番町教会説教通信(全文)
2015年10拝説教 「同舟」       牧師 横野朝彦

創世記7・1―16

今日の説教題を「同舟」としました。この言葉を聞いて、多くのかたが呉越同舟という四文字熟語を思い起こされたのではないでしょうか。紀元前600年のころ、中国は群雄割拠、まさに戦国時代でありましたが、そこに呉の国、越の国がありました。このふたつの国は長年にわたって宿敵でした。戦いをくりひろげ、憎しみあっていたのです。

ところがあるとき、この両国の人が同じ舟に乗って川を渡ります。そこに風が吹いてきて舟が転覆しそうになるのですが、そのときに憎しみ合っていた二つの国の人たちが互いに助け合ったのでした。この故事から生まれたのが呉越同舟です。

そのことから派生して、敵対するものが一緒の舟に乗るというときに使います。でも、敵対する者たちがたまたま同じ場所に居合わせても呉越同舟とは言いません。通常は敵対する者たちがいざというときに互いに助けあうことを言うのです。そしてまたこの言葉は、舟だけではなく一緒になにかをしなければならないといったときにも使います。人はそれぞれ違いを持ち、意見の違い、行動の違い、思想信条、さまざまな違いを持っているのですが、その違いを乗り越えて、助け合っていかなければ、嵐に飲み込まれることになるでしょう。

枝元なほみさんというかたが書いたエッセーを読みました。NHKの「きょうの料理」などで活躍をし、また生産者と消費者をつなぐ運動や、ホームレスの人たちの自立のための「ビッグイシュー」にもかかわっておられます。

エッセーのタイトルは、「地図も数字も苦手だけど料理は得意な私の思うこと」です。もともと劇団員として舞台に立ちながらレストランで働いていて、その後料理が専門となったようです。料理をなさっているのですから、当然料理は得意で、料理の段取りも上手にできます。でも彼女にはできないことがいっぱいあります。

枝元さんは次のように書いておられます。「私、東西南北がいつもわからなくなっちゃうんですね。あと、15年以上も芝居をやっていたのに、舞台の上手と下手がいまだに覚えられないし、数字がものすごく苦手で、エクセルも使えません。・・でも、人ってみんなそういうもので、一つの価値観で「いい」「ダメ」なんて簡単に言えるものじゃない。いろんな「やれること」と「やれないこと」のある人たちが、それぞれに合った持ち場で一緒にやっていく。それでいいんじゃないかなと思う。・・もちろん、いろんな人がいれば、中には「私はこの人の言っていることが理解できない」ということもあるかもしれない。でも、それはそれでいいと思うんです。・・たくさん言葉をかわすことが必要な場合もあるけど、一番大事なのは、「一緒にいる」「ともに生きていく」ことなんじゃないかと思うんですね。いろんな人がいていい。地図が読めなくて数字が苦手で、でも料理がすごく得意な、私みたいな人がいてもいい。みんなが同じ、単一の価値観で進んでいく社会ほど、もろいものはないと思います。」

コリントの信徒にあてた第一の手紙12章にあるように、わたしたちの体はいろいろな部分から成っています。手があり足があり、目があり耳があり、強い部分があり、弱い部分があり、見栄えのよいところがあり、そうでないところもあります。でも、それらが互いを非難していると、体は成り立ちません。12章25節の言葉を用いれば、各部分が互いに配慮することで、体はできています。

考えてみれば、呉越同舟といった言葉は、敵対する国や、敵対する人々だけではなく、ひとりの人間のなかにも当てはまるのではないでしょうか。人の心は、単純なものではありません。美しい心と汚い心が同居をしています。表面的にわかる性格だけではなく、心の深いところに潜んでいる性格もあります。それらがときに折り合いをつけながら、生きているのだと思います。

そしてこのことは、ひとりの人間もそうだし、呉越同舟という言葉が本来あらわしているように、複数の人間が集まるところにも当てはまります。第一コリントでパウロが言ったのは、キリストの体なる教会をあらわすために用いた例えです。まさにわたしたちの今の教会にも当てはまることです。そしてまた一般の社会、学校でも、会社でも、どのような形であれ、人の集まるところに当てはまることでしょう。

宇宙船地球号という言葉がありました。わたしたちは皆巨大な船に乗り合わせています。そのわたしたちがそれぞれ好き勝手なことをしているなら、船は大揺れに揺れて、転覆してしまいます。環境問題にしても、経済にしても、船が揺れて、しかも行き先がわからなくなっています。

さて、今日は創世記7章1ー16節を読んでいただきました。ノアの箱舟の物語です。6章から8章まで、またその後のノアのことなどが9章に書かれています。ノアの箱舟については皆さんよくご存知のことと思います。その時代、悪がはびこり、神さまは地上にあるものをすべて拭い去ろうと決意をされます。

そして40日40夜も大雨が降り続き、大洪水がおこり、地上にあるものは滅びることになります。けれども、神さまが選ばれたノアとその家族は、箱舟を作ることによって救われました。

