番町教会説教通信(全文)
2016年12拝説教 「その名をインマヌエルと呼ぶ」 牧師横野朝彦

イザヤ7・10‐14

今日礼拝のあと、六番町に移動をして、新会堂の定礎式をおこないます。この日を迎えることができたことはとても感謝なことです。思えばいろいろなことがありました。この建物の老朽化や耐震性の問題から、建て替えについてはかなり以前から話をしていましたが、建物の上の権利者のかたがたとの調整など、自分たちの力の及ぶところではなく、ほとんど先が見えない状態でした。ところが今回このように新しい会堂建設が具体化され、定礎式にまでいたった。それはただただ感謝以外にありません。

多くの教会で新会堂を建てるときに、仮会堂が必要となります。番町教会でも、現在のこの会堂が建てられるときには四番町6の土地にしばらく移転しています。百年史には仮集会所と書かれていました。牧師家族も離れたところに住まわれました。けれども今回は、仮会堂もいらず、新会堂完成までこの場所で礼拝を続けることができます。このことも大きな感謝です。仮会堂は費用的にも大変ですし、それだけでなく、普通なら、定礎式をおこなうよりも前に、教会の家具、荷物を全部どこかに移動しなければならず、それだけで疲れていたことでしょう。その意味でも、仮会堂がいらないことは大きな恵みです。

考えてみれば、わたしはこれまでの生活で同じような体験、困難のなかで恵みを味わうという体験を何度もしてきました。何かをしようとするときに、目の前の困難が立ちふさがり、たくさんの心配をしました。こんなことは無理だと思えることがありました。けれども、気が付けば不思議なことに道が開かれていました。わたしの人生は、わたし自身の力によるものではなく、神さまの導きによるものであると思います。それは体験からそう思います。

主イエスは、「思い悩むな」と語ってくださいました。「あなたがたのうち、だれが思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」、「明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と語られました。そして「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えてくださったのでした。

それにもかかわらず、わたしたちは思い悩んでばかりいます。今日のことを思い悩み、明日のことを思い悩んでいます。悩みを深くすると、目の前に道が開けていても、それが見えないということが起こります。悩みを深くすると周囲の助けにも気づかず、よくないこと、悪いことばかりを数えるようになります。そうなると、事態はますますよくない方向に進みます。

大切なことは、主なる神が共にいてくださることへの信頼です。初代教会の指導者パウロはローマの信徒に宛てた手紙のなかで、神は、万事が益となるように共に働いていてくださるのだと述べています。共に働いていてくださるかたがおられる。そのことこそが、わたしたちに不安ではなく安心を、思い悩みではなく希望を、たじろぎではなく前進を与えてくれるのです。

ですから、わたしたちが新しい会堂を建てるにあたって、一番大事なことは、まず神の国と神の義を求めよという主イエスの言葉にしたがっていくことです。もちろんわたしたちは労苦をしなければなりません。しかし神さまが加えて与えられるという信頼のうえに立つ労苦なのです。ですからわたしたちの思い悩みは軽くされ、押しつぶされることもなく、希望を失うこともありません。

主イエスの教えのひとつに、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉があります。ぶどうの木の枝はとても弱々しいもので、まるで枯れているかのように見えるものです。実際ちょっとしたひょうしに折れてしまいます。けれども、そんな弱々しいものであっても、木の幹である主イエスにつながることによって、その弱々しい枝が豊かな実を結ぶのです。一房にいったいいくつの実がついているのでしょうか。数えきれないほどの実が生ります。でも、その枝が木の幹につながっていなければどうでしょうか。言うまでもなく、枯れるほかなく、実を結ぶこともありません。

前に、わたしの先輩の牧師が昆布の話をしていました。印象に残っているので、受け売りでありますがご紹介します。長昆布、ながこんぶ、あるいはながこぶと呼ばれる昆布は、釧路、根室あたりの海で獲れるもので、長さは平均15m、長いものでは20m、幅は20cmくらいだそうです。それが釧路、根室の荒海のなかでゆられながら育つのです。荒海のなかで20mの昆布が揺られているのはすごい光景だということです。

