番町教会説教通信(全文)
2015年9拝説教 「優先すべきこと」       牧師 横野朝彦

ルカ16・1―13

わたしたちは毎日の生活のなかで、どんなことにでも優先順位をつけています。自分ではそんなことを考えていなくても、優先順位というものがあります。ある時は意識して優先順位をつけ、また多くの場合は意識しないでやっています。人によってその順位は違います。

わたしはこれまでのさまざまな付き合いや、また頼まれて、農村伝道神学校やクリスチャンアカデミーや、東京同信伝道会などいくつかの団体の役をさせていただいています。教会の働きに差しさわりのない範囲と、自分では教会のほうを優先させているつもりですけれど、それでもやはりあれこれしていると、そのしわ寄せというのはあるのだと思います。複数の集会の重なることがあります。そのどちらを選ぶかで優先順位をつけざるを得ません。

もっと卑近な例をあげれば、わたしが一番苦手なのは片づけるということで、大げさに言えば、あっと言う間にゴミ屋敷になっています。実際、昨日使ったばかりの書類が見つからず、探していると、わたしの机の上の書類の山の、下のほうから探していたものが出てくることがあります。わずか一日で山になってしまいます。

自分では片づけなければという気持ちはあるのです。にもかかわらずどうしてこんな状態になるのだろうか。わたしの場合理由ははっきりしています。このことを先にしなければ、あれを済ませなければと、ほかのことに優先順位が行ってしまうのです。その結果が散らかり放題ということです。どうやら優先順位のつけかたを考え直さなければならないようです。

そしてその優先順位をどうつけるかで、その人の価値観というか、人生観が明らかになります。

ルカによる福音書14章に書かれている譬話で、盛大な宴会に招かれた人たちの話があります。盛大なとあるくらいですから、さぞかしたくさんの人が集まる、楽しい宴会だったのでしょう。ところがいざ宴会の時刻になっても、あまり人が集まらなかったようです。ある人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言いました。ある人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言いました。そして別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言って断るのです。

彼らには彼らなりの理由があり、それはこの社会の常識から考えれば、彼らの言い分にもっともであったのでしょう。けれども、この譬話で言われていることは、ただの宴会ではありません。この譬は、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という言葉から始まっています。この譬は神の国の宴会なのです。神の国での宴会が始まろうとしている。にもかかわらず畑を買った、牛を買った、妻を迎えたと、もちろんそれらが大事なのは認めますが、人生の優先順位がそれでよいのかと、この譬は問いかけています。

この譬は、言いましたように神の国の譬ですけれど、今わたしたちが出席をしている礼拝というものをわたしたちは自分の日常生活のどのあたりに位置付けているのかという、大きな問いかけでもあります。礼拝という言葉は、漢字をみると礼をして拝するということです。でもそれだけが礼拝ではありません。キリスト教の礼拝、特にプロテスタントの礼拝では、聖書の御言葉を聞くということが礼拝の大きな要素です。礼して拝するだけではなく、神の御心を聞いて従っていこうというのが大事なことなのです。

英語で礼拝のことをworshipと言います。この単語はもともと、価値あるものという意味です。神さまを最高の価値あるものとするという意味だと思います。ですから礼拝そのものが、わたしたちの生活のなかでもっとも価値あるものだという意味に考えることができます。またこのほかにも、礼拝を表わす言葉として、祝典を意味するcelebrationや、祭りを意味するfestが用いられることもあります。このように、礼拝を、祝典とか、祭りとする理解が、近年強くなってきたように思います。

そのような喜ばしい祭である礼拝、神の国の宴会と、わたしたちの日常の生活と、どう優先順位をつけるかは、まったく悩ましいところです。教会によっては、日曜日の礼拝を休むこと自体が罪であるかのように、厳しく指導しているところもあります。わたしたちの教会はその点若干ルーズになってしまっていないか、反省させられるところです。

今の時代、勤め人にとっては日曜日に礼拝に出るというのも、楽なことではありません。生きていくのに精一杯の状態におかれている人たちがたくさんおられます。格差が広がり、厳しい生活を強いられている人がいます。いっぽう大きな会社で働いている人たちに余裕があるかといえばそうではなく、働きづめに働いている現状があります。そのため日曜日に休むことさえできない人も少なくありません。社会全体が、経済や効率や、目に見える価値のほうに優先順位が行ってしまっています。

