番町教会説教通信(全文)
2015年3拝説教 「お前の魂は」      牧師 横野朝彦

ルカ12・13―21

今日はルカによる福音書12章13節以下を読んでいただき、説教題は「お前の魂は」といたしました。

週刊誌か何かの広告だったと思いますが、相続は争続になると書かれていました。そういう事例が多いことを見聞きしており、面白い言葉の表現だと思いました。相続は、遺産相続の相続、相続は争続になる、あとのほうの争続は、争うと続く、調べてみると、後のぞくのほうは家族や一族の族を使う言い方もあるようです。親などが残した遺産をどう分配するかによって、争いが続く、あるいは争いの一族になってしまう。なんとも悲しいことでありますが、現実には少なからず起こっています。

遺産が沢山あるからというより、その多い少ないにかかわらず、何かしら揉め事があります。そして仲の良かった兄弟が話もしなくなった、親戚づきあいもなくなったという話は、残念ながら、色々と耳にします。もちろんそれぞれに言い分はあるでしょう。でも、お金をどう分けるかで、兄弟が分かれていく、口もきかなくなる、そのことのほうがとても悲しいことです。今日読んでいただいた聖書の個所は、そのような争いのいっぽうの当事者が、主イエスに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と頼み込む話です。主イエスは聖書の先生、巡回説教者として受け止められていました。聖書の先生にこんな話を持ち込むなんてとんでもないと思われるかもしれません。でも実のところそうではありません。ユダヤ教において聖書の言葉は律法です。日常生活においておこるさまざまな出来事を、律法に照らして善悪を判断し、もめごとの解決をはかるのもラビ、聖書の教師たちの仕事でした。ですから、主イエスにこのような問題を持ち込んだ人は、それ自体おかしなことをしたわけではありません。

けれども現実には、この質問はまさしく争いが続く、あるいは争う一族の争いに、主イエスを巻き込むことでした。主イエスの仕事は、このような争いのいっぽうの側に立つことではありません。もしここでなんらかの役割を果たさなければならないとすれば、和解のため、仲直りのための働きであったはずです。主イエスは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と問い返されます。そしてひとつの譬を語られたのでした。

それは一人の金持ちの話でした。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

この人は豊作によって金持ちになったのではなく、もともと金持ちだったようです。もともと金持ちで、しかも豊作だと言います。当時の社会の経済の形態を考えると、この人は大地主で、彼自身は額に汗してということをしていなかったと思われます。聖書にぶどう園の労働者の話がありますが、この人も小作人を使う側の人でした。そんな彼の畑が豊作で、作物をしまうところさえありません。そこで彼は大きな倉を建てることにします。そして、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と一人満悦の状態です。

この箇所で、「ひと休みして」とありますが、従来の口語訳では、「さあ安心せよ」と訳されています。原文の意味は、休息するということで、新共同訳のほうが正確のようなのですが、「さあ安心せよ」という訳も捨てがたいものがあります。これだけお金をためた。倉にはこれだけの財産が入っている、もう安心だ、そういう人間の心情というのは、よくわかりますし、誰だって、そんなふうに思ってみたいものでしょう。

ところが、このとき神さまは言われるのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」 厳しい言葉です。いや、厳しいというだけではなく、冷たい裁きの言葉です。読みようによれば、脅かされているような、また何かの刑罰がくだされているような思いがいたしまして、少々恐ろしい思いがいたします。命が取り上げられる。文字通りに、地上での命が終わるのだと、命の終わりが突きつけられています。

このように言われた主イエスの言葉をどう受け止めればよいのでしょうか。まったくそのままに受け止めるのも正しい読み方だと思います。人の命はいつ終わるのか、わたしたちには誰にもわかりません。たとえ今は健康で、そして財産も豊かで、それこそ倉を建て替えなければいけないと思うようなことであっても、人の命は人の計画するところではありません。それこそ今夜命が取り去られるという恐ろしい事態にならないとは、誰にも言うことができません。

でもどうでしょうか。人によっては、この言葉を警告としてではなく、自分の都合の良いように受け取ることでしょう。人間いつ死ぬかわからないのだ、だからこの世の富を思う存分積んで、好き勝手に生きればよいのだ、と。人によれば、主イエスの言葉は刹那的に生きることの口実になってしまうこともあるでしょう。言うまでもなく、主イエスはそのような意味で言われたのではありません。

