番町教会説教通信(全文)
2001年11月 「互いのために祈り」        牧師 横野朝彦

ヤコブ5・13―16

 私たちの教会に集う親しい兄弟姉妹が何人も重い病にかかり、入院をしておられます。ご自宅で療養しておられるかた、施設に入所しておられるかたがいらっしゃいます。また教会員だけでなく、私たちの周りには病を得ておられるかた、それも厳しい病との闘いをしておられるかたが、数え切れません。看病をなさっているかたもおられます。病が癒されるように、心から祈り求めます。

牧師である私は、ご病気のかたがおられると病院に行き、見舞い、そして病床で祈らせていただいています。人によって、病状によって、お会いするのが難しいようなこともありますが、なるべく訪ねるようにしています。と言いましても、そう何度もお訪ねすることができず、申し訳なく、また時にはもどかしい思いをしています。でも、そういったときに、教会の皆さんから、昨日は誰のところに見舞いに行ってきましたといった報告を受けることがしばしばあり、私はそのことをとても嬉しく思わされています。また見舞いを遠慮したほうが良さそうな場合でも、手紙を書きましたといった報告をいただき、これも有り難いことだと思っています。それは教会というところが、そこに集う者たちの、祈り祈られる共同体だからです。

教会は、建物を持ち、礼拝堂を持ち、日曜日に礼拝があり、人々が集まって礼拝がささげられているのですが、それでは建物があれば教会なのかというと、そうでないのは言うまでもないことです。さてそれでは礼拝が持たれておればそこは教会かとなると、これは確かに教会であると言うべきなのでしょうが、でも私はやはりそれだけでは何かが欠けていると思えてなりません。つまり、礼拝という儀式が目に見える形でおこなわれるものであるとすれば、その背後に、目に見える形、見えない形、さまざまな形で、互いに祈り祈られる信仰者の群れがある、それが大事だからです。

よく言われるように、十字架の形は、縦の棒が私たちと神さまとのつながりをあらわし、横の棒は信仰の交わり、人々のつながりをあらわしていると例えられます。いくら縦の棒がしっかりと太くても、横の棒が細く、弱々しければ、それは十字架になりません。ある教会では、礼拝のなかで互いに挨拶をすることが取り入れられています。またある教会では、私たちの教会で祝祷のあとにおこなっている報告を、礼拝の中に順序を位置付けています。報告は互いの交わりであり、それは礼拝の一つだという考えからです。

礼拝とはそもそもそういうものです。私たちは例えば自宅で、あるいは病室で、一人で聖書を読み、一人で祈る、これも礼拝であることに間違いはありません。一人で賛美を歌うのも、神様への礼拝であることに間違いはありません。でもそれではそれだけで礼拝として充分であるかというと、そうではないのです。使徒信条に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と述べられています。聖なる公同の教会。日曜日におこなわれる礼拝のことを、個人的な礼拝と区別をするために公同礼拝と呼ぶことがあります。公同とは、公に同じと書きまして、キリスト教用語なのかも知れません。普遍的なという意味のカトリックと同じ意味の言葉と考えてよいと思います。そしてそれは、違いを持つものたちが集まって、一つの信仰を共に告白するという意味での普遍性です。違いを持つものたちが神さまに招かれることによって、共に集まり、共に祈る、それが公同の礼拝なのでして、この公同の礼拝によって、キリストの体の枝々として、私たち一人一人が生かされるのです。

使徒信条についてもう少し申しますと、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白されています。この最後の「信ず」は、前の一つ一つの言葉につながっています。「聖なる公同の教会を信ず」「聖徒の交わりを信ず」「罪の赦しを信ず」ということです。聖徒の交わりとは、私たちが仲良くすれば生まれるものではなく、むしろ信ずべきもの、信じ、祈り、与えられていくべきものです。そしてその信仰の告白として、私たちは互いに祈り合い、祈り、祈られるのです。つまり、聖徒の交わりとは、私たちが努力をして作り出していくべきものであると同時に、神さまから与えられる交わりです。

私たちはともすれば争い、傷つけあい、つながりを断ち切るのでありまして、その断ち切られたものをつなぐのは、まさに神の御業なのです。その意味で、私たちは聖徒の交わりを信ずると告白し、その告白にふさわしく生きようと務めるのです。

