番町教会説教通信(全文)
2001年10月 「悪に悪を返さず」        牧師 横野朝彦

ローマ12章9―21節

9月11日にアメリカであの残虐なテロ事件がおこってから40日が経ちました。さらに現在アメリカでおこっている炭疽菌の事件もほぼテロ行為に間違いないとなると、そのような、無差別な攻撃、殺傷をおこなうことの卑劣さを思わされます。いかなる思想信条にせよ、そのようなことが許されるはずがありません。そして今、アメリカを中心とする国々による報復攻撃が続いています。先週からは地上部隊が投入されたと報道されていました。日本の国もまた、このための協力を自衛隊を用いておこなっています。けれども、現在おこなわれている報復は、いったい何を生み出すのでしょうか。あの事件の直後、誰もが冷静さを失い、ただちに報復をという声ばかりが大きく聞こえました。けれども、アメリカ国内においても、戦争によらない平和的な事件の解決を求める声が、多くはないかも知れないけれど、確かなうねりとして発言されていることを思います。

今日は、この世界を揺るがす事件のことを思いながら、聖書の箇所を選ばせていただき、そして事件についての発言をいくつかご紹介させていただこうと思います。最初に紹介したいのは、今月初め、アメリカの新聞に掲載された投稿記事の一部です。これは、ペンタゴンに勤めていた陸軍軍属で、テロによって死亡した人の家族によって書かれたものです。「私は、国家の多くのリーダーも含めて、強硬な報復と処罰に打って出ようとする怒りに満ちた声のあることを聞きました。それらのリーダーに、私ははっきり申し上げます。私たち家族はあなた方の怒りに満ちた言葉では、決して癒されることはありません。あなた方の言葉と報復行為は、ただ私たちの家族の苦しみを増大させるだけであって、思い出の中で彼を誇りにしたいと思う私たちの尊厳を否定し、アメリカは世界のピースメーカーにならねばと考えていた彼のビジョンさえ冒涜することになるのです。」「私は国のリーダーに、さらに広範囲の憎悪につながる道を取らないようお願いします。それは私の夫の死を、終わりなき殺人の連鎖の一部としてしまうことなのです。私は私たちの国のリーダーに、暴力のサイクルを断ち切ることによって、この信じがたい悲劇に対抗する勇気を見いだすことを求めます。この偉大な国の技能と資源を、恐怖と憎悪から解放された世界的な対話のために、生かしてゆくことを求めます。」

自分の愛する夫を失ってから、まだ1ヶ月も経っていない時点が書かれたこの文章は、強い訴えを持っていると私は思います。「私の夫の死を、終わりなき殺人の連鎖の一部としてしまう」、この言葉は真実だと思います。夫の死を、終わりなき殺人の連鎖の一部としないで欲しい、これを終止符として欲しい、冷静ななかに、その願いの熱い思いが伝わってきます。今紹介した新聞への投稿記事だけでなく、事件のあと、多くの人が武力によらない平和を求めて訴えました。それは武力による解決が、決して真の解決にはならず、延々と憎悪の連鎖を生じさせるからにほかなりません。

テロの根絶といったことが言われていますが、そのようなことが不可能なのは、誰が考えても明らかなことです。それこそ、テロの兵士を殺害しても、その子、その孫、皆殺しにしなければ、憎悪は消えることのない火として残ります。そして仮に大量虐殺という恐ろしい方法をとったとしても、テロの根をまったく無くすことはできないと思います。

さて、そのようななかで私たちキリスト者、あるいはキリスト教に関心を持ってここに集まっているものはどうすれば良いのか。一人一人のキリスト者が、それぞれ遣わされた場所、持ち場にあって、先にあげた諸問題に取り組むことや、また教会がそれをサポートしていくということがあると思います。そして何よりも教会としてしなければならないことは、先程申し上げたように、武力によっては、憎悪の連鎖が続くばかりであることを訴え、そしてこの連鎖を断ち切るために来られた一人のかた、主イエス・キリストの平和の福音にしっかりと立つことだと思います。

主イエス・キリストとはどういうかたか。先に私たちは、ペトロ第一の手紙を順に学びましたが、2章23節に次のように書かれていました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」この言葉の意味は、憎悪の連鎖をご自分の十字架によって断ち切られたということです。主が山上の説教において、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたのも、憎悪の連鎖を断ち切るためでした。主イエスはまた言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」主がこのように言われたのも、悪人に手向かったときにその応酬が限りなく続くことを知っておられたからです。何も手向かわないのは臆病者だと言う人がいます。しかしそうではありません。今回の事件においても、「忍耐する勇気」「報復しない勇気」と誰かが言っていました。ましてや左の頬まで向けていくとすれば、あるいは自らの十字架によって報復の連鎖を終わらせようとするならば、それは臆病ではなく、勇気そのものではないでしょうか。