わたしたちの命は確かに神さまの御手のうちにあります。神さまのもとにいつ帰ることになるのか、わたしたちにはわかりません。けれどもそれは恐れではなく、むしろ神の御手にあることの平安だと思います。今日読んでいただいた箇所の前と後ろに、そのことが出てきます。

前のほう、それは4―7節です。今は6―7節を読みます。「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 

「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。」これは要するに、市場に行って御覧なさい、雀が安い値段で売られているではないか、5羽の雀がたったの200円くらいではないか、でもその値段の安い雀の1羽さえ、神さまが忘れられることはない。神さまの守りのうちにあるのだということです。マタイ10章にこの個所の並行記事があり、そこでは、「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と言われています。ここで言われていることは、1羽の雀さえ神さまの御手のうちにあるのだ、ならばあなたがたはなおさらではないか、ということなのです。「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

今日の個所の前と後ろと言いました。後ろにはなにが書かれているでしょうか。すぐあとの22節以下、そこにはマタイ6章にある山上の説教の有名な言葉と同じ教えが出てきます。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。」

このように、私たちが神さまのお守りのうちにあること、御手のうちにあることが今日読んでいただいた箇所の前と後ろの両方に出てくるのです。神さまは1羽の雀さえ守ってくださる、あなたがたはなおさらのことだ、神さまは1羽の烏さえ養ってくださる、ましてあなたがたはなおさらのことだ、神さまは明日は炉に投げ込まれる草でさえ、このように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。こう教えられ、それらの言葉に挟まれて今日の個所があります。

ということは、今日の個所で教えられているところも、「今晩、お前の命は取り上げられる」という恐ろしい言葉に強調点があるのではないことがわかります。神さまの守りの御手のうちにあるにもかかわらず、なぜあなたはそんなに思い悩んでいるのだ。どうして兄弟が争って、争いつづけているのか、争いの一族になっているのか。

一羽の雀さえ、神さまの守りのうちあるではないか。納屋も倉も持っていない烏さえも、神さまの養いのもとにあるではないか。明日は炉に投げ入れられる野の花さえも神さまは装ってくださっているではないか。それならばどうして穀物がたくさん取れたからといって、どこにしまっておこうかなど、何を思い煩っているのだ。今日の個所はこのように前後の関係で読み、わたしたちの思い煩いをすべて神さまにゆだねるべきことが教えられています。

そこでもう一度、「お前の命は」ということに話を戻します。お話をしてきたように、わたしたちの命はいつ御許に帰ることになるのか、わたしたちにはわかりません。かといってこの言葉は脅かしではなく、むしろ神さまの御手のうちにあることを思い起こさせるものでした。ここに出てくる「命」という言葉でありますが、これをこの地上における、体、肉体としての命だけに考えるのは不十分です。ここで「お前の命は」と言われているこの「命」は、聖書の原語であるギリシア語でプシュケーと言います。

プシュケーは命と訳されるとともに、魂とも訳されます。命と魂は別々のものではなく、魂を含んだ命、命を含んだ魂、両者は切り離すことのできないひとつのものです。したがって、「今晩、お前の命は取り去られる」は、「今晩、お前の魂は取り去られる」と読むことができます。事実、かつて用いていた口語訳聖書では、「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」と訳されています。ほかにも、岩波版の聖書を見ると、「今晩、お前の魂はお前から取り上げられる」と訳されています。

今日の説教題である「お前の魂は」という言葉も、ここからとらせていただきました。そこでこの個所を、魂という観点から見るならば、もうひとつ別の読み方、考え方をすることができます。今日の話はお金の分配をめぐる問題でした。単純に言えば、お金の分配をめぐって魂が失われた状態、そういう話としてこれを読むこともできるでしょう。相続が争いの続となった人の心のなかは、「お前の魂は今晩取り去られる」のではなくて、「お前の魂はすでに今この時点で取り去られている」状態なのかもしれません。

WHO、世界保健機関の健康の定義は、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることです。1998年にWHOの理事会は、この定義を次のように変更することを提案しました。それは、肉体的、精神的、霊的、そして社会的というもので、定義に「霊的」という文言が加えられたのでした。ところがなぜか理事会が提案したにもかかわらず、緊急性が低いという理由で総会での採択が先送りになっています。このあたりの事情はわかりません。

