番町教会説教通信(全文)
2016年10拝説教 「無に等しい者を」        牧師横野朝彦

第一コリント1・26‐31

選民意識、あるいは選民思想というものがあります。選民、選ばれた民です。聖書に親しんでいる人たちにとっては、選民というとユダヤ人のことがまず頭に浮かぶのではないでしょうか。詩編33には、「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は」とあります。また詩編65では、「いかに幸いなことでしょう、あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は」と歌われています。もう一つあげれば、詩編105には、「主の僕アブラハムの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ」と書かれています。

これと同じ考え方は、キリスト教のなかにもあります。今日読んでいただいた聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一1章26−31節のなかにも、「選ばれた」という言葉が出てきますし、わたしたちが主キリストのことを知り、信仰に導かれたのは、神の選びであるというのが、キリスト教的な考え方のひとつであるのは間違いありません。わたしたちの属する日本キリスト教団の信仰告白にも、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」と告白されています。

神はわたしたちを選んでくださった。これはひとつの告白、信仰の告白です。しかしながら、ここで選民とか、選民意識とか、選民思想というと、何か違うニュアンスが入ってきます。はっきりと言えば、いかにも自分たちは偉いのだ、自分たちは特別なのだという、ちょっと鼻持ちならない気持ちになることがあります。

鼻持ちならない、自分でも久しぶりに使う言葉だと思って調べてみると、「言語や行動ががまんできないほど不愉快」とありました。つまりは、自分こそ偉いのだという態度や姿勢に我慢ならないということです。

バプテスマのヨハネは、マタイ3章8‐9節に書かれているように、「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」と言っています。

ヨハネは、当時の人々の信仰の姿勢、宗教的態度などを見て、彼らが自分たちはアブラハムの子孫だと、ただそれだけで選民であるという意識を持っていることに、怒りに近いものを感じていたようです。

選民意識、このことはこれまでの歴史のなかでさまざまな形で現れてきました。極端とも言える例は、ナチスドイツです。ナチスは1937年、アーリア条項を制定しました。アーリア人以外の人たちは公務員になれないという法律です。それによって、ユダヤ人たちが公職から追放されました。例えば、フランスで哲学の教師であったシモーヌ・ヴェイユもこれによって教師職を辞めさせられています。日本でも今、二重国籍が問題となっていますが、これも考えようによっては非常に狭い民族主義につながると思います。日本でも、大和民族が優れているという思想があります。ほかにも、同じような思想が各地で見られるのだと思います。

選民思想というのは、ある人々に自分のアイデンティティというか、自己認識を確かにさせ、また生きる力や目標を与え、さらにある集団に一体感を与えるものですから、それ自体が悪いとは思いません。 しかし、それはしばしば優越意識につながり、他者を一段低く見てしまうことにつながるのです。

ましてや、ナチスに見られたように、劣等民族とされる人たちを抹殺していくことになるなど、とんでもないことです。

人間、力を持つのは怖いことです。これまでとは態度や言葉遣いまで変わってしまうことがあります。そして自分では力を持っているなどと思っていなくても、選民意識によって、自分を他と区別してしまうことがあります。

聖書の記述を読むならば、ユダヤ人の選民意識はとても強いものでした。しかし一部に、すべてではなく一部に、それが優越意識となり、他者を排除する意識となっていたことがわかります。

このように、選ばれたという気持ち、それはわたしたちの大切な信仰の告白です。ところがいっぽうで、それが優越意識になることがある。同じひとつの気持ちが、信仰告白にもなれば、他者を排除する意識につながることもある。これはどう考えればよいのでしょうか。

選民意識というのは、本来自分を他と比べる意識ではないはずです。他の人を見下げるなどとんでもないことのはずです。というのは、選民意識というのは、こんな自分が選ばれた、こんな自分が用いられているという、感謝の気持ち、恵みとして受け止める気持ちであるとわたしは思います。感謝の気持ちなのです。

そしてそのような感謝の気持ちは、まず自分自身をどのように見るかにかかわります。自分は選ばれた民だ、なぜなら自分はこんなに立派なのだから、そう思うべきでしょうか。そうではありません。自分は選ばれた民だ、なぜなら自分はこんなに優秀なのだから、そう思うべきでしょうか。そうではありません。大切なことは、この気持ちは自分の弱さ、自分の小ささを知ることから始まるからです。

