番町教会説教通信(全文)
2015年5拝説教 「命を与える霊」      牧師 横野朝彦

エゼキエル37・1―10

本日は聖霊降臨日です。ペンテコステとも言います。ペンテコステとは50を意味しています。過ぎ越しの祭から50日たった五旬祭という日に、弟子たちが集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が別れ別れに現れ、一人ひとりの上にとどまった。それが使徒言行録2章に記録されている聖霊降臨の出来事です。聖霊を受けた弟子たちはこのあと、いろいろな言葉で、神の偉大なわざを語り始めました。

まことに不思議な出来事です。使徒言行録によれば、人々は驚き怪しんだとのことです。これを目撃した人たちにとっても理解しがたいことであったようですから、今日のわたしたちにとって大変分かりにくいことであるのは間違いありません。

しかし、ここに一つだけ確かなことがあります。それは主イエスが逮捕されたときに逃げ出した弟子たち、主イエスが復活されたと聞いてもすぐに信じられなかった弟子たちが、主イエス・キリストの福音を証しする者になったということです。これまで疑い深く、臆病だった人たちが、力強くキリストの復活の証人として働くようになった。言い換えれば、弟子たちは聖霊を受けて、新しい命を得たかのように、生き生きと活動を始めたということです。

聖霊について説明することは難しいことです。しかし聖書が語る霊は、わたしたちに命を与える。そのように言うことができます。そこで今日は説教題を「命を与える霊」といたしました。

聖霊、それはわたしたちに命を与える神の働きです。古来聖霊は風として表現されてきました。聖書の原語で霊を意味する言葉は、風とか息と訳すことができます。むしろそれらを総合した考え方です。創世記1章の天地創造の場面で、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。天地創造のはじめ、神の霊、神の風、神の息が吹いていたというのです。「聖霊とは神の創造の息吹である」という言い方を聞いたことがあります。まさにそのとおりだと思います。

以上のように、旧約聖書の昔から、神さまの息吹である霊が吹くところ、わたしたちに命が与えられると語られてきたのでありますが、そのことは、新約聖書においても当然のことながら受け継がれています。ヨハネによる福音書3章に、主イエスがユダヤの議員であったニコデモに語った言葉が記されています。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。・・・風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」人の力によるのではなく、人の思いによるのではなく、ただ神さまが働きかけてくださることによって、わたしたちは新しくされるのだと、主イエスはニコデモを諭しておられます。

そのほか、聖霊について語っている箇所をいくつか読んでみましょう。マタイによる福音書3章によれば、主イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」と記されています。このときから、主イエスはこれまでの生活を捨て、神の国の福音を告げる生涯、一般に公生涯、公の生涯と呼ばれる生き方への歩みを始められます。

パウロはローマの信徒への手紙8章で聖霊について述べています。8章12節には、「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と書かれています。

このように、聖霊は神ざまの創造の力として、わたしたちに与えられ、働きかけがなされています。そしてこのことをいくぶんドラマティックに描き出しているのが、今日読んでいただいたエゼキエルの幻です。今日は旧約聖書エゼキエル書から37章1ー10節を読んでいただきました。

預言者エゼキエルは、紀元前6世紀、バビロン捕囚期の預言者です。大帝国バビロニアの侵略を受けて、南王国ユダは滅び、人々は遠く異国の地バビロンに連れて行かれます。その時期の預言者です。このエゼキエルに幻が与えられます。彼は37章1節にあるように、霊に導かれて連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされます。

そこにはおびたたしいばかりの数の骨があります。しかもそれらの骨は枯れているというのです。なんだかとても気味の悪い、恐ろしい状態です。このことをわたしたちは気味悪く、またそれを幻として考えます。でも、本当にそうだろうかと思うのです。国破れ、異国に連れてこられたエゼキエルにとっては、このおびただしいばかりの枯れた骨は、自分たちの現状そのままではなかったでしょうか。決して誇張でもなんでもない、自分たちの姿であったと思われます。