このとき、箱舟に乗ったのはノアとその家族だけではありません。そこにはたくさんの動物たちがいました。ノアの箱舟を描いた絵を見ると、たくさんの動物たちが行列をして舟に乗り込む様子が描かれています。ためしに教会の本箱にある「ノアのはこぶね」という絵本を手に取ってみると、たくさんの動物たちが、整然と並んで舟に乗り込んでいました。

シマウマがいて、オットセイがいて、その後ろにワニ、その次にキリン、豚、羊、牛、その横をカメがいて、ネズミや、カタツムリもいました。うしろのほうには大きな象がいます。絵本だから、それはそれでいいのでしょうが、皆楽しそうな顔をして、まるでピクニックに行くような雰囲気です。

またこれは神話的な話ですから、本当はどうだったのかなどと考えること自体がおかしいことですけれど、本当はこんなにおとなしく一列に並ぶなんてありえないことです。騒然としたという程度ではすまない、大変な騒ぎだったことでしょう。大きな動物もおれば、小さな動物もいて、また足の速い動物もおれば、足の遅い動物もいます。カタツムリまでいるのですから、とても一列に並んでなどというわけにはいきません。

そしてわたしが興味を覚えるのは、7章9節、「清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ箱舟のノアのもとにきた」という個所です。このことはすでに7章2節にも、神さまがノアに与えた命令としてでてきます。すなわち、「あなたは清い動物をすべて7つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も7つがい取りなさい」と書かれています。

ここには、清い動物、そして清くないとされる動物もいたのです。清い動物、清くない動物についてはレビ記11章に詳しく書かれているところです。野兎や猪は汚れた動物とされています。海や川にいて、ひれやうろこのないもの。カラスやフクロウ、そして地を這う生き物、そういったものは汚れているとされます。

これらがなぜ汚れているとされたかは、複雑な背景があるのでしょう。衛生上のこともあるのでしょう。猪が汚れているとされていました。口語訳聖書ではこのところは豚と訳されています。ユダヤ教やイスラム教にとって豚が食べてはいけない動物であるのは、レビ記の規程や、古い歴史的背景があります。豚が汚れているとされるのは、豚が多産で、豊穣を祈るバアルの神へのささげものとされていたからではないかと考えられています。

ともかく、ノアの箱舟には、このような動物たち、清いとされるものも、清くないとされるものも、種々雑多に乗り込みました。まさに同じ舟に乗り込んだのです。

使徒言行録10章に、ペトロが見た幻の話があります。天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて地上に降りてきます。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。さきほどレビ記から確認したように、地を這うものは汚れています。ほかのあらゆる獣のなかには、猪、豚なども入っていたのでしょう。

ペトロにしてみれば、そんなものを見るのも汚らわしいという思いであったに違いありません。ところが天の声が聞こえます。「屠って食べなさい」と。ペトロはとんでもないと、否定するのですけれど、天からの声が続けて聞こえます。それは、「神が清めた物を、清くないなどど、あなたは言ってはならない」という言葉でした。

ペトロが見たこの幻は、これまで異邦人は汚れているとしてつきあってこなかったことに対し、いやそうではない、神さまは人を隔てられないのだというメッセージでした。ノアの箱舟のなかは、ペトロが見た大きな布のなかよりも、もっと巨大な布、あらゆる生き物がそこに入り、まさに騒然としている。けれどもそれは、神が清めた物として同じ舟に乗り合わせ、呉と越どころではないさまざまな対立や違いを乗り越えながら、同舟をしていたのでした。

ノアの箱舟の物語、実際にあった大洪水から生まれた伝承です。考古学においても、チグリス、ユーフラテスの流域に大洪水があった跡があることが確認されています。それは河口から幅160キロメートル、長さ650キロメートルに及ぶものでした。650キロというと、鉄道の路線で言えば、東京から青森間までが700km、東京から兵庫県の姫路までが650kmです。それだけの場所が全部洪水でやられたのです。それは古代の人々にしてみれば、まさに全世界が滅びたと思ったに違いない出来事です。

この洪水の出来事は、粘土板により書き残されました。今から4000年も前に書かれ、19世紀の終わり頃に発見されたギルガメシュ叙事詩と呼ばれるこの粘土板に書かれた内容は、ノアの洪水があります。ここに次のように書かれています。「大いなる神々が、彼らの心の中に洪水を起こすべき決議をした。それは彼らの父アヌーが計画したのだ。・・汝の家を破り、船を造れ。汝の家財を捨て、汝の生命を求めよ。汝の持ち物を投げ捨て、生命を保て。船の中に、生けるもの、種子を携えよ。汝の造るべき船の、その寸法をはかれ。・・船は大海に浮かばねばならないのだ。・・雨を送るものが夕に重き雨の嵐を送った。わたしはその日の近づくのを見た。かかる日の近づくのを見ることさえ、わたしには恐怖であった。わたしは船に乗り、戸を閉じた。」

