番町教会説教通信(全文)
2015年2月拝説教 「痛みがわかる人に」      牧師 横野朝彦

ルカ6・27―36

今日お読みいただいたのは、ルカによる福音書6章27―36節、今日の個所は、説教題は「痛みがわかる人に」といたしました。痛いと思う。痛みを感じる。当たり前すぎることです。けれども今のこの時代、どれだけ痛みを感じることが出来ているだろうかと、思わずにおられません。

ここで言う痛みを感じるとは、他者の痛みがまずあげられます。他の人の痛みを感じることなどできないのが本当のところです。しかしそのことを感じる想像力が今は大きく欠けているように思えてなりません。

例えば、病院に行って注射をしてもらう、今ではちょっとした検査で採血をすることもたびたびですから、注射など当たり前で、慣れてしまっているかもしれませんが、人によっては針を刺される前から身構えることもあることでしょう。それだけではありません。小さなお子さんを病院に連れて行って、お子さんの腕に注射針がさされるときに、自分までが「痛っ」と思うことがあるのではないでしょうか。自分の腕に針がさされるわけではないのに、自分がさされたように感じる。そういう感覚が人間には起こります。

極端な場合、他の人が痛んでいる同じ個所が症状として痛むということが症例としてあるようです。科学的には説明できないようなことが、現実にあると聞きます。そこまでいかなくても、誰かがちょっと怪我をしたときに、その傷を見せてもらうだけで体が震えるような思いをしてしまいます。

しかしながら、今の時代はこのような共感、共に痛むような感覚の共有が難しくなっているようです。

昔が良かったとは必ずしも思いませんが、昔は、子どもたちは遊びのなかで体中にいつも擦り傷などを作っていたように思います。今はそういったことが少なくなりました。体を使っての遊びも少なくなりました。それだけが原因ではないとしても、他の人に傷を負わせても、それがどれほど痛いのか、よくわかっていないのではと思えることがあります。

よく言われるように、ゲームの世界では簡単に敵を殺し、それでいて、リセットすれば簡単に生き返り、命が奪われる、また奪うということへの感覚が麻痺してしまっていると思えてなりません。傷つける、傷つくということにおいても、ゲーム機の画面と現実との境が曖昧になっているようです。

情報が氾濫しています。地球の裏側で起こった事件であっても、瞬時のうちに伝わってきます。凶悪事件はテレビの報道番組その他でくり返し放送されています。報道そのものが悪いとは思いませんけれど、それを見ているわたしたちのうちに、痛みへの感覚が麻痺することが起こっているのではないでしょうか。あまりにも事件が多くて、それらの一つひとつに体を震わせていては、とても耐えることができないのも事実です。

痛みがわかるというとき、その痛みは他者の痛みだけではありません。自分の痛みについても同じことを言うことができます。このように言うと、自分の痛みを自分でわかるのは当たり前ではないか。どうして自分の痛みがわからないのかと思われるかも知れません。でも実際には自分の痛みをわからない、認めないというケースがあります。

仕事の忙しさなどで体を酷使していながら、これくらいで弱っていてはだめだと、自分をさらに奮い立たせることがあります。あるいは、虐待を受けている子どもたちが、このようにされるのは自分が悪いからだと考えてしまうケースがあります。いろいろな人の悩みを聞いていると、自分の弱さや痛みを受け入れず、また認めようとしないでもがいておられると感じることが少なからずあります。

このように、痛みの共感が難しくなっているのかもしれない。でもこういう感覚というのは、失くしてはならないものです。震災のあと、多くの人たちが被災地でのボランティアに出かけました。東北までの距離やまた交通機関が奪われたために、現実に行くことができなかったとしても、なにかしら心動かされました。痛みの共感は、このようなときに他者を助けようとする動機、原動力ともなります。

善きサマリア人は、強盗に襲われた人に近寄って、傷を手当し、宿屋に連れて行き、必要な費用まで支払いました。それはこの人が強盗に襲われた人を見て、憐れに思ったからだと、ルカ10章に書かれています。この憐れに思ってという言葉は、前にも言いましたが、はらわたを震わせるという意味の言葉です。他者の痛みを共にするといった意味です。

強盗に襲われた人のそばを、祭司やレビ人が通りかかりましたが、道の向こう側を通り過ぎました。彼らがどうして通り過ぎたのか。かかわりになると面倒なことになると思ったのでしょうか。自分までが強盗の餌食になると思ったのでしょうか。あるいは祭司がそれこそ向こうの町で礼拝をするために急いでいたのでしょうか。他者の痛みを見ても何も感じなかったのか。あるいは、痛みの共感よりも、なにかほかの理由のほうが勝ってしまったようです。