荒海ですから、しっかりと岩にくっついていないと成長しない。波に堪えることができる昆布だけが育つのです。そして先輩牧師は昆布の話を紹介したうえで、着生力ということを言っていました。着生力、着生とは、着るという字と生きるという字です。シダ植物などは着生植物というのだそうです。

もっとも、昆布は岩に着生しているだけでそこから栄養を取ることはありませんけれど、これもまたぶどうの枝が木の幹につながることと同じように考えることができるでしょう。わたしたちは何かにつながっているでしょうか。

そんなものはいらない、つながりなんて面倒なだけだ、そう思っている人がいるかもしれません。でも、自分はひとりで生きているのだと、自分の力を信じているように見えながら、実は荒海のなかで成長するどころか、どこかへ流されてしまい、浮遊状態になってしまうのかもしれません。着生力、それはわたしたちの人生の源をどこに求めるかであり、どこにしっかりとつながっているかということです。

ある人はそれを家族の絆として求めることでしょう。自分は会社につながっているという人もいることでしょう。あるいは物質的な価値とのつながりを大事にする人もいることでしょう。でも、残念ながらそれらは恒久的なものではありません。人と人とのつながりはとても大事でありますが、いっぽうそれによって傷つき、傷つけられ、そして他者を傷つけていることのなんと多いことでしょうか。

そのようなわたしたちに、主イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われ、「わたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言ってくださったのでした。主イエスはわたしたちが主イエスにつながるように招いてくださっています。

さて今日は、聖書日課にしたがってイザヤ書7章10‐14節を読んでいただきました。7章の冒頭に「インマヌエル預言」という見出しがついています。今日の箇所の14節に書かれていました。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とありました。これはキリスト教にとってとても有名で、また大事な預言の言葉として知られています。

なぜなら、新約聖書の最初のところ、マタイによる福音書1章にこの言葉が引用されているからです。ナザレの村で大工をしていたヨセフは夢の中で天使の言葉を聞きます。それはいいなづけのマリアが男の子を生むという知らせでした。

マタイ1章21−23節をお読みします。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

インマヌエルとは、ここに書かれていたように「神は我々と共におられる」という意味です。イエス・キリストというかたはいったいどのような方なのか、そのことを聖書は「神は我々と共におられる」かただと言っています。福音書を読むと、主イエスは病を負う人、苦しむ人、虐げられた人と共におられたことが書かれています。他の人から差別され、仲間に入れてもらえなかった人が、主イエスによって招かれ、また主イエスはそのような人の家に行って客となったと書かれています。

天の高きにおられるはずのかたが、この世の低いところに来られ、共にいてくださり、重荷を共に担ってくださっている。それがイエスというかただと、福音書は証しをしています。ただ単に一緒にいるというだけではなく、わたしたちの重荷を共に担ってくださるのです。「あしあと」という題の詩には、わたしたち自身を背負ってくださるかたとして歌われていました。

砂浜を神と共に歩いていました。ふと振り返ると、砂浜についた足跡は、あるところで二人の足跡ではなく、一人だけの足跡になっています。しかも一つの足跡しかついていないその場所は、自分が一番苦しかったときのものでした。神に問いかけます。あなたは一緒にいてくださると言っておられたではありませんか。それなのに、どうしてわたしが一番苦しかったとき、あなたはおられなかったのですか。

そこで神は答えられます。「わたしはあなたを一人にはしない。あなたが一番苦しかったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」足跡がひとつであったのは、神が背負ってくださっていた、神の足跡だったのでした。旧約聖書イザヤ書46章にもこう書かれています。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

このように、インマヌエルなるかたは、ただ一緒にいるというだけではなく、わたしたちの重荷を担い、わたしたちを背負ってくださっているのです。

ただ、ここで気を付けなければならないことがあります。人間は実に罪深く、自分勝手な存在です。神が我々と共におられるというとき、しばしば人間は自分の都合どおりに神を用いようとし、自分の都合のよいときだけ神の名を用いるのです。

第二次世界大戦のとき、ナチスはユダヤ人狩りをおこない、ガス室に、強制収容所に送り込み、大量虐殺をしました。今も規模の違いはあるとしても、同じような虐殺が世界各地におこっています。しかも神の名を用いて。宗教の違いなどあるとしても、自分たちの信仰の対象を自分たちの虐殺行為のために用いるという点では同じです。