このあと、雨が止み、船は山の上に漂着します。そこで鳩を飛ばすと、鳩は休み場がないために戻ってきます。次に燕を、次に烏を飛ばします。烏は水の引いたところを見つけ、もはや船には帰ってきません。こういったところまで、聖書の物語とそっくりです。というわけで、残念ながら、聖書の物語がギルガメシュ叙事詩の影響を受けていることは間違いないのです。    

けれども、聖書にはギルガメシュ叙事詩には見当たらない重要なポイントがあります。それは、第一に、神さまが叙事詩にあるような神々ではなく、唯一の神となっていることです。そしてもう一つは洪水の起こった理由です。

洪水がおこった理由、それは聖書によれば、人の罪のゆえでした。6章5―6節に書かれています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」この悪いこととはどんなことでしょうか。先ほどの絵本を見ると、「けんかをしたり、盗みをしたり、それもどんどんひどくなっていきます」と書かれていました。

確かに喧嘩はよくないし、盗みもよくありません。でもそんなことで大洪水がおこったのでしょうか。人の悪が増し、これを人間の道徳や倫理、法律の条文の問題としてはならないでしょう。人の悪、それは創世記3章のアダムとエバがおかした罪の出来事が言い表しているのと同じです。すなわち、人間は神さまによって造られた存在、被造物であるにもかかわらず、それを忘れ、自ら神のようになろうとしたこと、自らがこの世界の主人であるかのようにふるまったことだと思います。自分に都合のよいなにかを偶像として神とあがめる。それはすべてを造られた神を神としてあがめず、自らが絶対者になろうとする行為でした。

一説によると、古代におこった大洪水は、森林の伐採が原因であったということでした。古代に、それほどの大規模な伐採があったのかと思わされましたが、聖書にも出てくるレバノンの杉などが開発のために伐採され、大雨が降っても土が水を貯めなくなってしまった。今日でも住宅開発をしたところで土が流れて、山が崩れということが起こっていますけれど、それが地球規模でおこったというのです。

レイチェル・カーソンは、「沈黙の春」という、まさに預言者的な書物を著しました。農薬を散布した影響によって、季節になっても鳥がさえずらない、恐ろしい沈黙が描かれ、数多くの環境破壊が指摘され、また予告されていました。1962年、今から50年以上前に書かれたこの本は、まさに現代社会の問題を預言したものでした。でも、ただ将来を予言したという意味ではありません。彼女は、「人間を超えた存在を意識し、おそれ、驚嘆する感性」の大切さということを言っています。すなわち、神さまのことを考え、神さまをおそれ、神さまのなさることの素晴らしさに感動する心を大切にするということです。

ノアの洪水のことを、罪の大水とも言います。人が被造物であることを忘れ、創造者なる神を忘れ、自己を絶対化したとき、神さまはこの世界を新しくしようとなさったのでした。そしてノアとその家族、そしてあらゆる動物たち、清いとされる動物も、清くないとされる動物も舟に乗せられていきました。

今このときに生きているわたしたちは、はるか昔のノアの洪水の生き残りの子孫であるということができます。再び大洪水が起こることのないように、神を神として認め、神に従う生き方を求め続けなければならないと思わされます。

ノアの箱舟、箱舟の大きさが6章15節以下に書かれています。長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ、1アンマは約45cmです。旧約聖書学者の月本昭男先生によれば、この大きさは、エゼキエル書に出てくる神殿の幻、幻に描かれた神殿のサイズにぴったり一致しています。エゼキエルは、バビロン捕囚期にバビロンの地で預言活動をおこなった人です。国破れ、異国の地に連れていかれた人々に、神殿復興を幻として述べたのです。

その神殿の幻とノアの箱舟が同じサイズなのです。ノアの箱舟の物語は、古代の洪水、またギルガメシュ叙事詩をもとにして生まれたものです。しかし、それは過去の話ではありません。レイチェル・カーソンが預言したように世界が恐ろしい方向にむかっているこのとき、また戦争という最大の環境破壊、地球を破壊する行為に対し、神に立ち返っていきることを、わたしたちに呼びかけています。

そしてそこには、清いものも、清くないとされるものも、共に、まさしく呉越同舟に助け合っていくべきことが呼びかけられています。舟のなかは、ある意味騒然とすることでしょう。しかし、あとひとこと付け加えるならば、主イエスの弟子たちが嵐のなかをゆき、恐怖を覚えたときも、主イエスが共にいてくださり、舟の艫を枕として休んでおられたことを思い起こします。主はこのとき、荒れ狂う波に向かって、「黙れ、沈まれ」と言われました。

異なる者たちが共に舟に乗っている。でも、その舟には主イエスが共にいてくださっている。同じ舟に乗り合わせたわたしたちです。主が一緒にいてくださることを覚え、共に行く手を目指して進んでいきたいと願います。

(2015年10月11日礼拝説教)