番町教会説教通信(全文)
2015年4拝説教 「生きておられる」      牧師 横野朝彦

ルカ24・1−12

主のご復活をお慶び申し上げます。今日はイースター。主の甦りの朝です。ご一緒に復活日の礼拝をささげることができ、嬉しく思います。

仙台市民教会の牧師で、東北ヘルプの事務局長をしておられる川上直哉という牧師がおられます。東北ヘルプというのは、キリスト教会の教派を超えた、つまり教団とかなんとかという教派ではなく、異なった教派の教会やそこに属する人々が、ともに手を結びながら震災被災支援をしておられる働きです。これまでにも何冊かの本を出しておられますが、最近では「被ばく地フクシマに立って」という本を書かれました。

川上さんは、あの震災からまだ1か月というときに、仙台の教会でおこなわれた追悼の集いで話をすることになりました。そのとき石巻出身の一人の学生から便りをもらいました。「先生、お願いがあります。わたしたちのことをできるだけたくさん話すようにしてください。石巻に住んでいる人たちは、自分たちは程なく忘れられる、そういうふうに恐怖しています。」

わずか1か月の段階で、この学生はこのように感じていたのでした。川上さんはこの手紙を受け取ったあと、努めて出て行って話をするように心がけてきたということです。はっきり言って、震災とその被害は、思い出したくもない出来事でしょう。けれどもこれを風化させてはなりません。語り続けることの大切さを思わされます。

キリスト教にとってとても重要な言葉のひとつに、想起という言葉があります。想起、想い起すです。マルコ13章に、ベタニアの村で起こったひとつの出来事が書かれています。それはひとりの女性が主イエスの頭にナルドの香油を注ぎかけたという出来事でした。メシア、救い主という言葉は、頭に油を注ぐという単語から来ています。つまり、この女性がしたことは、このかたこそ救い主であるという告白でした。

この出来事を見た人たちは驚き、ある人たちは高価な香油を無駄遣いしたと言って彼女を責めるのです。ところが主イエスは言われます。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」この、「記念して」とあるのが、もともと想起と訳すべき単語です。

聖餐式のたびごとにお読みしている、聖餐式の制定の言葉、第一コリント13章には、24節、26節の2回、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と述べられています。この記念という言葉も同じです。ただ記念するというよりは、想起する、想い起すということです。そしてこのことは、新約聖書の世界だけではなく、旧約においても、エジプトを脱出するさいにおこった過ぎ越しの出来事に関して、出エジプト12章14節には、「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる」と記されています。想起することは、聖書においてきわめて重要な言葉なのです。

想起する。それはただ単に過去を振り返ることではありません。昔こんなことがあったと、遠い昔話を回想することや、あのころは良かったと、今と切り離して過去を思い出すことではありません。そうではなく、想起するとは、過去の出来事を今、このときのこととして受け止めること、そして今この自分に起こっている出来事として、自分の今の生き方になっていくことです。

先ごろ亡くなられた、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領は、想起することの大切さを訴えられました。ドイツ降伏40年の日、ヴァイツゼッカー大統領は議会でおこなった「荒れ野の40年」と題する有名な演説のなかで、「過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります」と述べました。またこの演説で、「重い起こすとは、ひとつの出来事を正直に、混じり気なしに思い起こし、その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにすることであります」、そしてまた、「思い起こすことなくして和解は起こりえない」と述べています。

過去のことではなく、現在のわたしたちの内面の一部となるように、とヴァイツゼッカーは述べました。これらはきわめて信仰的発言でありました。聖書が語る想起ということの意味がここに表されているからです。わたしたち日本人は、水に流すという言葉で表現されるように、過去のことをなかったかのようにしてしまうことがあります。あるいは、たんに回想するだけにとどまることが多いようです。そうではなく、想起する、想い起すことは、今の生き方、そしてこれからの生き方につながるのです。

そしてそもそも、キリスト教の礼拝はイエスの出来事を想起することにあります。イエスの出来事を神のみわざとして想い起し、それを今の自分の出来事として受け止めること。今のこの自分に神のみわざが与えられていると受け止めるために、わたしたちは礼拝に集い、「記念として宣べ伝え」、「記念としてこのように」おこなうのです。