森山良子さんたちが歌った「さとうきび畑」という歌を思い起こします。「ざわわ ざわわ ざわわ」と歌われる長い曲です。「むかし 海の向こうから いくさが やってきた。あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった。夏の ひざしの中で」と歌われるあの歌は、沖縄での地上戦で死んでいった人たちへの鎮魂歌です。あの歌で、さとうきび畑には、命を失った人たちの骨が散乱をしていた、かつての姿が暗示されています。そして「ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り過ぎるだけ」と歌われます。

エゼキエルが見た幻は、とても不思議で、気味悪くさえ感じるかもしれないけれども、エゼキエルにとってみれば、そしてその時代を生き、この人間の歴史を見てきたものにしてみれば、まさに現実そのものを描いていると思えたのではないでしょうか。

故国ユダを離れ、遠く異国に連れてこられたバビロン捕囚、それがどんなにつらいものであったかは、今更言うまでもないことです。「バビロンの流れのはとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」という、有名な詩編137の詩にも表されているように、彼らは川の流れのほとりに涙したのです。

バビロンの流れのほとりで涙し、そして今日の箇所では谷間となっている。それは強制的にバビロンに連れてこられた人々の生活の場の劣悪さをあらわしているように、わたしには思えます。そのような厳しい状況のなかで、いくら励まされてももはや生きることが出来ない、そしてついに彼らはまさに骨のように、しかも枯れた骨のようになってしまった。枯れた骨、もはや生きかえることなど到底不可能な、希望などこれっぼちもない、まったく絶望の状態です。もうどうにもならないのです。

ところが、神さまはここで驚くべきことをされます。それはこれらの骨に神さまの霊を授けられることでした。37章5節、「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」もはや絶望と思えた人々の群れに、神さまは聖霊を送ってくださり、それによって彼らは生きかえるというのです。

7節途中から、「わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てで、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。「枯れた骨の復活」の幻。この幻はエゼキエル37章に突然に出てくる話なのではありません。エゼキエルはそれよりも前に、このことを予告するかのように預言をしています。

エゼキエル書のなかで、わたしがとても大事にしている箇所、とても大事に思っている言葉があります。それは18章31節以下です。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」

今お読みした、「立ち帰って生きよ」は、口語訳聖書で「翻って生きよ」となっていました。わたしは誰の死をも喜ばない、さあだから、翻って生きよと、このように呼びかけを与え、励ましを与えてくれています。とても力強い励ましの言葉です。そしてこの励ましに確かな約束が加えられる。それが、霊が与えられるという約束です。

36章25−27節に書かれています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

この箇所は、わたしたちの信仰にとってとても大事なところです。25節では、水によって清めとあり、26節では新しい霊を置くとあります。わたしたちキリスト者が水と霊によって新しくされるということが、旧約聖書のこのところで、すでに明らかにされているのです。水については、話から広がりすぎますので、ここでは霊について申します。エゼキエルは人々に繰り返し、繰り返し、新しく生きることを勧め、あなたがたが死ぬことを望んではいない、翻って生きよと勧め、さらに、あなたたちに神さまは新たしい霊を授けるだろうと約束の預言を与えるのです。

またこの約束は、11章にも出てきますので、読んでおきたいと思います。11章19節、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」36章とほとんど同じ言葉です。このように、神さまは枯れた骨の状態にある人々に向かって、繰り返して、「翻って生きよ」、わたしはあなたがたに「新しい霊を授ける」と、約束が与えられるのです。

その約束にもとづき、枯れた骨の上に風が吹き、骨が組み合わされていきます。骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆ったのでした。でもまだこの体のなかには霊がありません。そこで主なる神はエゼキエルに言われます。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」

言いましたように、枯れた骨というのは、幻というよりは、エゼキエルが生きた時代の現実そのままでした。しかし彼は預言者として、神さまの声を聴きます。それは「翻って生きよ」という呼びかけであり、また「新しい霊を与える」という約束でした。

主イエスの弟子たちに聖霊が与えられたことは、エゼキエルに与えられた幻が弟子たちに対しても与えられたということです。主イエスの十字架のあと、意気消沈をして、もはや生きていないかのようでした。主が復活されたという知らせを聞いても、それでも信じることができず、家のなかに閉じこもり、そればかりか家には中から鍵をかけていたと、福音書は書き記しています。そのような彼らに復活の主は姿をあらわしてくださいます。