パキスタン北西部およびアフガニスタンで医療活動をしているNGO「ペシャワールの会」の中村哲というお医者さんの働きについて、新聞やテレビで報道されています。中村医師が、あるところで「報復」について語っておられるのを読みましたので、ご紹介します。「アフガンはシルクロードの十字路であるため、古代から現在にいたるまで戦争が繰りかえされました。『やられたらやり返せ』をしないと生き残ることができない土地です。無医村へ診察に行きますと、びっくりするほどたくさんの人々が集まります。行列ができます。待ちきれない人々が怒って投石をします。発砲することも珍しくありません。アフガンでは内戦が続いているので多くの人が銃を持っています。ロケット砲を打ち込まれたこともありました。また、援助団体の派閥抗争に巻き込まれて、謀略にはめられかけたこともあります。そのたびににアフガン人スタッフは怒って、仕返しだ、やりかえせといきり立ちます。そのたびに私は『復讐をしてはならん』と言います。すると彼らは目を丸くして『仕返しをしてはならんですって!ドクターは正気か』と驚きます。私は『復讐をすれば必ずあとで仕返しを受ける。今は我慢だ』となだめます。これを17年間やってきました。」

「やられたらやり返せ」をしないと生き残ることができない土地だと、中村医師本人が言っておられる。その土地で、「報復をしてはならん」と17年間やってきたということはすごいことです。中村医師はキリスト者です。中村医師はまた、次のように言っておられました。「アフガンと同じように戦乱が絶えなかったパレスティナに生まれ育ったイエス・キリストが『汝殺す無かれ』と説いたのはとてつもないことでした。生き残るための復讐を禁じたというのは実に極限状態の決断なのです。」

「汝殺す無かれ」は、十戒の教えですから、イエス・キリストが説いたというのは、講演のなかでのちょっとした言い違いだと思います。主イエスが、山上の説教において、「悪人に手向かってはならない」と言われ、また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたことは、まさに中村医師の言われるように、とてつもないことなのだと思います。そして十戒で、「汝殺す無かれ」と命じられていることも、とてつもないことだと思います。聖書は、このようにとてつもないことではあるが、実はここに神さまが私たちに求めておられる人としての生き方があるのだと語っています。

「目には目、歯には歯」というのは、旧約聖書の出エジプト記などに書かれています。これはもともと、ハムラビ法典に書かれていたものです。私にはよくわかりませんが、イスラムの教えに同じようなものがあるならば、それは、ハムラビ法典からの影響だろうと思います。でも、聖書は本当に「目には目、歯には歯」と復讐を勧めているのでしょうか。私はそうではないと思います。出エジプト記を読むと、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」とあります。レビ記も同じです。「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」このことから聖書は、ハムラビ法典の同害報復法の言葉を用いつつ、それを超えて、償いという観点からこれを述べているのです。復讐の勧めではなく、むしろ争いをするとこのように償いをしなければいけない、争いなどやめておきなさい、そういう勧めなのです。

でも、長い年月の間に、これが報復の掟として受けとめられてきたのは事実です。歴史において、この言葉はそのように受け止められ、そして現実に実行されてきました。しかし主イエスは、そのような只中で、それこそ中村医師の言う「とてつもないこと」を語られたのです。それは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えでした。「やられたらやり返せ」をしないと生き残ることができない土地で、報復の連鎖を断ち切るために言われたということは、それはまさにご自身を十字架の死に至らせるほどのことであったのです。

さて、今日お読みいただいたローマの信徒への手紙12章の言葉が、お話しをしてきた主イエスの山上の説教の御言葉と、極めて似た言葉、内容であるのはお気づきのとおりです。私は山上の説教から、主イエスの言葉、「悪人に手向かってはならない」と「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」の二つの言葉を引用しました。そして今日の箇所では、17節で、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」と書かれ、14節では、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と書かれていました。このようにパウロが述べていることと、主イエスの山上の説教の教えとが言葉遣いまで似ているということは、当たり前のようでありながら、実は他にあまり例がありません。この手紙を書いたパウロは、主イエスに直接会ったことはありません。使徒言行録によれば、彼がキリスト教迫害のために奔走しているときに、復活の主イエスの光に照らされ、回心をしてキリストの使徒となったのでありますが、彼自身は主イエスの地上での生涯には出会ったことがなく、言葉を直接聞いたこともありません。そしてまた、パウロがこの手紙を書いたころはまだ福音書も書かれていませんでした。彼の書いた手紙から分かることは、彼のおもな関心がキリストの十字架と復活にあったということです。にもかかわらず、ここでパウロの手紙の言葉と、主イエスの教えとがぴったり一致するということは、悪人に手向かわない、迫害するもののために祈るということが、初代教会において重要なものの考え方、初代教会のキリスト者たちの重要な生き方であり、教えであったということです。