さて、今日は主のご復活の日、主が甦られたことを記念する日です。そしてそれは、2000年前にイエスさまは甦られましたと、過去を回想することではありません。パウロはローマの信徒への手紙6章4節で、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる」と述べています。それは過去ではなく、いわば現在化することであり、今のわたしの出来事とすることです。わたしたちはそのために、今日のこの礼拝に集い、御言葉に親しみ、主を賛美します。

さて、今日読んでいただいた聖書の箇所をみてまいりたいと思います。週の初めの日、つまり日曜日の朝、明け方早くに、マグダラのマリアをはじめとする幾人かの女性たちが、香料を持って墓に向かいます。土曜日は安息日ですから、一切の労働は禁じられ、長く歩くことさえ許されていませんでした。そのため彼女たちは安息日をじっと過ごし、夜が明けてすぐに、まだ明け方暗いうちに墓へ出かけたのです。主イエスの顔を見たい、少しでも傍にいたいといった心からの気持ちとともに、おそらく死者を葬る当時の習慣なのでしょう、主の体に香料を塗り、丁寧な埋葬をしようとしたのでした。

主イエスの体が納められたのは、洞窟のようなところで、大きな石が扉のように置かれていました。ところが、彼女たちが墓に着いてみると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかったのです。彼女たちは途方に暮れてしまいます。いったい誰が主イエスの体を動かしたのだろう、どこへ持っていったのだろう、誰かが盗んだのだろうか、途方に暮れたというよりは、呆然としてしまったに違いありません。

ここへやってきたのは、ルカの報告によれば、マグダラのマリアのほか、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして主イエスと一緒にいた他の女性たちであったということです。他の女性たちというのが何人くらいなのか、少なくとも2人、3人はいたことでしょうから、総勢5人、6人、あるいはそれ以上の人たちが、主イエスの傍に少しでもいたい、主の体に香料をお塗りしようと、墓にやってきたのです。

これまで主イエスの弟子として中心的な役割を果たしてきたはずの、男の弟子たちが、本来ならば墓に駆けつけてもよさそうなものなのに、彼らは姿をあらわすことがありません。それに対して、彼女たちはしなければならないことをわきまえているように見えます。この大変な時に、彼女たちは香料を買い求め、死者を葬る習慣をきちんと果たそうとしています。男たちにできなかったことを彼女たちはしています。

ところがいざ墓へ来てみると、なにやら様子が違います。2節にあるように、墓をふさいでいた石がわきに転がしてあったのです。このあたり福音書によって描写は異なり、マタイによる福音書は彼女たちが墓に到着したときに地震がおこったように描かれています。実際にどのようであったかはわかりません。いずれにせよ、彼女たちが思ってもみなかったことに、墓は開かれていたのでした。

中に入ってみると、主イエスの体は見当たりません。彼女たちは途方に暮れてしまいます。するとそのとき、輝く衣を着た二人の人がそばに現れます。このことについても福音書によって報告内容が異なっています。マタイでは天使となっており、マルコでは若者となっています。ルカでは二人の人でした。

創世記を読むと、神の使いが二人でやってくるといった場面がありますし、また旧約聖書によれば、裁判の証人は最低二人の証言が必要なのです。ここでわざわざ天の使いを二人描いているのは、その証言の確かさを言っているのかもしれません。

輝く衣を着た二人の御使いは告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」これは驚くべき知らせです。死んだイエスを懐かしみ、慕って、その体に香油を塗ろうとやってきた女性たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と問うています。主イエス・キリストは「生きておられる方」だと言うのです。

そしてこのことが、かねてから言われていたことだと教えられます。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」二人の人たちはこのように言い、主が復活されることは予告されていたではないか、主が前もって語っておられたではないかと告げたのでした。そこで彼女たちはそのことを思いだした。主イエスの言葉を思い出したと、8節に記されているところです。