心理学者の実験で、痛みの共感は相手に対する評価とかかわりがあるということがわかったという話があります。相手を公正な人間、正しい人間だと思えば痛みへの共感が起こるが、相手を不公正な人間、相手が正しくない人間だと思えば、痛みへの共感は少なくなるというのです。悪い人、嫌いな人が何か大きな傷を負ったとしても、一瞬可哀そうに思っても、あの人はそれぐらい傷を負っても当たり前だと心を合理化させてしまいます。

戦争の恐ろしさは、相手を敵と見なすことで、相手を傷つけてもそれを痛みと感じなくなることだと思います。最初は身が震えるような思いをしたのに、何人もの敵を殺害するうちに、それが当たり前にあって、何も感じなくなる。確かに、いちいちそんなことで感じていては戦争になりません。戦争をするということは、相手を傷つけたときに感じる痛みを捨て去ることです。痛みを痛みと思わなくなること、さらにいえば、人間性を捨て去ることだと言ってよいのではないでしょうか。

さて、今日は「敵を愛しなさい」と見出しがついた箇所を読んでいただきました。敵を愛するという、とても有名な主イエスの教えです。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」

このようなことは無理だ、と思えるほどに、主イエスの教えはある意味逆説的です。でもこれは本当に逆説なのでしょうか。本当にできないことなのでしょうか。起こっている出来事、自分にたいして向けられた鋭い言葉や行為に対して、わたし自身、主イエスの教えを実践できない、そのようには思えないと感じる心を捨てきれません。けれども、こんなことは初めから無理なのでしょうか。そうではないと思うのです。

わたしは、自分のこれまでの体験のなかで、他者に対して攻撃的な人、周りを困らせる人、強い態度で出る人というのは、多くの場合、内に弱さをいっぱい持っていて、それを隠そうとしていることに気づかされてきました。虎の威を借る狐という言葉があります。虎の威を借るのはちょっと滑稽な感がありますけれど、しかし実は自分でも気づかないでそのようにしてしまっているケースが少なからずあるのです。

他者に対して攻撃的な人、強い態度で出る人は、自分でも気づいていないのかもしれないけれど、本当は弱い人なのだと思います。そういったことを少しでも思えたなら、敵を愛することまでは難しくても、敵に対してまさしく敵対して反撃をすることにブレーキをかけることができます。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」この言葉は、確かに難しいことではあるけれども、やはり真実をついているとわたしは思うのです。

映画の大作「ベン・ハー」は、友人であったはずのメッサラによってハー家が没落させられ、自身は奴隷の身におとされたベン・ハーが、メッサラに対して復讐を誓い、それを実行していくという物語でありますが、あの映画の最後で、彼は十字架へと向かうイエスと出会い、救われていきます。またイエスの十字架の場面にあわせて、重い病にかかっていた彼の母と妹が癒されるという感動的な場面があります。戦車競走などのスペクタクルな場面とともに、映画の見せ場となっています。

映画のなかに出て来たか覚えていないのですが、原作の小説を読んでわたしが今も覚えている場面があります。それは、憎しみに燃えるベン・ハーに向かって、女奴隷であったエスターが、「あなたはあなたの憎んでいる相手と同じ人間になってしまっている」と指摘したことでした。相手が悪い、あいつが悪い、そう思う心は、いつしか怒りによって支配され、結局悪いはずの相手と同じような心になってしまっている。

あの映画で、ベン・ハーとその家族が最後にはイエスとの出会いによって救われていくのでありますが、それはつまり、敵を憎む心から解き放たれて、赦しや愛によって人は生きるのだということにほかなりません。

それからそもそも主イエスが言われたこの「敵」という言葉は、一般論としての敵対する人や、嫌いな人というのではなかったようです。ルカによる福音書の場合はかなり一般化されているようですが、マタイによる福音書5章の並行記事では、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」となっています。

「隣人を愛し、敵を憎め」、このような言葉は旧約聖書にも出てこないのですが、当時の人たちはこの言葉をよく耳にしていたようです。そしてここで言う隣人とは同じユダヤ教徒のことであり、敵とは異邦人、宗教を異にする人たちのことでした。そういう隔てを作って、あの人は愛しなさい、この人は憎みなさいと教えられていた。それに対して、主イエスはそうではないと、高らかに宣言をされたのでした。