礼拝について申しましたが、聖書を読むということも同じです。聖書を一人で読むのは大事なことです。でも、一人で読んで、これを研究するだけで信仰が得られるのではありません。神さまの語りかけを聞いていくには、他の人と共に読んでいくということが大事だと思います。日本キリスト教会の久野収という牧師が、次のように言っておられるのを読みました。「聖書は本来、信じようとする者たちの交わりのために成立したものですから、教会の交わりの中で、その説きあかしを他の人と共に聞く時に、最もよく神の語りかけを受けとめることができ、神に出会うものとされるでしょう。」私は、この言葉を読んで、大切なことが簡潔に言われていると思いました。

「聖書は本来、信じようとする者たちの交わりのために成立したものです。」 パウロの書いた手紙について考えてみると、これはローマの教会に宛てた手紙、コリントの教会に宛てた手紙ということで、それぞれその教会の置かれた事情を考慮しつつ、忠告を与えたり、勧めを与えたりしています。そして何よりも、これらの手紙はローマの教会で、コリントの教会で、集会のときに、いや礼拝のときに、読まれることを目的として書かれているのです。余談になりますが、口語訳聖書では、ローマ人への手紙、コリント人への手紙となっていました。これでは日本人への手紙という具合に、人種や民族に宛てられた手紙のようになってしまいます。そうではなく、ローマの信徒への手紙、つまりローマの教会に宛てた手紙なのです。

話を戻し、聖書は本来、信じようとする者たちの交わりのために成立したものです。それはパウロの手紙だけではなく、福音書やさらにはヨハネ黙示録などでも同じなのです。そうであるならば、これを、生き生きとした人と人との交わりのなかで読んでいくのが大切だと思わされます。それはもう単に交わりというよりは、人間のこの社会のさまざまな問題や歴史や、そういったこととのつながりのなかで読んでいくならば、聖書の言葉はより生き生きとしたものとして、私たちに迫ってくる。私はそう確信しています。

さて、今日読んでいただいた聖書の箇所は、まず祈りについて書かれたところであると言うことが出来ます。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」この言葉は、祈りの大切さをよく教えてくれています。そして祈りによって、私たちが救われ、起き上がる力を与えられることがよく言い表されています。祈りは、まさに私たちが日々なすべき務めであり、信仰の養いの重要なことがらだからです。

詩編50編に、「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と歌われています。私たちは苦しいとき、悩みのときに祈ってよりのです。苦しいときの神頼みというと、なんだか苦しいときにだけ神さまに頼むということで、あまり良くないことのように聞こえますが、私はそれはそれでよいと思います。苦しいということは、心を神さまに向けるように備えられたときなのかも知れません。自分の力では解決できない、自分の力による解決の道が閉ざされている、そのときにこそ神に祈ればよいのです。そのとき、「わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と約束が与えられています。

今、苦しいときの神頼みでかまわないと申しました。でも、できることなら、どんなときでも神さまのことを覚えていたいものです。そこでヤコブの手紙は、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」と言います。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。苦しんでいる人は祈り、喜んでいる人は賛美の歌をうたう。これは別々のことではなく、どのような時にも、神さまのほうに心を向けなさいということであって、本質的には同じことだと思います。つまり、テサロニケの信徒に宛てた手紙に書かれているように、「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」ということにほかなりません。そして、信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいますとあるように、祈りは聞かれるということが、ここで約束をされているのです。

しかし、今日の箇所はただ祈りの大切さだけを教えてくれているのではありません。今読んだ聖句に、もう一つ重要なことが書かれていました。それは、「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」という言葉です。つまり、教会に集う者たちが自分で祈るというだけではなく、互いに祈りあうようにしなさいと、ここで勧められているのです。教会の長老を招いて、長老というのは今日の教会の牧師やまた役員の立場にある人たちのことです。役員は、教会の運営に心を砕きますが、でも本当はそれだけであってはならないのでして、むしろ教会員のことを心がけ、祈るということが大きな役割なのだと思います。それではこれは牧師と役員だけの仕事かというと、これまたそうではありません。そもそも仕事なのではなく、それは信仰者の果たすべき生き方なのですから、牧師、役員だけではなく、キリスト者は誰も、病の人のために、祈り祈られる、互いに祈るべき存在なのです。

オリーブ油を塗ってとありました。古来オリーブ油には癒しの力があって、病人に油を塗ることがおこなわれていたそうです。カトリックでは現在もこのことが秘跡としておこなわれていますが、大事なのは油をどうこうするということではありません、ヤコブの手紙に、「主の名によってオリーブ油を塗り」とありますが、大切なのは前半の言葉、「主の名によって」ということです。