山上の説教で主イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と言っておられます。この「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉は、旧約聖書にはどこにもありません。おそらく主イエスの時代のユダヤ教で語られていた教訓のようなものなのでしょう。そしてこの場合、隣人とは同じユダヤ教徒のことであり、敵とは異邦人のことでした。この当時、人々は出身によって、民族によって、宗教によって人を峻別し、自分たちと対立するものの滅びを願っていたのです。ローマ12章14節の「呪ってはなりません」ということは、単に心の中で呪うというよりは、もっと宗教的なものであったと思われます。民数記や申命記には、「呪う」という言葉が数多くでてきます。しかしそのような教え、そのような生き方に対して、まったく新しい教え、新しい生き方が主イエスによって示されました。そしてそれが初代教会のキリスト者たちにとって重要な生き方となったのです。初代教会において、キリスト教への迫害は日増しに強くなっていました。この手紙を書いたパウロ自身がかつては迫害者だったのですから、彼はその実情をよく掴んでいたことでしょう。しかしそのような状況において、パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と訴えるのです。

このような教えは、パウロにとって、人と人との付き合い方であるとか、人と人との関係という問題ではありませんでした。今日は12章の9節以下を読んでいただきましたが、12章の最初から見ると、とても有名な教えから書き始められていることに気づきます。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」この聖句は、礼拝を始めるときの招きの言葉、招詞として用いられるところです。つまり、12章で書かれていることは、ただ単に倫理的教えというのではなく、むしろ私たちが神さまに礼拝をささげるとはどういうことか、礼拝者としての姿勢なのです。ですから、今日の箇所でも、11節で「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」とあります。19節では「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とあります。このように、ここで教えられていることは、人間に対する姿勢であるだけでなく、むしろ神さまに対する私たちの姿勢なのです。

ところで、先週私は日野市にある日野台教会に招かれ、そこで礼拝説教の御用をさせていただきました。日野台教会の礼拝堂は平和記念会堂と言います。その由来によれば、アメリカにおいて、ある牧師の息子さんが太平洋戦争で戦死し、その教会に関係する戦死者12名を記念するにあたり、この戦争において敵であった日本人も一緒に覚えようと、日本人キリスト者で戦没したもの12人もそこへ加えられたのでした。そしてこれに呼応して日本でも記念会堂が建てられたのです。礼拝後食事をいただいた部屋の壁には、アメリカ人を含む330名の戦没者の氏名がかけられていました。このように、戦時下にあって敵であったものが、共に覚えられ、祈られる、それは意義深いものがあると思いました。

世界キリスト教協議会、これはほぼ全てのキリスト教の教派からなる諸教会の集まりです。もともとはプロテスタントの教会の集まりでしたが、現在はカトリック教会も、加盟教会ではありませんが、密接な協力関係にあります。世界キリスト教協議会の総幹事であるコンラート・ライザー氏がテロ事件のあと、国連のアナン事務総長に手紙を送っています。そこには、「今回の非人間的な行為に対する応答は、どんな国民や民族、宗教集団にも烙印を押すものであってはなりません」と書かれていました。長い手紙ですが、その一部を紹介します。「テロリズムという暴力は、人間の命が神の賜物でありしたがって限りなく貴いものであると信じる全ての人々にとって、忌まわしいものであります。無差別な殺傷を負わせることによって他者を脅すあらゆる試みは、全世界的に非難されなければなりません。しかしながら、テロリズムに対する答えは、同害報復であってはなりません。なぜなら、それは暴力と恐怖の増大につながるだけだからです。・・・私たちは、9月11日のあの恐ろしい悲劇に対する応答が、私たちの世界の傷をいやし、その世界に新しい視点をもたらすという私たち共通の責任を地球規模で評価し直すための転機となるよう望み、祈ります。今は、全世界的な対話と寛容、そして憐れみの行為のための時なのです。」

あの許しがたい事件を受けて書かれたこの手紙が、「全世界的な対話と寛容、そして憐れみの行為のための時なのです」と結ばれているのに、私は共感をしました。パウロが言うように、私たちはすべての人と平和に暮らしたいものです。テロという許すことのできない悪が襲いかかろうとも、自分で復讐せず、神の怒りに任せ、悪に負けることなく、善をもって悪に勝つことです。悪に悪を返そうとするならば、それは必ず報復の連鎖、憎悪の連鎖を生み出すことでしょう。このような憎悪の連鎖の只中に、主イエスが来られ、ご自身を十字架に差し出され、さあこれで憎悪はお終いだと示してくださった、その愛に生かされていきたいものです。この愛に生きることこそ、私たちのなすべき礼拝なのです。

(2001年10月21日 礼拝説教)