働くことは、人生の大切なことのひとつです。それによって収入を得、またすべての人がそうとはいかないにしても、それによって社会貢献をし、生きがいを得ていきます。大切なことに間違いはない。けれども、少なくとも仕事そのものが人生の目的ではありません。仕事をすること自体が目的ではありません。

家族を養うことや、社会貢献や、自分のスキルを磨くことが目的になるとしても、労働そのものが目的ではありません。

けれども、そのために人間としてなにか大切なものを見失ってしまってはいないだろうか、人間として大切なものを失っていないだろうか、そのように問い直していかなければと思わされます。

お金を儲けることも、それ自体は悪いことではありません。儲けることができれば儲ければよいのでしょう。でも、そのことによって大切なことを見失うことがある。主イエスは、神と富とに兼ねて仕えることはできないと教えられました。

それは今日読んでいただいたルカ16章13節に書かれているとおりです。13節では、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と書かれていました。わたしたちは神さまをわたしたちの主とするのではなく、富を主としてしまっていないだろうか、富や目に見える価値を人生の主人にしてしまってはいないだろうかと思うのです。

この13節は、マタイによる福音書では6章24節に出てきます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」ルカとほとんど同じ言葉です。マタイ6章は山上の説教の箇所です。ここでは直前に「天に富を積みなさい」と教えられ、また直後の箇所では、空の鳥を見よ、野の花を見よ、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と教えられているところです。そしてこれらの教えに続けて、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と語られています。何よりもまず、これこそまさに主イエスが教えてくださっている何よりもの優先順位です。

旧約聖書詩編20に、大切にしなければと思っている言葉があります。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。」これもわたしたちにとって優先するべきことが示されています。軍事力が優先され、外国に派兵されようとするこのとき、そのような力は誇りにならないと詩編は歌っています。詩編147にも、「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人」と歌われています。同じような言葉は預言者イザヤの書にも出てきます。イザヤ31、「災いだ、助けを求めてエジプトに下り 馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く 騎兵の数がおびただしいことを頼りとし イスラエルの聖なる方を仰がず 主を尋ね求めようとしない。」

今日お読みいただいた聖書の箇所、ルカによる福音書16章1−13節は、聖書日課に従って選びました。この箇所からはすでに2回、礼拝で読み、語ってきましたので、今回はここからどのようなメッセージを語ることができるだろうかと考え、そして今日の説教の題としたように、「優先すべきこと」といたしました。

今日の個所は、新共同訳が「『不正な管理人』のたとえ」と見出しをつけているように、ひとりの不正を働いた人の話です。いや不正を働いた人の話というよりも、その不正がほめられたという、なんともおかしな話です。悪いことをしてほめられる、そのことから今日の個所は福音書のなかでも理解の難しいところとされてきました。聖書注解書を開いてみても、これは福音書のなかで最も難解な箇所の一つであるなどと書き始められています。

ある金持ちに、財産を預けて管理させている管理人がいました。ところがその管理人が、主人から預かっているお金を使い込みしてしまうのです。主人である金持ちは管理人を呼び寄せ、会計報告を出せと命じます。そこでその管理人はどうしたでしょうか。彼は考えます。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」彼はこのように考え、主人である金持ちに借りのある人たちを呼び寄せます。そして油1000?の借りのある人には、借用証書を書き換えて500?にしてしまいます。小麦1000?を借りている人には、借用証書を800?に書き換えてしまいます。なお、今申した数字の単位は、聖書に書いてあるのをそのままではなく、今日の単位で適当な数字を当てはめて述べたものです。それにしても、主人が貸したものの借用証を勝手に書き換えるのですから、とんでもない悪いことです。このように悪いことをして、彼は、油や小麦を借りていた人を自分の味方につけてしまうのです。

こんなに悪いことをしたのですから、これがばれたときには、大変な刑罰が与えられるだろうというのが当たり前の考え方です。ところが主イエスはこの譬話で、主人はこの不正な管理人のやり方をほめたと言われるのです。そればかりではありません。9節によれば、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友だちを作りなさい」と、このように勧めているのです。「そこで、わたしは言っておくが」というのは、主イエスの特徴的な言い方で、わたしたちの常識を覆し、生き方を考えさせる言葉です。いったいこれはどういうことでしょうか。悪いことをしてでも友だちを作れとはどういうことでしょうか。そんなことをして作った友だちは、本当の友だちと言えないのではないでしょうか。また不正にまみれた富でとはどういうことでしょうか。