旧約聖書は、神がユダヤ民族を愛し導いて来られた歴史が書かれています。でもこれも神が特別に優秀な人たちを愛したという話ではありません。むしろまったく逆と言ってよいのです。旧約聖書の申命記は、そのことを実にはっきりと述べています。申命記7章には次のような言葉があります。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」そしてこの言葉に続けて、「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」神は彼らを救い出されたのだと述べられています。

この言葉は、たんに謙遜な言い方というのではありません。事実そうだったからです。申命記26章では次のように言われています。「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。』」 

聖書の民、彼らはもともと「滅びゆく一アラム人であった」と言います。アラム人とは、紀元前かなり昔から、メソポタミアからシリアにかけて広く存在した遊牧民です。それも滅びゆく者たちであったと言われています。

滅びゆく小さな存在であった。旧約聖書創世記、そして出エジプト記に書かれているように、彼らは飢饉のため食べ物を求めてエジプトに行き、そこで大きな民となりました。しかしエジプト王の迫害によってそこを脱出し、荒れ野をさまよったすえに、パレスチナの地に定着をしたのです。

旧約聖書の民とその宗教、それはさかのぼれば、小さな滅びゆく民、さまよえる民を、神が憐みをかけ、愛してくださった。そこに行きつきます。それがすべての出発点でありました。それは信仰告白というだけではなく、歴史的にも事実でした。もともと彼らは、滅びゆく民であったのです。

それが、ちょうど神がアブラハムに約束されたように、多くの国民の父となっていったのは、ただ神の選びによるほかない、その感謝の気持ちが選民という言葉で表現されていったのでした。

でも、人間は弱いものです。愚かな罪深いものです。もともと弱く小さな者であったはずなのに、ひとたび力を得てしまうと、それが驕りや高ぶりにつながるからです。あたかも自分たちが最初から力があったかのような錯覚に陥るのです。あたかも自分たちが偉いかのような錯覚に陥り、傲慢となってしまう。選ばれたという感謝の気持ちから、感謝だけがどこかに行ってしまうのです。そうなると、人間に残るのはまさしく嫌な意味での選民意識です。

バプテスマのヨハネは、人々のなかにある「我々の父はアブラハムだ」という意識が持っている過ちを厳しく問いただしました。主イエスも、律法学者やファリサイ派の人たちが持っているそのような意識を鋭く問われたのです。

それゆえ、選びを恵みとして受け止め感謝をささげることができるか、それとも鼻持ちならない態度に人を変えてしまうか、その違い、その分かれ目は、自らの小ささ、自分の弱さを、自分でどれだけ持ち続けることができるか、どれだけ自分の弱さを直視し、自分の罪深さに気づき、神さまのまえに身を低くすることができるか、そこにかかっているようにわたしは思います。

そしてまた、わたしたちはそのような自分のいわば出発点、原点に絶えず立ち帰っていく必要があります。わたしたちが毎週礼拝に集うのは、そのためでもあるのです。この世俗という言葉が当てはまるドロドロとした競争社会のなかで、生きている毎日の生活を、神の教会に集い、自分はこれほど罪深く、弱く小さな存在なのに、神の愛によって生かされているという出発点です。

ヨハネの黙示録2章に、エフェソの教会の人々への痛烈な批判の言葉があります。それは次のような言葉です。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」初めのころの愛、信仰を持ち始めたとき、神の愛を心から感謝し受け止めたあの時の気持ち、信仰を持ち始めたとき、神を愛する思いを心から持てたそのときの気持ち、その出発点が失われているではないかと、ヨハネの黙示録は鋭く述べています。

そしてこの言葉は、今日のわたしたちにも向けられているのではないでしょうか。わたしたちも、初めのころの愛に立ち帰り、神の愛を喜び、神の恵みを喜んでいきたい。そしてそのためにまず、自分がそもそも神の前にどれほど小さな存在であるか、自分が神の前にどれほど罪深い存在か、どれほど弱い存在かを認めていかなければなりません。

今日読んでいただいたコリントの信徒への手紙一1章に書かれていることも、今述べたこととつながっています。ヨハネの黙示録は、「しかし、あなたに言うべきことがある」という言葉で人々の思いを初めのころの愛に向けるようにうながしました。

それと同じです。パウロは今日の箇所で、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」と呼びかけているのです。召されたときのこと、本田神父の翻訳では、「仲間の皆さん、呼びかけに応えた自分のことを考えてみてください」となっています。神さまの呼びかけに応えたときのこと。主イエスは、ガリラヤ湖畔で漁をするペトロたちに、「わたしについて来なさい」と呼びかけを与えてくださいました。

