。主イエスが復活をされたという知らせを聞いても、信じることなく、主イエスが彼らの真ん中に立ってくださって、ようやく本当だとわかったような人たちでした。人間的な弱さを抱え、信仰的にも立派とは言えない、それが彼らでした。

ところがそのような彼らが集まっていると、突然に激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、彼ら弟子たちに聖霊がくだります。そして彼らは力を得て、主イエスの福音を宣べ伝え始めたのでした。権力を恐れて、家の内側に隠れ、中から鍵まで締めていた彼らが、今や人々の前で福音を宣べ伝える者となったのです。だからこそ教会の誕生日と言われるのです。

聖霊、それはわたしたちに働きかけてくださる神の力です。第一コリント12章に、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書かれているように、「イエスは主である」と告白することができるのも、聖霊の働きと言うことができます。わたしたちは自分の力ではそれさえできないのです。

聖霊というのは、わたしたちに与えられる神さまの働きであると、わたしはこれまで説明をしてきました。それはそのとおりです。キリスト教にとって、神は3つのいわば面があり、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊、これを三位一体と言い表してきました。そのなかでも聖霊は少々説明がしにくく、日本的な霊魂と同じように感じてしまうことがありました。そのようなことで、神の力と表現するのが、もっともわかりやすいのではと思ってきました。

そして事実、あの弱かった弟子たちが、神さまから力をいただいて、福音を宣べ伝えるようになった。それも、その後起こってくる迫害をも恐れなかった、まさに神さまの力です。でも、神の力と言ってしまうと、それはそれで不十分な気がします。ちょっとおかしな例えかもしれませんが、鉄腕アトムが、エネルギーをもらって勇気凛々になるような、そしてどんな物にも負けない力を持つような、そのように受け止められるとすれば、ちょっと違います。

神の力、別の言い方ですれば、神の命と言ってもよいでしょう。聖霊降臨のとき、激しい風の音がしました。風、旧約聖書のヘブライ語でも、新約聖書のギリシア語でも、風と息はひとつの概念です。創世記2章にあるように、人は土の塵で作られ、そこに命の息を吹き入れられたのでした。そのことを思えば、聖霊を受けることによって、神の命をいただいたというのが、より確かなことかと思います。

そして聖書は、さらに聖霊について、別の言葉で説明をしています。それが今日読んでいただいた箇所です。今日は聖書日課に従い、ヨハネ14章15−27節を読んでいただきました。ここで、主イエスは聖霊降臨を予告しておられます。正確にはヨハネによる福音書の記者ヨハネが、聖霊とは何かを主イエスの言葉として説明してくれている箇所と言えます。ここに何が書かれているのでしょうか。

15節以下、新共同訳の見出しに、「聖霊を与える約束」と書かれています。これは主の逮捕と十字架の直前の話です。ヨハネ13章は、「弟子の足を洗う」、「裏切りの予告」とありまして、まさに逮捕直前です。このような状況下で、主イエスは語られたのです。自分はこの世での使命を終え、世を去っていく。しかし神さまはあなたがたを独りぼっちにはしない、わたしは去って行くが、神さまは別に助け主を遣わして、あなたがたと共にいるようにしてくださる。それが14章16―17節に書かれていたところです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」

今日のこの箇所で教えられていることのひとつは、主イエスがこのあと十字架にかかり、弟子たちからは離れていく、弟子たちの目には、つまり今日のわたしたちもそうですけれど、わたしたちの目で主イエスを見ることができなくなる。けれども、17節後半にあるように、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」またこの言葉に合わせて、18節では、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われています。すなわち、主イエスは去っていくけれども、あなたがたに聖霊が与えられ、あなたがたはひとりではない。孤独ではない。聖霊によって、主イエスもまた常にわたしたちと共にいてくださるということです。そしてまたここでは、「弁護者」という言葉が使われていました。

「弁護者」という言葉は16節と26節の2度出てきます。16節、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」弁護者というのは、普段あまり使わない日本語のような気がしますけれど、弁護士と同じように、わたしの立場に立ってくれるかたということでしょうか。この、弁護者という言葉のなかには、罪あるわたしたちを、無実に導いてくれるといった、神さまの前で裁かれるわたしたちのために、まさに弁護士として働いてくださるかたという意味も含まれています。

でもそれとともに、実際にはもう少し広い意味合いの言葉です。新共同訳聖書は、この単語を弁護者と訳しましたが、これを以前使っていた口語訳聖書で見ると、こう訳されています。16節、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」 26節、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」 ここで、弁護者ではなく、助け主と訳されていました。弁護者と助け主、どちらが正しいというのではなく、両方の意味合いを含んだ言葉です。

ということで、今日の礼拝説教の題を、「助け主が来られる」としたのです。わたしたちに聖霊が与えられる。それはわたしたちを助け、わたしたちをひとりにはせず、また罪あるわたしたちのために弁護してくださるかた、赦しへと導いてくださる神の働きなのです。

18節では、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」とありました。口語訳では、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」となっています。ここでひとつの言葉を思い出したので紹介します。ヨハン・クレッパーという讃美歌作者、讃美歌472「朝毎に主は目を覚まさせ」という詩を書いた人ですが、クレッパーの詩集に、「聖霊降臨祭の歌」というのがあります。そのごく一部を読みます。