この聖書の箇所は、古今東西、読む人を惑わしてきました。そして色々な解釈が生まれました。この証書の書き換えは、利息分の減額だという解釈があります。油1000?とあるのは、貸し出された500?と、利息分の500?で、その利息分が減額されたという解釈です。この解釈は多くの聖書学者が支持しているようです。

そもそも、旧約聖書の掟によれば、利息を取るということはいけないことでした。レビ記25章に書かれています。「あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。 その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。」

このように律法では利息を取ってはいけないと言われているのです。現実には金貸し業は横行し、のちにはベニスの商人のシャイロックのようなイメージが生まれるのですけれど、本来は利息を取ることは律法違反、すなわち不正だったのです。そのことがわかると、不正にまみれた富という言葉の意味が少しわかってきます。

主イエスは、そのような富を用いてでも友だちを作りなさいと言われます。これをそのまま表面的に受け止めて、悪いことをしてでも友を作れと読んでしまうといけませんけれど、しかしここではわたしたちにとって教えられるべきこと、人生の優先順位が示されているのではないでしょうか。

お金が原因で人間関係が壊れることは少なくありません。親しい友だちだったのに、わずかなお金の貸し借りをして、それが返ってこないと争いごとになります。お金を貸すときは、はじめから返ってこないと思っておかなければと思わされます。遺産相続が原因で兄弟親戚が争いを始めるということもあります。こういう争いごとは、他人との争いよりももっと醜いものになるそうです。

ここでもわたしたちは優先順位を見直す必要があります。お金と人間関係とどちらを優先させるのか。お金のほうが優先されるこの社会、またわたしたち自身の心の持ちように対し、いや、人間関係のほうが大事なのだと、はっきり言っていくことが大切です。

本田哲郎神父の翻訳には、この箇所に「財産は貧しい人々の解放のために役立てよ」という見出しを付けておられます。またある本には、「物質的な所有物は友情を堅くするために用いるべきだ」と書かれていました。

さて今日の譬で、譬話の最後に書かれている言葉にも注目をしたいと思います。9節の後半です。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」金がなくなったときに、誰かが助けてくれるでしょう、というのではなく、永遠の住まいに迎え入れられるというのです。

この言葉で、わたしたちに教えられていることがこの世の損得、この世の利得ではないことがわかります。わたしたちはしばしば目先の利益を求めるといいましょうか、今日のこと、明日のことで思い煩います。明日のことを思い煩い、うまくいかなければもうそれだけで人生が終わったかのように落ち込むことさえあります。また、わたしたちはこの世の評価を気にします。他の人にどう評価されるだろうかを気にしてしまいます。

しかし主イエスは「明日のことを思い悩むな」と教えられ、また「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えられました。わたしたちが求めるべき優先順位は、まず神の国であり、神の義です。そして他の人の評価ではなく、神さまの評価です。今日明日の評価ではなく、いつか人生の終わりのとき、良い人生を送れたと言えるような生き方です。神さまの前に立つときに、よくやったと言っていただけるような、そんな人生を送りたい。

とするならば、律法を厳格に守って人を裁く生き方よりは、ときに不正と言われるようなことがあったとしても、友を作ることのほうが大事なのではないか。正義を振りかざして相手を打ちのめすよりは、その人と和解をして友となることのほうが大事なのではないか。自衛の名のもとに戦争を始めるよりは、日ごろから友となるための努力をするほうが大事なのではないか。畑を買ったからと見に行くのも大事だけれど、牛を買ったから見に行くというのも大事だけれど、それで神の国の祝宴を逃してしまっては、なんにもなりません。

ルカ11章に、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と書かれています。「主の祈り」の一節です。不正な管理人と呼ばれるこの人がしたのは、まさにこのことです。譬話で言われている「主人」は言うまでもなく神さまのことです。神さまに、あなたの会計の報告を出しなさいと言われる前に、人生の優先順位を考えなおさねばと思わされます。

 (2015年9月20日礼拝説教)