ユダヤ人狩りをしたナチスの腕に、皆がそうであったのか、ごく一部なのかよくわかりませんが、腕には「神我らと共に」とドイツ語で書かれたものが縫い付けられていたそうです。ある人々を抹殺するために強権的な力をふるう、そして自分たちには神がついている。これは現在イスラム国を名乗る人たちがしていること。考えていることと、同じです。またかつて日本の国も神国、神の国だと言われていました。今でもそのように言う人がいます。

神我らと共にというのは、他の人を圧殺するときに用いる言葉では決してあってはなりません。なぜなら、主イエスは病める人、苦しむ人、重荷を負う人と共に生きられた。彼らを死においやるためにではなく、彼らを生かすために共に生きてくださったからです。

ところで、今日のイザヤ書の言葉はどのような背景を持っているのでしょうか。その歴史的背景を少し見ておきたいと思います。7章1−2節からその背景がわかります。「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」

聞いたことのない名前が次々出てくるので、わけがわからないように感じますが、ユダ王国をアハズという王が治めているとき、これは紀元前8世紀の後半です。ユダ王国を北にあるイスラエルとアラムのふたつの国が同盟を結んで攻めてきます。そのためダビデの家、つまりユダ王国はアハズ王も国民も皆、森の木々が風に揺れ動くように動揺したのです。

先程あげた例を使うなら、根室、釧路の荒海のようなものです。そこでアハズ王は大国アッシリアに助けを求めたのです。このことはユダ王国がアッシリアの属国になるに等しいことでした。

3節以下に書かれていることですが、アハズは水路の点検に出かけています。これは戦いに備えてのことでしょう。そこへ上から遣わされた預言者イザヤが、アハズに対して言うのです。今日読んだ10節です。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」このことの意味は、この世の権力であるアッシリアなどに拠り頼むな、そのようなことをすると結局国を亡ぼすだけだ。主なる神に拠り頼みなさい。昆布を例にしていったように、主なる神という岩に着生しなさい。そうすれば荒海でも流されることはない、イザヤはそう言ったのです。

ところがアハズはそれを拒否します。「主を試すようなことはしない」と、一見もっともらしい言い方でありますが、主なる神ではなく、目に見える力に頼ったのです。このようにアハズは神につながることを拒否しました。

神はどうされたでしょうか。わたしを拒否するような者は滅びよとでも言われたでしょうか。そうではありませんでした。つながろうとしないアハズ、つながろうとしないユダ王国に対し、それではわたしのほうからつながってあげよう、と言われたのです。

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」神は我々と共におられるというかたを、神が与えてくださるという預言です。

この預言の言葉は、イザヤ書全体で展開されます。9章には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」と預言され、11章では「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」と、まったき平和が述べられます。

そしてこの預言こそ、救い主イエス誕生の知らせであるとわたしたちは考えるのです。マタイ福音書にあったように、天の使いが、ヨセフとマリアの夫婦に伝えたのは、イザヤの預言の成就でありました。大国アッシリアの巨大な軍事力、それに比べればひとりのみどりごなど、なんと小さなことでしょうか。けれども、ここにこそわたしたちが着生するべき岩がある、聖書はそのことをわたしたちに伝えてくれています。

目に見えるものは滅びます。事実アッシリアもその後滅びました。けれども聖書に教えられているとおり、神の言葉は永遠に残るのです。詩編62に歌われています。「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」

主イエス・キリスト、このかたは、神を求めようとしない、つながろうとしないわたしたちに、神のほうから与えてくださったしるし、神のほうからつながってくださった救いのしるしです。このかたにつながることによって、わたしたちはぶどうの実のように、豊かな実りを得ることができます。このかたにつながることによって、荒海に揺れる長昆布であっても、しっかり岩に着生し、流されてしまうことはないのです。

主イエスにつながる者でありたい。主は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっていよう」と言ってくださいました。そして、特にこれから建築を始めようとしているわたしたちにとって、主イエスが教えられた言葉、マタイ7章、主イエスが山の上で語られた言葉は大切です。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」

(2016年12月18日 礼拝説教)