番町教会説教通信(全文)
2016年4月復活祭拝説教 「イエスの墓で見たもの牧師横野朝彦

ヨハネ20・1−18

主のご復活をお慶び申し上げます。イースターの礼拝を共に守ることができて、嬉しく思います。

わたしたちはキリストの復活を信仰としてもっています。それは、どのような困難のなかにあっても希望を失わない信仰です。もうだめだと思っても、そこから立ち上がる信仰です。罪に死すほどであっても、新しく生きることがゆるされている信仰です。死の淵にあっても永遠に生きるという信仰です。

わたしたちは目に見える価値に心奪われ、目に見えるものを尊いと考え、目に見えないものを信じようとしません。しかし、主イエスは「見ないで信じる者は幸いである」と言われました。またパウロは第一コリント4章で、「見えるものは滅びるが、見えないものは永遠に存続する」と言い、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」と言いました。

童謡詩人金子みすゞさんは、「見えないものでもあるんだよ」と歌いました。キリスト教の信仰は、十字架によってあらわされた神の愛への信仰です。しかしそれだけではありません。十字架の向こうに復活の栄光があらわされているという希望の信仰です。パウロは、ローマの信徒への手紙5章で、苦難をも誇りとすると言い、苦難のなかから希望が生み出される信仰を述べました。

ヨハネによる福音書は1章冒頭で、光は闇のなかに輝いていると言いました。わたしたちは闇の暗さに恐れおののきますが、闇のなかに光があることを見ていくのがキリスト者の信仰です。わたしたちは、絶望ではなく希望をいだく信仰を与えられています。

さて、キリスト教をあらわす象徴的な印は、何と言っても十字架です。左右対称のシンプルな形は、デザインとしてもすぐれていると思います。だからこそ、キリスト教や信仰とは関係なく、ネックレスとして使用されるなど、広く用いられているのでしょう。

けれども、ご承知のように十字架は処刑の道具です。処刑の道具を首からぶら下げていることを、使っている人はわかっているのだろうか、そんなことを思わされたことがあります。教会は処刑の道具を、礼拝堂の正面に、また、この教会にはありませんが、会堂の先端につけている。これは考えてみれば不思議な光景です。

皆さんのなかで、カトリックの教会に行かれたことのあるかたは、磔にされたイエスの像が十字架に、きわめてリアルにつけられているのをご覧になったことがあると思います。それは決して見た感じのよいものではなく、むしろ、初めて教会に足を踏み入れ、十字架上の死に瀕したイエス像というのは、驚きや、人によってはどうしてこのようなものをと感じられるのではないか。とてもリアルなものです。

わたしはまだ写真でしか知らないので、一度訪ねたいと思っているのですけれど、岡山聖心教会という教会、大きな教会でありますが、2014年暮れに新会堂を献堂されました。ちょっと驚きでありました。近代的な建築の会堂の正面に大きな岩が覆っています。覆っているというか、いくつもの岩があり、その中央にこれも大きな十字架が立てられています。これは主イエスが十字架につかれたゴルゴダの丘をイメージしたものに違いありません。十字架だけではなく、処刑場そのものを礼拝堂の正面に持ってきたのです。これもまた驚きでした。

キリスト教は処刑の道具を信仰の象徴としているのです。それは、主イエス・キリストの十字架上の死が、わたしたちの救いのためであること、神さまがその独り子を与え、命をもささげてくださった、神の愛のしるしであることを知っているからです。でも、そのことがわからなければ、十字架はつまずきでしかありません。パウロはガラテヤ5章で、十字架というのはつまずきであると言っています。でもパウロは同時に、この愚かに見えることこそ、救われるものには神の力なのだと、第一コリント1章で言っています。

このように、十字架を見て、それを単なるデザインとして見るのか、あるいは処刑の道具として見るのか、さらにその向こうに、救いのしるしを見るのか、同じひとつのものを見ていても、その内容は大きく隔たりがあります。

教会の正面に十字架があります。番町教会の十字架は、自然の木でできたもので、素朴で、多くのかたが「良いですね」と言ってくださいます。新会堂でも用いたいと思っています。ただ、新しい壁とどのようにマッチするのか、場所を移すだけというのではなく、より良く用いるためにどうすればよいかと思わされています。

わたしの前任地の岡山教会では、実際に人がかけられるほどの、いやそれよりももっと大きかったでしょうか。初めて見たときはちょっと圧倒される思いがしました。

もっとも、教会によっては十字架のないところも、実のところ少なくありません。近隣の教会でいえば、飯田橋駅前の富士見町教会では、十字架がありません。教会堂の屋根の上に十字架はありますが、礼拝堂にはありません。

