番町教会説教通信(全文)
2016年11拝説教 「白く塗りたる墓」        牧師横野朝彦

マタイ23・25‐36

23章27節に「白く塗った墓」と書かれていました。この個所を文語訳で見ると次のようになっています。「禍害(わざわひ)なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまな穢(けがれ)とにて満つ。かくのごとく汝らも外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり。」

偽善者とされる律法学者たちやファリサイ派の人々が、外面はきれいにしていても、その内側、その心が汚れていることを、「白く塗りたる墓」という言葉で批判したのです。

「白く塗りたる墓」、わたしにとって強く印象に残る、そして強い問いかけが与えられる言葉です。この言葉は、小説などのタイトルにもなってきました。わたしが知っているのは2冊で、どちらも古いものです。ひとつは、評論家であり劇作家でもあった福田恒存が1948年に書いた評論です。わたしは読んだことがなく、聞きかじりでありますが、インテリと呼ばれる人たちへの批判が書かれていると聞きました。戦争が終わった途端にさもわかったようなことを言っている人々への批判のように聞きました。

1970年には、高橋和巳が「白く塗りたる墓」を書きました。これはテレビ局が舞台となる小説でした。当時の学生運動とジャーナリズムのかかわりを描いていました。テレビの映像は見ている者には事実そのものに思えますが、実は真実そのままではない。確かそのようなことが、テレビ局に勤めるひとりの人間をとおして描かれていたように思います。

ユダヤの世界では墓はどのようなものだったのでしょうか。主イエスが納められたのは、洞窟のようなもので、その入り口を大きな石でふさいだものでした。これはアリマタヤのヨセフが自分のために生前から備えていたもので、これはかなり富裕層の人の墓なのだと思われます。

一般庶民の場合、庶民というか圧倒的多数であった貧しい人々の場合、地面に穴を掘り、そこに埋めたのち、何か適当な石を積んでおくという方法が取られていたようです。今日のような形を整え、文字を刻んだ墓ではありません。

ただ石を積んでおくだけでは、そこが墓なのかどうかわかりません。遺体が埋められた上に石が積まれていて、そのことを知らないでほかの人がその石に触れるということも十分ありえました。でも旧約聖書の掟で、死んだあとの体、遺体を、汚れた存在とする考えがありますから、石に触れることは避けるべきことだったのです。そこで、それが墓石だということを皆に知らせるにはどうすればよいかということで、白い漆喰が塗られたのです。そうすることによって白く綺麗に見せようというのではなく、このなかは汚れていると警告する意味があったのです。

このように見てくると、白く塗りたる墓という言葉がいかに厳しい言葉であったか、警告を伴った言葉であったかがよくわかります。まさに警告を、主イエスは律法学者、ファリサイ派の人々に投げかけたのでした。当時の律法学者、ファリサイ派の人々、いったいなにが問題だったのでしょうか。何が批判されたのでしょうか。それは具体的にどのようなことだったのでしょうか。

律法学者やファリサイ派の人たちへの批判、たとえば主イエスが病気の人を癒されたとき、その日が安息日だというので、彼らは主イエスのされたことを批判しました。マルコ3章によれば、「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。口語訳聖書を見ると、「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた」と訳されています。

彼らは、主イエスが病める人を癒される前から、あいつは安息日の掟を破るのではないかとうかがっていたというのです。彼らにとって、病気の人の苦しみや辛さを思いやる心など見当たりません。彼らの関心は、主イエスが安息日に癒しという労働をするかどうか、一切の労働が禁じられている安息日に、労働をしてその掟を破るかどうかに関心があったのです。

もうひとつ例をあげると、ヨハネ8章に書かれているように、一人の女性が捕らえられ、主イエスのもとに連れて来られます。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」これもまた、主イエスを陥れようとする質問でした。石で打ち殺してはならないと返答すれば、律法違反が問題とされ、石で打ち殺せと返答すれば、主イエスがこれまで語ってこられた愛と赦しの言葉との矛盾を指摘することができたからです。