いずれにせよ、わたしが言いたいのは、今日の聖書に出てくるこの人が、肉体的に、あるいは社会的にきわめて健康であったとしても、争いのゾクとなっているなかで、精神的、霊的にはまさに不健康に置かれていたのではないかということです。

昨日、日本キリスト教奉仕団の板橋福祉工場の創立40周年と、新工場竣工式がありました。わたしも招かれて出席をしました。福祉や行政の関係者がたくさん出席するなかで、島田恒さんという経営学者が講演をされました。島田さんは、非営利団体にかかわることが人を豊かにさせるという観点から、「働き盛りのNPO」という本を先月出版しておられます。

講演のなかで、この本のなかにも書かれていることですが、社会の機能を経済、政治、文化、共同という4つにわけることができると述べられました。共同とは、共にということです。人間の人格的つながりをさしています。この4つがバランスを保っていくのが健全な社会といえる。にもかかわらず、この国においては経済が大きくなりすぎ、合理や効率の原則が優先され、他の分野を押しつぶしている。それがこの国の社会の歪みであると指摘されました。

そのため、政治や文化や共同が経済に対して小さくなり、そればかりかそこにまで、合理や効率の原則が浸食をしているというのです。これはわかりやすい説明だと思います。そしてわたしたちが、非営利の働きにかかわることによって、文化や共同の分野を自分のなかで、そして社会のなかで広げていくことの大切さということを思わされました。

島田さんは、キリスト教海外医療協力会やYMCA、クリスチャン・アカデミー、さらに古くから淀川キリスト教病院などにかかわってこられました。「働き盛りのNPO」のあとがきに書かれていました。「合理・効率原則から決算すれば大赤字であったことは間違いない。何故なら、わたしは無償で時間や能力を提供してきたからである。モノによる報酬は皆無である。しかしひるがえって、人生の真の豊かさという決算からすれば大黒字ということになる。自分の真に豊かな生きざまを発見し、そこに居場所をもつことができたからである。そればかりか、視野が広がり・・そこで信頼関係を作り出せた人脈は・・わたしの人生の財産となっている。」

ここで言われていることはまったく同感です。わたしも同じような体験をしてきたからです。そして教会というところも、教会はいわゆるNPOではありませんけれど、けれどNPOのNはノン、Pはプロフィット、利益ということです。つまりノンプロフィット、利益を求めない団体という意味で教会もNPOに入ることになります。

教会にかかわることで、労力も、経済的にも、いろいろな面で、ささげること、仕えて生きることが勧められ、求められます。それらは合理・効率の面から言えば大赤字であるに違いありません。けれどもそのことをとおして、わたしたちは文化や共同ということを自分のなかに広げていく、精神を、魂を取り戻していく、そして人生を真に豊かにしていくのです。

それはまさに、今日の聖書の個所の21節で言われていること、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という言葉につながります。わたしたちは、地上に富を積む生き方ではなく、天に宝を積む生き方を教えられています。今日の箇所のすぐあと、先程も引用した「思い悩むな」という教えのなかでも、主イエスは、「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。」と語ってくださっています。この世に倉を建てるのではなく、天に宝をたくわえなさいと教えられているのです。

わたしたちはいったいどのような生き方をしてきたのでしょうか。自分のために富を積むことに熱心であっても、神の前には愚かな生き方をしてきたのではないでしょうか。島田恒さんが言う「経済、政治、文化、共同」の4つのなかで、共同ということを、わたしたちキリスト者はただたんに人と人のつながりにとどまらず、神さまが共にいてくださるという意味での共同も含めて考えて良いように思います。神さまとのつながりという人生の軸をしっかり持つことで、わたしたちは他のものに押しつぶされない自分を得ていくからです。

神さまは一羽の雀をも守られています。「その一羽さえ、神が忘れられることはない」と教えられています。また空の鳥、野の花を養ってくださいます。穀物をしまう場所や、倉を建てる心配、争うゾクとなることはやめて、魂の豊かさを神さまからいただくものになりたいと願います。

(2015年 3月15 日 礼拝説教)