キリスト教の信仰は、偶像礼拝、人間の手で作られたものを拝むということをしませんから、十字架は拝む対象ではありません。ですから正面に十字架があっても、それを拝むのではなく、あくまで十字架をとおして、キリストの受難を覚え、十字架によってあらわされた神の愛に心を向けるということです。しかしまだそれだけではあません。さらにその向こうにあるものに心を向けていきたいのです。

カトリックの教会では、十字架には磔にされたイエスの像がついていると言いました。プロテスタントの教会では、イエス像のついた十字架はまず見かけません。ほぼ100%、イエスの像はなく、十字架だけだと思います。どうしてこのように違うのでしょうか。皆さんはどう思われるでしょうか。

考えられるひとつの理由は、かつてのカトリック教会には聖像と呼ばれるものがたくさんあって、プロテスタント教会はそれらを排除してきたことがあげられると思います。カトリック教会も最近はシンプルな形が多くなりましたが、古い会堂、例えば神田カトリック教会などはいくつもの像が置かれています。プロテスタント教会はそういったものを置きません。その理由は、それらが偶像礼拝にあたるという考えや、また礼拝や信仰の中心は聖書のみであるというプロテスタントの精神によります。

そしてもうひとつの考えがあります。それは、カトリックでは十字架上のイエス・キリストを見ているが、プロテスタントではイエスはもはや十字架上にはおられないという復活のキリストを見ているのだということです。わたしはこの説明を最初に聞いたとき、なるほどと思い、ああそういうことなのかと納得した気分になりました。でもいっぽう、ある神父は、あの生々しい十字架の姿の向こうに復活を見ているのだと述べておられました。

最近、新しい形の十字架があるのを知りました。カトリックの多摩教会や、ほかにも2、3の教会で新しい形の十字架があると聞きました。多摩教会の十字架は、写真で見ると十字架にかけられているイエス像ではなく、十字架の前方少し離れたところでイエスが両手を広げ、体を反らせています。それは体操選手が跳躍するときのような、いや、鳥が大空に羽ばたいていくような姿です。すなわちそれは、キリストが甦って天に昇っていく、そのようなイメージが込められているのです。

このように十字架というものを、最初に述べたように、デザインとしてだけ見るのではなく、また処刑の道具としてだけ見るのではなく、また救いの印として見ることが大事なわけですが、さらにそこに、復活を見ていく、このことが今日、意識されるようになってきたと思います。

さて本日は、ヨハネによる福音書20章1−18節を読んでいただきました。主イエス・キリスト復活を証言する聖書箇所です。主イエスが十字架にかけられてすぐに安息日に入ったために、一日おいて朝早く、マグダラのマリアは墓に行きます。ほかの福音書では、遺体に香料を塗るためとその理由が書かれていますが、ヨハネはその理由を書いていません。何かをするためというのではなく、マリアは慕ってきたイエスのそばに居たかったのだと思います。

1節に、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と書かれています。週の初めの日とはつまり日曜日のことです。そしてそれは、朝早く、まだ暗い時間でした。それは、まだ闇が支配していた時間であると言うことができます。

ヨハネによる福音書の著者ヨハネは、夜とか闇という言葉を、単に時間とか、空の明るさを表わす言葉としてではなく、もっと内面的なものを言い表すために用いています。「朝早く、まだ暗いうちに」というのが、ただ単に時間や明るさを言っているのでありません。マグダラのマリアの心のなかは、いまだ闇が覆っていました。慕ってきたイエス先生を仲間の弟子たちが裏切り、先生は捕らえられ、そればかりか十字架につけられてしまった。悪夢のような思いだったことでしょう。これから自分はどうしていけばよいのか、何も分からない、ともかく先生の近くに行こう。そう思って彼女は墓に向かったのでした。

ところが、そのような想いの彼女が墓に着いたとき、彼女は不思議な光景を目撃します。墓から石が取りのけられていたのです。この当時、この地方での墓は、横穴の洞窟のようなところに、大きな石を扉のようにして蓋をしたものでした。その石が取りのけられ、洞窟が開いていたのです。ところが、そこから先が、とてもおかしいというか、今日読んでいただいた箇所は、とても混乱した状況が書かれていると思います。墓の石が取りのけてあるのを見たマリアは、驚いてもと来た道を引き返し、シモン・ペトロたちのところへ走っていきます。彼女は、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と報告をしています。