わたしが腹立たしく思うのは、彼らがたとえ主イエスを嫌っていたとしても、主を陥れるために、ひとりの女性を人々のさらしものにして、主を陥れる道具にしたことです。ここで彼らには、この女性の人格や尊厳への配慮は見当たらず、主イエスを訴えるために利用しているだけです。律法やその他さまざまな掟を厳格に守っているように見えながら、そこには人の心への寄り添いとか、人の心の痛みへの感性がないのです。

そしてこのような彼らに対し、主イエスは厳しく批判され、それはまるで白く塗った墓のようだと言われたのでした。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」とても厳しい言葉です。

話を少し変えて、マタイによる福音書の記者であるマタイは、福音書を実に興味深く構成して書いていると思います。最初に系図から始まって主イエスの誕生が描かれ、ガリラヤで主イエスが福音を宣べ伝えられたと書かれます。それが1章から4章です。

マタイは、教えは教え、癒しは癒し、奇跡は奇跡、譬話は譬話とまとめて描いていきます。そして24章以降で、終わりの日、終末の預言があり、主イエスの逮捕、十字架、復活と描かれます。つまり、4章までを序章、24章以下を終章であるとすれば、主イエスの生涯を描く本文は5章から23章ということができるのではないかと思います。

5章には何が書かれていたでしょうか。5章から7章まではいわゆる山上の説教です。山の上で主イエスは教えをされました。その説教の最初に出てくるのが「幸いなるかな」という教えです。ここで主イエスは8つの幸いを述べておられます。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という有名な言葉で始まるあの教えです。

心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである、柔和な人々は幸いである、義に飢え渇く人々は幸いである、憐み深い人々は幸いである、心の清い人々は幸いである、平和を実現する人々は幸いである、義のために迫害される人々は幸いであると。ここで幸いとは、この世的な幸福であるよりは、神の祝福が与えられるという意味です。

さてそれでは、8つの幸福の教えに対して、8つの不幸の教えがあるのを皆さんはご存じでしょうか。正確には7つなのですけれど、それはほかならず今日読んでいただいた箇所です。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と、不幸の宣言がされています。

つまり、マタイは実に意図的にこの福音書を構成し、本文といえる5章から23章の最初の部分で幸福の教えをし、終わりの部分でいわば不幸の教えを書き記しているのです。もっとも、この不幸という言葉は、あまり適切な翻訳とは思えません。原文では、感嘆詞というか、「ああ」と、嘆息するような意味あいの単語です。そこでほかの翻訳を見ると、「禍だ」と訳されています。

文語訳では、最初に「白く塗りたる墓」という箇所を述べて言ったように、「禍害(わざわひ)なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ」で始まっています。つまり、5章の「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」という言い方と対になっていることがわかります。

5章では、「幸いなるかな」、すなわち神の祝福はこのような人々に与えられますよと教えられていました。そして23章では、神の祝福とは反対の姿、禍が告げられるのです。5章で神の祝福は、心の貧しい人々、悲しんでいる人々、柔和な人々に与えられました。そして今やここ23章で神の祝福とは反対の言葉が与えられるのです。

どのように教えられているのかをみていきます。今日は聖書日課に従ってマタイ23章25‐36節を読んでいただきましたが、その少し前、25章13節以下をご覧ください。23節に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ」と書かれています。これが第1番目です。

天国を閉ざすとはどういうことでしょうか。二通りの解釈がありまして、ひとつは、律法論争や偽善によって、神に一切をゆだねる道を閉ざしているという解釈。もうひとつは、彼らがキリストの福音を聞くことを閉ざしているという解釈です。

次に15節も、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と、13節と全く同じ言葉で始まっています。ここではユダヤ教に改宗した人たちのことが言われています。どうもわかりにくいのですけれど、改宗した人たちはしばしばもともとのユダヤ教徒よりも熱心で頑なであったということのようです。

16節には、「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」とあります。神さまへの道の案内者であるはずの律法学者たちが、本当のところ何もわかっておらず、なにも見えていないということです。

23節では、律法学者やファリサイ派の人々が、宗教的な祭儀を大事にしていても、大切なことを忘れていると言われます。「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ」と指摘されています。パウロは第一コリント13章で、山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ無に等しいと言いましたが、マタイ23章23節でも、正義、慈悲、誠実こそ、律法の中で最も重要だと教えられています。