祈るのは自分ひとりではない。そうではなく、互いのために祈りあおうではないか、主の名によって祈りあおうではないか。それが今日の箇所で教えられ、勧められといるところです。そしてそれは病の時だけではありません。ヤコブはここで、肉体的病気だけではなく、もっと広く、私たちの内面的な悩みや、個人的中傷、批判、迫害といったことも視野に入れていると思われます。16節でヤコブは、「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」と言っています。内面的な思いを隠して、ただ肉体の癒しを求めるというのではなく、心から互いの思いを語り合い、赦し合いなさいと、ヤコブはこのように私たちに勧めをしています。

ヤコブの手紙は、行いのない信仰は正しい信仰ではないと、行いの重要性を訴えている書物として知られています。ここでは詳しいことは申しませんが、その行いとは何かと一言で言えば、それは「隣人を自分のように愛しなさい」ということだと思います。ヤコブの手紙は2章8節で、「隣人を自分のように愛しなさい」という御言葉を最も尊い律法だと言っています。つまり、私たちの信仰に、隣人が視野に入っているか否か、神さまとのつながりだけしかないような信仰は充分ではない、そうではなく、人と人とが互いに祈りあい、支えあっているかどうか、それを信仰の重要なポイントとしてあげているのです。

私が学生時代に世話になった一人で、深田未来生という先生がいます。この先生が40歳台なかばから50歳くらいのときに、癌の手術を2度受けられました。深田先生は、京都バプテスト病院というところに入院され、手術を受けられたのでありますが、深田先生はそのときの体験を、教団出版局から出ている「神はわが病を負い」という本のなかで書いておられます。

「私は、手術を翌日に控え、ひどい不安に襲われて寝付けない一夜を過ごした。たしかに祈る気持ちはあったし、それを言葉に出してもみたが、気持ちは安らがなかった。自分で自分が恥ずかしくなるくらい臆していた。ちょうどそんな時である。病院のO牧師とH牧師が来室し聖書を読んでくださったのは。自分自身、牧師でありながら、不安のただ中にあって、心を開いて祈りきれなかっただけに、両牧師の祈りに大きな力と励ましを受けた。」「病室を訪ねてくれたり、手紙や花で励まして下さった友人たちの存在がどんなに大きかったことか。一枚の葉書の中にすら、今まで気づかなかったほどの力を発見することが度々であった。私は病床にあって、そういった祈りを身近に切実に感じることができた。私は深い感謝の念を抱きながら、この病気との戦いは私一人のものではなく、多くの人がその戦いに参加してくれているのだ、と考えた。寝つかれない夜、私には共に病と戦ってくれる友がいることを思い起こし、安らぎを得ることができた。」

このように、深田先生はご自身の体験から、祈られることがどんなに大きな励ましであり、支えであるかを語られます。それはヤコブの手紙が言う、「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」ということです。そして、ここで言う長老というのは、牧師であったり、役員であったりするけれど、それは信仰者すべてが果たすべき役割だと、先程申しました。そのことに関連して、もう一つだけ、深田先生の話を紹介します。

それは二度目の手術の日の朝、看護学院の生徒で実習をしていた女性が、「お祈りをしてもいいですか」と言って、短い祈りをささげてくれたということでした。その祈りはきわめて素朴な祈りであったと言います。でも、その素朴な祈りが、手術を前にした心に思いもよらない深い平安をもたらしてくれたのでした。深田先生はこのときのことを、「私は今に至るまで、あのYさんの牧会者としての役割を忘れることができない」と書いておられます。牧会者といえば、それこそ牧師のことだと思われるでしょうが、そうではなく、看護学院の若い生徒の祈りもまた、牧会者の祈りとして、病める人を立ち上がらせるのです。言葉としては素朴であっても、言葉としては上手に言えなくても、言葉にならないまとまらない祈りであっても、互いにために祈りあうことは、私たちの信仰の重要な要素であり、私たちを生かす糧なのです。

私自身、なんど祈られてきたことか、そして今も祈っていただくことを必要としていることかと思います。精神的に疲れたとき、肉体的に疲れたとき、そして時に取り乱したり、思いもかけず自分が原因で混乱を巻き起こしてしまうようなこともあります。そしてそんなときに、人からかけられたちょっとした言葉によって、ああ自分は祈られている、支えられていると思わされ、立ち直りが与えられきたのでした。それは肉体的、精神的、あるいはまた罪との戦いをも含めて、そのどれもが、深田先生の言われるように、自分一人で戦っているのではなく、多くの人がその戦いに参加してくれているということなのでしょう。そして、それは同時に、私もまた、他の人が病や不安、罪と戦っているときに、共に祈ることによって、その戦いにつながることが許されているということでもあります。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」この御言葉のもとに連なる信仰者の群れ、教会の働きを豊かにしていきたいと願います。

(2001年11月18日 礼拝説教)