すでにお話をしたように、福音書によって書かれていることが少しずつ違います。墓石がすでに転がしてあったのか、あるいは彼女たちが到着してから転がったのか、現れたのが天使であったのか、若者であったのか、またそれが二人であったのか。こういった違いというのは、福音書の書かれたのが主イエスの生きられた時代からすでに何十年か経っているということが大きな理由にあげられます。実際に目撃をした人の記憶、それをどう伝えたのか、それを聞いた人がどう受け止めたのか。複数の言い伝えが生まれてきます。それらはどちらかといえば小さなことです。どれが事実であったかなど詮索する必要もありません。

それに対して、福音書記者が意図的に言葉を書き換えることによって生じた違いというのがあります。これは福音書記者が、読者に伝えたいメッセージがあってのことです。わたしが言いたいのは、6−7節の記述です。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

これは、マルコなどの記述とは異なっています。福音書記者ルカは、マルコによる福音書をすでに知っています。にもかかわらず、ルカはこの部分をマルコとは違うように描いています。

どう違うのか。マルコではこう書かれています。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたよりも先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」

このマルコの記述は、それはまた大事なメッセージをわたしたちに伝えてくれていると思います。でも、それはそれで大事として、ルカはなぜこの言葉を書き換えたのでしょうか。それは、ルカが読者に対して、つまりわたしたちに対して、何かを訴えたかったからです。それはなんでしょうか。

わたしは、今日の個所の6−7節のどの言葉も大事だと思いますが、そのなかでも、あえてひとつ選ぶならば、「ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」という言葉だと思います。ガリラヤで主イエスが語られたことを思い出しなさい。ガリラヤで主が語られたことを想起しなさいと言っているのです。

主イエス・キリストがガリラヤにおられたころお話になったこと。そしてなさったこと。まず山上の説教において主は教えられました。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」主イエスはまた、譬話によって、天の国はこのようなものだと多く語られました。誰にも雇ってもらえなかった人が5時から雇われ、ほんの僅かしか働かなかったのに一日の給与が与えられた人の話、失われた一匹の羊が捜し求められた話、放蕩にあけくれていた息子が帰ってきたときに父親が「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜びの声をあげた話。あるいは世間から捨てられ、村八分にされていた人、汚れているとされていた人に向かって主が「あなたの信仰があなたを救った」と、救いの宣言をされた出来事。これらの言葉や出来事は、主が悩める者の重荷を共に担われ、新しい命に生きるようにしてくださったことを証ししています。

いや、これらの教えだけではありません。語られたことだけではなく、そのなさったこと、病める人を癒し、罪人とされる人と共に歩まれた、その歩みを想起しなさいと、ここで御使いは語っています。そして御使いの言葉を受けて、8節によれば、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」のでした。思いだした。それは、過去を思い出したのではなく、彼女たちを生き返らせるほどの体験を与えたのだと思います。そして彼女たちはすぐさま、墓から帰り、主の復活を他の弟子たち告げたのでした。

主イエスのことを想起した彼女たちは、もはや墓にとどまることをしないで、主イエスの福音を宣べ伝える者となりました。このようにして彼女たちは新しく生きる者となりました。もっとも、彼女たちの話を聞いたほかの弟子たちは、彼女たちの言葉をすぐには信じられません。

そこで次に書かれているのがエマオ途上の出来事です。有名な話で皆さんはすでにご存じのとおりです。エマオに向かう二人の弟子と共に歩いてくださったかた、すなわち復活の主イエスは、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のでした。そして二人の弟子は、このときのことを、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったのです。

この記述は、今日読んでいただいた箇所のメッセージと、はっきりと共通しています。同じメッセージがここにあります。マリアたちに現れた御使いは、「ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と言いました。エマオ途上で復活の主は、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。またこのとき、復活の主がパンを裂いて、分け与えられたことは、十字架にかけられる前の日の夜の食事風景、つまり最後の晩餐を想起させるものでした。

主イエスの出来事を想起すること。そのためにわたしたちは教会に集まっています。そしてわたしたちは心内に燃やされ、心新たにされていきます。それは主が甦られたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。

(2015年 4月 5 日 復活日礼拝説教)