このあと3−10節に書かれていることから、弟子たちの間にいわば大混乱がおこったことがよくわかります。この箇所を読みながら、その時の情景を想像していただければ、その混乱ぶりがよくわかることと思います。なおここでペトロともうひとりの弟子というのが出てきます。もう一人の弟子というのが誰なのかよくわかりません。ヨハネによる福音書にしばしば出てくる人で、主イエスの愛を特に受けていたように書かれています。学説によれば、シモン・ペトロがエルサレム教会を代表する存在であり、もう一人の弟子とは福音書記者ヨハネの教会を代表する人物だと理解するなど、いろいろと想像されています。でも今はそのような難しいことを考えるのは止めにしましょう。

この混乱した状況を、今回改めて読み返しながら、わたしはひとつの言葉に心が留まりました。それは「見る」という言葉です。「見る」、ごく当たり前に使う動詞です。でも今回改めて調べてみると、ヨハネによる福音書では実に多く使われていることがわかりました。そして今日の箇所でも、今日は20章1−18節を読んでいただいたのですが、全18節のなかに、日本語で7回も「見る」が使われています。そして5節の「中を覗く」を加えると8回です。

1節でマグダラのマリアは、墓の石が取りのけてあるのを見ます。墓の入り口が開いているのを見たのです。彼女は墓が空であるのを確認したのでしょう、すぐに弟子たちのところに走り、そのことを報告します。

そこでペトロたちが墓に行きます。3−8節、「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」 

マグダラのマリアの報告を聞いたペトロともう一人は、すぐさま墓に向かいます。二人とも走って行きます。二人は一緒に走ったのに、ペトロよりももう一人の弟子のほうが先に到着したとまで書かれています。彼は墓のなかを覗き、墓のなかに亜麻布だけが残されているのを見ます。でも、墓の中に先に入ったのはペトロのほうです。そしてその後でもう一人の弟子が中に入ります。

ペトロは亜麻布を見ただけでした。しかしもう一人の弟子は、ペトロよりあとで入ったのですが、彼は8節にあるように、「見て、信じた」のでした。何を信じたのでしょうか。9節には、「二人はまだ理解していなかった」とあります。そこで彼らはそのまま家に帰っていきます。

今日読んでいただいた箇所は、新共同訳はふたつの段落にわけています。前半は「復活する」という見出し、後半は「イエス、マグダラのマリアに現れる」という見出しがついています。後半に入り、マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ます。すると二人の天使が見えます。そして14節でついに彼女は復活の主イエスが立っておられるのを見るのです。

もっともこのときすぐにはイエスとわからなかったのですが、イエスのほうから「マリア」と呼びかけてくださることによって、復活の主だと気づきます。そして18節で、彼女は弟子たちのところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えたのでした。

以上お話をしたように、今日の箇所には何度も何度も「見る」という言葉が出てきます。ところが日本語では「見る」、あるいは5節だけ「中を覗く」ですけれど、聖書の原典を見ると、実に注意深く違う単語が使われていることがわかります。英語でもseeとlookはだいぶ違いますが、今日の箇所で最初のほうはただ目に入ってくるだけです。ペトロもただ見ているだけです。ところが8節でもうひとりの弟子のほうが見たというのは、心を向けるとか、認めるといった言葉です。

そして11節以下の、マグダラのマリアの場面では、ただ見るというだけの単語は用いられず、むしろ日本語訳としては、観察するとか、識別するとか、突き止めるといった意味の「見る」なのです。なお細かいことを言いますが、11節で日本語に「見る」と訳されているのは原文にありません。わかりやすく補っただけです。そのことはともかく、同じ見るでも、出来事のなかで言葉が使い分けられています。

マグダラのマリアは、最初墓に行き、石が取りのけてあるのを見ました。ペトロもやってきて、亜麻布を見ました。そこまでは普通の「見る」です。ところが、もうひとりの弟子が墓の中に入り、見て信じたこと、それは心をこのところに深く向けることでした。そしてマグダラのマリアが復活の主イエスと出会う場面、ここではまさにはっきりと識別する。ただ見ただけではなく、なにもかもがわかったというふうに読むことができます。

聖書原文の単語の違いという面倒な話をしました。わたしが今日の聖書の箇所をとおして言いたかったこと、それは墓が空であることを、ただ見るだけなのか、それとも、この墓が空の状況から主の甦りを見ているかどうかということです。十字架というキリスト教のシンボルを見て、それをデザインとして見るか、処刑の道具としてみるか、あるいはそこの先に、復活の栄光ある姿を見るかどうか、ということです。

主イエスの墓をただ見るだけではなく、十字架をただの道具と見るだけではなく、そこにわたしたちを本当に生かす力があることを、空の墓に復活の栄光があらわされていることを見ていきたい。そこに新しい命を与えてくれる神の力があることを見ていきたい。絶望ではなく希望を持たせてくれる力があることを見る信仰を持ちたいと心から願います。

(2016年 3月27日礼拝説教)