昨日、あることが大きく話題になりました。今朝の新聞にも報道されていました。それは一人の著名な人が、新聞紙上に書いた記事です。労働力不足のために、介護の分野で外国人を受け入れる必要があるとしながらも、住むところは、白人、アジア人、黒人とわけたほうがよいという主張でした。居住区を分けると言い、それでいて労働力として用いるという発想に驚かされます。それでは、奴隷制と同じです。また、分ける側の論理がまかりとおり、分けられる側の痛みに気づかないとすれば、とても悲しいことです。

南アフリカのアパルトヘイトに対しては世界中が抗議をし、国は立ち行かなくなり、長い間獄中にいたマンデラが大統領となって「虹の国」、さまざまな色が共生する社会を作ることが目標となりました。南アフリカは今も格差や差別があって、虹の国が完成したわけではありません。けれどもそれではもとに戻してよいはずがありません。居住区をわけたほうがよいと、記事に書いた人も問題ですが、それを掲載した新聞社もけっして言い逃れはできないと思います。それにしても、このようなことが堂々と言われ、また掲載される。これも日本の今の時代の空気なのでしょうか。

31節には、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とあります。これも大事なことです。先日外国のかたが書かれたコラムを読んでいましたら、込み合った電車のなかで起こった、自分勝手なある出来事を紹介し、そのコラムの最後がこの言葉で締めくくられていました。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」これは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と並んで、黄金律とも呼ばれる大切な教えです。

旧約聖書続編にトビト書という文書があります。このなかに似た言葉がでてきます。トビト書4章15節に「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」とあります。されていやなことはするな、言われて嫌なことは言うな、まったくその通りです。こんなことはされたらいやだな、こんなことを言われたらいやだな。そう思う気持ちを他者にも当てはめる。これもまた痛みがわかるということでしょう。その感覚を失くしてはなりません。

そして主イエスは、このトビト書の言葉をさらに積極的にすすめて、「してもらいたいとおもうことを、あなた方も人にしなさい」と教えられたのでした。

土井敏邦という写真家であり、ジャーナリストであるかたがおられます。パレスチナ問題などを、写真で伝えてきた人です。世界各地の紛争地域をまわるジャーナリストしてはさきがけのような働きをしてきたかたです。土井さんは次のように言っておられます。「国際感覚とは、外国のことばや文化に精通することだけではないと思います。言葉も文化も肌の色も違う遠い国の人たちと、同じ人間としての痛みを感じる感性と想像力を持つことができるかどうか。それはこのグローバル化の時代に、なおさら日本人に求められていることだと思うのです。」 「だから私たちは現場へ行く。『あなたと同じ人間がこういう状況に置かれている。苦しんでいる。もしそれがあなただったら』と想像してもらう素材を人々の前に差し出すためです。」

ところで、今日の説教は「痛みがわかる人に」という題にしました。「敵を愛しなさい」という見出しがついたこの個所で、「痛みがわかる人に」という題をなぜつけたのかをお話ししておきます。

6章36節に、「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」と書かれています。これまでにも何度か引用をしてきましたが、大阪・釜ヶ崎におられるカトリックの本田哲郎神父は、福音書と使徒言行録の個人訳、またパウロ書簡の個人訳を出しておられます。本田神父の翻訳で今日の個所を見ると、6章36節が次のように訳されています。「あなたたちの父が人の痛みを分かる方であるように、あなたたちも人の痛みが分かる人になりなさい。」

新共同訳で「憐れみ深い」と訳されている単語が本田神父訳では「人の痛みが分かる」となっているのです。少々意訳なのかもしれません。けれどももとの単語をみると、その思いや感覚を共有するといったことを表しています。そのことを思えば、痛みが分かるというのは、意訳ではあっても、その内容をよく表現していると考えられます。

サマリア人は強盗に襲われて傷ついた人を見て憐れに思い、助けの手を伸べます。今日の個所の「憐れみ」は、サマリア人の譬に出てくる「憐れみ」と同じ単語ではないのですけれど、同じような意味あいで考えてよいようです。どうも日本語で憐れみというと、上から下に憐れみをかけるといったニュアンスが強くなります。でも、聖書が言い表しているところは、上から下ではなく、共にということです。

今日の個所の並行記事をマタイで見ると、36節の並行記事はマタイ5章48節です。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」わたしは、完全と言われてしまうと、とても自分からは遠く思えてしまいます。その意味で、ルカの教えのほうが自分に響いてくるようです。そしてこの響き、御言葉に響き、また他者と共に響くということがおこなわれるとき、今日の個所に出てくる一つひとつの教えが、わたしたちの日ごとの糧となるのではないでしょうか。人と人とを隔てず、してもらいたいと思うことを、人にもする。このことを行いとしてよりも、共に響く感覚として持ちたいと願います。

(2015年 2月15 日 礼拝説教)

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