「聖霊よ、来てとどまってください。慰め主なる聖霊よ、救ってください、癒してください。さもなければ、わたしたちはみなしごなのだから。主のしるしとしてわたしたちのもとにとどまってください。・・来てください、聖なる鳩よ、わたしたちを塵から、雲の高みに引き上げてくださる鳩よ。」

みなしごという言葉が、今の時代、かならずしも適切な言い方とは思いませんが、大切なことは、「あなたがたを捨てて、ひとりにはしない」という強いメッセージです。マザーテレサは、今日の最大の病気は、「自分はいてもいなくていい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである」と述べました。今の時代、社会的な格差、経済的な格差、そして震災といった自然災害による孤立、コミュニティの崩壊による孤独が至るところで起こっています。そのようなわたしたちに、主イエスは、「あなたがたを捨てて、ひとりにはしない」、「弁護者を送る」、「助け主を送る」と約束をしてくださったのです。

聖霊降臨は、弟子たちに弁護者にして助け主である聖霊が与えられた出来事でした。それは、まさに神の力、神の命をいただくことでした。それは外面的な力ではなく、もっと人間の内側から湧き出る、内側から生かされる、深いところから与えられる力、いや命です。彼らは、自分たちの弱さをいやと言うほど知り、にもかかわらず、そこに働かれる神の息吹に触れたのです。

最初に臨床宗教師の話をしました。宗教者、あるいは一人ひとりの信仰者ができることは限られています。小さなものです。宗教者が、大型の重機を持って駆けつけるわけではありません。何トンもの荷物を載せてトラックを何台も連ねて現地に行くわけではありません。熊本のある教会の牧師は、自分の教会が被災したにもかかわらず、バイクに食料を載せて甚大な被害を受けた益城町に何度も往復されました。小さな荷物です。それも現地に行っても、怪しまれて食べ物を受け取ってくれなかったというケースもありました。けれども、わたしはこのような働きにこそ、なにか真実があると思えてなりません。

東日本大震災でおこった実話をドラマ化したもので、「遺体」という映画がありました。西田敏行さんらが出演しておられました。あの映画で、わたしが大きく心に残ったことのひとつは、体育館のようなところに沢山の棺が安置されたところ、安置というよりただ置かれていたという寒々しい光景のところに、ひとりの僧侶が来て、読経をする場面でした。ただそれだけのことで、その場にいた人たちの心に、癒しが与えられたのでした。

宗教者ができることはきわめて小さいことです。広範囲にわたる甚大な被害を前にして、いったいどれほどのことができるのかという思いをさせられるのも確かです。わたしなどが被災地を訪問しても、かえって邪魔をしに行っているような気にもなります。被災されたかたと話をするにも、ろくに言葉も出てきません。

そのようななかで、キリスト教会が教派を超えて立ち上げた支援団体、東北ヘルプの事務局長である、仙台市民教会の川上直哉牧師は次のように言っておられます。「弔いは、無力さをさらしてそこにたたずむ宗教者の働きです。・・スピリチュアル・ケアというのは、そうした事柄の中で起こってくる不思議なケアだと思います。・・無力さの中でただずむことが救いになる・・『何もできない人』は、その無力さによって、かけがえのない何かができます。しかし『何かできる人』は、その『何か』というできることをしたら、役割を終えてしまいます。じつは、有能な人はきわめて有限的なのです。・・お金があると、とても助かる。ないと困る。でも、『それだけ』のものです。他方で、祈りとか、何もしないでもそこにいてくれるということは、じつは無限の可能性を蔵しています。」

ここで、体験から出てきた実に大切なことが言われていると思います。目に見える支援は当然必要であり、わたしたちもそれをしなければなりません。しかし、支援が終われば、それで役割が終わってしまう。本当の支援とはそれだけではないのでしょう。

川上牧師は、以上のように「無力さをさらしてそこにたたずむ」と述べ、また次のように言っておられます。「しかし、私たちはそこで祈ることができる。現実を超えた何かに呼びかけ、あるいはその呼びかけに応える声を聞くような気持になることができる。・・・祈りと儀式において、私たちは、何をしているのか。私たちはその時、絶望に瀕した人々の側にいる。・・・ここに、我々宗教者の役割がある。限界を晒しながら、しかしそれでもここにいる。それは、不思議なことである。誰かが私をここに存在させている。」

何もできない。しかしそのなかで存在させられている自分、さらに存在させてくださっているかたに心を向けるのです。わたし自身、川上先生の体験に比べれば実に小さな体験しかしていませんが、それでも、こんな無力な自分であっても、なにか役割を与えられている、こんな無力な自分でも用いられていると思わされる体験を何度もしてきました。

川上牧師が言われるスピリチュアルと、聖霊ということは、まったく同じではありませんが、広い意味でつなげて考えたいと思います。スピリチュアル・ケア、それは支援物資がなくなれば終わりというケアではなく、もっと深いところで、人の存在を支えるケアなのでしょう。しかもそれをするものも、されるものも、そんな力があるとは夢にも思わず、限界をさらして共にいること。それはまさしく、十字架という人間の最大の限界、弱さや罪が露呈したところに立たれた主イエスによって約束された「助け主」がわたしたちに与えられているということです。

(2016年 5月15日礼拝説教)