そして五旬節の日、彼らが集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのでした。この不思議な出来事を体験した弟子たちは、もはやこれまでのような生き方を変えられ、進んで奉仕者また証人としての道を歩み始めたのでした。

パウロはローマ8章で、現在わたしたちが受けている苦しみはとても大きいものであると述べ、そのうえで、次のように言います。ローマ8章26節です。「“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる。」さらにこの直前15節では、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と書かれています。アッバというのは、アラム語で、幼い子がお父さんを呼ぶときの言葉です。絶対的な信頼をもって神さまを呼びかけることです。このように絶対的な信頼を持つことができるのも、呼びかけができるのも、すべて聖霊がわたしたちに与えられているからだと、パウロは述べています。これはまた第一コリント12章で、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えない」と書かれていることともつながります。

使徒言行録は、弟子たちの活動の記録でありますが、古くからこれは、聖霊行伝とも呼ばれてきました。弟子たちの活動の記録なのではなく、聖霊がいかに働いたかの記録なのです。そのことを思えば、わたしたちの教会、現在のわたしたちの教会の、来年は創立130年でありますが、130年史を書こうとすれば、それもまた130年間にわたる信徒や牧師たちの活動の記録なのではなく、聖霊の活動の記録というべきものになるのだと思います。

わたしたちの教会は、現在会堂建築について具体化を進めています。先週の各会例会で、そして今日もチャペルコンサート前の短い時間でありますが、協議のときを持って、建築基本構想について話し合いたいと考えています。また来週もその時間を持ちたいと考えています。基本構想については、建築委員長、副委員長、牧師とでたたき台となる案をまとめてまいりました。

その文案が最終的なものになるかどうかは、皆さんの話し合いの結果によりますけれど、文案は次のような言葉で始まっています。「入り口や前庭に間口の広いホールを設け、礼拝に向かう備えと、礼拝後の交わりの場とする。前庭から礼拝堂まで命の息づく空間とする。」この言葉を、どう具体化するか、どう具体化できるかはわかりません。実際にそのようにできるかどうかは現時点で不明ですが、できることならばそうありたいという願いを言葉に表現しました。

そして、ここで「命の息づく空間」という言葉を用いたときに、頭にあったのは、聖霊の息吹ということでした。一つの部屋を作るにしても、それが重苦しいものになるか、あるいは心落ち着いて、いつまでもいたい部屋になるか、ぜひ、命息づくということを感じられるような場にしたいと願うものです。

それはもちろん、設計だけの問題ではありません。なによりもわたしたちが聖霊を祈り求めることなのでしょう。心の面でも、実際の面でも、密閉された窮屈な場所では風が通ることはありません。皆が心の扉を開いて、聖霊の風が入って来るような、そんな教会形成をしていきたいと願うものです。

もう一度エゼキエル書に話を戻します。エゼキエル書というのは、バビロン捕囚期の苦しみを描き、人々の罪を告発します。人々は、自分たちの歯が痛いのは、先祖がすっぱいものを食べたからだなどと言っています。それに対しエゼキエルは、彼らの罪を告発したうえで、翻って生きよ、神さまはあなたがたに聖霊を与え、あなたがたは生き返ると告げます。

そしてエゼキエル書の最大とも言える特徴は、40章以下で、新しい神殿の幻が描かれていることです。エゼキエルは、主の手に導かれて高い山の上に連れていかれます。37章が谷間であったことと、まったく対照的に、非常に高い山に連れていかれ、そこに建設された建物を見たのです。測り縄や、測り竿を持った人が彼を導き、建物を測っていきます。それはバビロン捕囚の時に破壊された神殿に代わる、新しい神殿建設の幻でした。エゼキエル書の最後の章、最後の節にあたる48章35節にこう書かれています。「この都の名は、その日から、『主がそこにおられる』と呼ばれる。」

わたしたちの教会は、新しい会堂建設に向けて祈りと労力を結集していかなければなりません。けれども、それはやはりわたしたち人間の力によるのではないでしょう。そうではなく、神さまの風、聖霊が吹き来るように祈ること、わたしたちはその約束を信じて、翻って生きていくことだと思います。そしてそのようにして、そこは「主がそこにおられる」と呼ばれるところとなります。

(2015年 5月24 日 礼拝説教)