収税所で働くアルファイの子レビに、「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。エリコの町では、町一番の嫌われ者であったザアカイに、「ザアカイ、急いで降りてきなさい」と呼びかけられました。ここにおられる皆さんにも、その声がはっきり聞こえたかどうか、人それぞれとしても、主キリストのよびかけがあったのです。呼びかけに応えたときのことを、考えてみてください。初めのころの愛を思い起こしてください。そのような呼びかけがわたしたちに与えられています。

今日読んだ箇所は、先週の続きにあたります。先週お話をしたように、パウロはコリントの教会のなかで、派閥争いとでも言うべきものがあることを知り、それを叱責しています。わたしはアポロにつく、わたしはパウロにつく、そんな争いがありました。アポロという人は雄弁家で有名であったようです。しかしそんな状態のコリントの教会の人たちに向けて、パウロは「それは違う」と言うのです。

あなたがたがキリストに招かれたときのこと、あなたがたがキリストに従おうとしたときのこと、その最初のところに立ち帰ってごらんなさい。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」ここで言われている、知恵、能力、家柄、これらは今日人間の価値をはかる基準になっていると思います。

主イエスが弟子たちを選ばれたとき、ペトロも、またその他の弟子たちも、学のある人ではありませんでした。能力、家柄、どれも誇るべきものはありませんでした。聖霊降臨のあと、ペトロが人々の前で説教をしたとき、周りの人たちは、あれはガリラヤの漁師ではないかと驚いたほどでした。

しかし神は、世の無学な者を選び、世の無に等しい者を選んでくださったのです。それはただ神の愛、神の恵みによるほかありません。

今日の箇所で、わたしにとって言葉遣いにちょっとひっかかるところがあります。それは「知恵ある者に恥をかかせるため」、「力ある者に恥をかかせるため」という言葉です。恥をかかせるためとはどういうことだろうと思ってしまいます。ひとつには、日本人は罪の文化ではなく恥の文化だと言われますから、恥という言葉を強く感じるのかもしれません。

むしろ、おごり高ぶる者の身を低くされるため、そのような意味で受け止めるのが良いだろうと思います。バプテスマのヨハネは人々に悔い改めを迫りました。そのときイザヤの言葉が引用され、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」と言われています。低きものが高められ、高きものが低くされる。神の前に皆が等しく立つことになる世界です。

けれども高ぶる者が低くなるというのは生易しいことではありません。人間は一度傲慢になると、それを脱ぎ去るのが難しいですし、また高くいる自分が物事を見る標準になるからです。

この手紙を書いたパウロ自身はどうだったでしょうか。先週も言ったように、彼は若い頃に留学をした当時の社会のエリートです。そんな彼が、当時の社会で卑しい仕事とされていた天幕作りをして自活しながら、伝道活動をしていきます。そして第二コリント12章でパウロは自分について、「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」と言っています。そしてこの手紙でパウロは、弱さということが人間にとって恥ずべきことではなく、むしろ神の恵みを宿すための大切な器であると述べています。

パウロにとって一つのとげとは、彼がてんかん症状を持っていたことであるとか、彼が目を患っていたとかの説があります。不自由で、とげどころか、彼にとっては大きな十字架であったことでしょう。しかし彼はそれらが自分の思い上がりを打ち砕いてくれたと感謝の思いをもって述べるのです。

そしてパウロは、第二コリント12章で、「キリストの力が宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っています。弱さを誇る。ところで、今日の箇所でパウロが「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく」、「能力のある者」云々と言ったとき、さらに31節で「『誇る者は主を誇れ』と書いてある」と言われるとき、これらは、旧約聖書の言葉がもとになっていると考えられます。

エレミヤ書9章22‐23節にこう書かれています。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」

パウロが弱さを誇ろうと言ったのは、このためです。自分自身を誇ることしかできない者が、とげを受けることによって低くされたのは、主を誇る生き方へと変えられるためであった。そのことをパウロは体験として知ったのです。

神はわたしたちを選んでくださいました。信仰告白にあるように、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。」この選びは、まさしく感謝して受けるべきことです。けっしてそれが誇りになってはいけません。誇るならば、自分の弱さを誇り、誇るならば、主を誇るのです。

 (2016年10月16日 礼拝説教)