そして今日読んでいただいた25節以下につながります。25節では、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」と言われています。これはなんとなく分かるようで、わかりにくい話です。というのは家庭で使っている食器の洗い方の問題ではないからです。

ここでは、ユダヤ教の祭儀に使う器、神への供え物を入れる器のことです。祭司たちは神にささげる供え物に汚れがないように、彼らの手が触れる器の外側を清めることに注意を払っていました。このことを例にあげながら、彼らの宗教生活が他人の評価を気にするばかりで、心の内側はおろそかにされていると言われているのです。

27節以下は白く塗りたる墓、25節以下と同じく内と外との矛盾です。彼らは年に一度、プリム祭という祭のとき、墓を白く塗りなおしていました。しかしその内側は偽善と不法で満ちていると、厳しい批判がされています。

29節以下は、預言者の墓を立てたり、記念碑を立てたりしていることへの批判で、ここで書かれていることもまたとても分かりにくいことです。要するに、預言者たちの墓を建てて記念しているが、預言者の言葉を聞いてこなかったではないか、そればかりか預言者を迫害してきたではないかという指摘です。マタイ21章に「ぶどう園と農夫」の譬話があります。収穫のときがきたので僕を遣わしたが、殺されてしまった。主人は何度も使いを送り、最後には跡取り息子を送ったがこれも殺されてしまったという話です。これは預言者を何度も遣わし、最後には神の独り子を遣わしたが、神の独り子が十字架にかけられることを述べた譬です。今日の29節以下はそのことをさしています。

以上で7つの禍が書かれていました。なお新共同訳聖書には23章14節がありません。その部分には十字架に似た印がしてあります。そしてこの箇所はマタイによる福音書の最後のページ、28章のさらにあとに、「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」と書かれ、「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と書かれています。これも入れれば8つとなります。

ところで、今日は教会暦で降誕前第8主日です。降誕前第9から第5までは、契約節とも言われ、旧約の歴史、神の契約から学ぶことが主眼となっています。先週第9主日の主題は、「創造」でした。天地創造です。そして今日の主題は「堕落」です。すなわち、アダムとエバが禁断の実を食べ、またカインが楽園を追放された、人の罪の始まりに心を留めるときなのです。

そして人間の「堕落」を主題とした今日の聖書日課、福音書の箇所が、お読みした「禍害なるかな」のところなのです。ただここで気を付けておきたいことがあります。ここで律法学者たちが批判されているからといって、彼らだけが悪かったわけではありません。注意しておきたいことは、この話を2000年前のことなどと思わないことです。

聖書を読むということは、そこに書かれていることを、今のわたしたたちに与えられたメッセージとして読むことです。そこに書かれている愛のメッセージを、わたしに与えられた愛のメッセージと読むことです。それと同様に、そこに書かれている警告を、わたしに与えられた警告として読むことです。

お話ししたように、マタイは最初に「幸いなるかな」と言い、終わりのところで「わざわいなるかな」と言っています。わたしたちはこれらの言葉のどちらを受け取っているのでしょうか。いや、どちらかだけということはないはずです。一人の人間のなかにある弱さや悲しみ、主はそこに「幸いなるかな」と呼びかけを与えてくださっています。しかし同じ一人の人間の内にある罪や堕落に、「わざわいなるかな」と警告を与えてくださっているのだと思います。

「白く塗りたる墓」と指摘されて、いや自分はそんな人間ではないと言い切れる人はいません。誰もがそのような面を持っています。それではわたしたちはどうすれば良いのでしょうか。外側をきれいに見せかけることよりも、内側を磨くことなのでしょうか。内側を磨くにはどうしたらよいのでしょうか。

マタイはその答をある意味与えてくれていると思います。それをマタイは、福音書全体をとおして語りました。「幸いなるかな」で始まる山上の説教で、主イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えてくださっています。そして続けて、主イエスの言葉、主イエスのおこない、癒しや奇跡、譬が、福音書に書かれています。それらの教えに聞き従うものになりなさいということです。

 (2016年10月30日 礼拝説教)