番町教会説教通信(全文)
2009年9 「上から出た知恵」             牧師 横野朝彦

ヤコブ3・13−4・3

9月7日から11日までの5日間、わたしは教会からお休みをいただいて台湾を訪問しました。台湾先住民族の神学校である玉山神学院の学生がこれまで5回にわたって番町教会で礼拝説教を担当してくれましたが、今回玉山神学院を初めて訪問することができました。台北の空港に着いたとき、昨年番町教会に来たトゥシさんが車で迎えに来てくれており、再会を喜び合うことができました。車で1時間近くかけて台北の駅まで行き、そこから急行列車で2時間かけて花蓮というところへ行き、さらに車で半時間ほどの山のなか、綺麗な湖の畔に玉山神学院はありました。

玉山神学院では、昨年番町教会に来たアウンさん、2004年に来たウパさんとカダウさん、2001年に来たニカルさんと会うことができました。彼らは今、それぞれの教会に遣わされて働いています。彼らとの再会はとても嬉しいものでした。

8日、9日と研究発表と討論がおこなわれ10日には花蓮から車でさらに3時間南へ行って、8月8日にあった台風による大雨被害の跡を見てきました。大雨のため土砂崩れが起こり、ダムが生まれ、そのダムが決壊して、泥流が下流の村を押し流しました。わたしが行ったところでは、幅1kmくらいにわたって家や村の跡形もなく、一面の荒地になっていました。この報告もまた機会を見つけてさせていただこうと思っています。

研究発表会では多くのことを学びましたけれど、そのなかで一つだけあげるならば、邱(ク)という女性教師、この方は牧師で、玉山神学院の教務責任者のようです。彼女がおこなった「キリスト教宣教の再考」という発表が興味深いものでした。最初に中国の古典、荘子に書かれている話が引用されました。孔子の弟子である子貢(しこう)が歩いていると、一人の老人が井戸の水を田畑に引くために溝を掘っています。効率の悪いやりかたをしているので、子貢が、農機具を使えばいいと言います。ところがその老人は、「機械があると、物事を機械的に処理しようとするようになる。物事を機械的に処理しようとすれば、必ずいつの間にか機械的な心になってしまう」と返答するのです。子貢は腹をたててそこから立ち去りますが、しばらくして反省をするのです。自分は孔子の一番の弟子だと思っていた。そして老人に教えようとした。けれどもそんなふうに教えようとしたこと自体が、実にこっけいなことだ、子貢はそう考えました。

邱先生は、このように荘子の話から始めて、キリスト教の宣教も同じように相手に何かを教えようとするだけで、相手のことを考えてこなかったのではないかと述べられました。そして異なった意見や、異なった宗教との対話の大切さを訴えられました。神は世に降りてこられ、わたしたちにとっての他者のなかに臨在するという発言が、強く印象に残りました。

ところで、今日はヤコブの手紙を読んでいただきましたが、これは、わたしの手元にある聖書朗読日課に従ったものです。そして今日読むべき箇所として、ヤコブのこの箇所とともに、福音書の朗読箇所としてマルコ9章33−37節が指示されています。これは、弟子たちが「誰が一番偉いか」と話しあっていたことに対し、主イエスが教え諭される場面です。主イエスはこのとき、一人の子どもの手を取り、真ん中に立たせ、抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。自分の偉さを誇るのではなく、これだけ知識があるからと他者を教えようとするのではなく、おさなごを受け入れる。今紹介した邱先生の話にも通じると思います。

さて、今日お読みいただいた聖書の箇所、ヤコブの手紙3章17節に、「上から出た知恵」という言葉がありました。「上から出た知恵」とは何でしょうか。どのようなものでしょうか。そこで思うことは、最近はあまり知恵という言葉を昔ほどには使わなくなったのではないかということです。いつごろからか、わたしたちの社会では、知恵よりも知識のほうが大事にされてきたようです。漢字能力検定や英語検定、パソコン検定など、知識や能力を問う検定が数え切れないほどあります。調べてみると、漫画検定というのもありました。ご当地検定と言って、江戸文化歴史検定や多摩・武蔵野検定、日光検定、鎌倉検定など、全国に山とありました。これらは各地の商工会議所などが主催しているようです。もちろんその一つひとつは真面目なもので、大切なものでしょうけれど、なかにはこんなものを覚えてどうするのだろうと思えるようなものもあります。

知恵というのは、検定試験をするような知識とはちょっと違います。「おばあさんの知恵」という言葉があります。それは知識も含まれるでしょうけれど、それよりも、生きる上でうまく工夫する力、あるいは適切に判断する力のようです。昨日の新聞に、偏差値とは何かという説明がありました。試験を受けて点数が80点だとして、平均が70点だとしても、自分が全体のなかのどのあたりかということはわかりません。偏差値は自分が全体のなかでどこにいるかを明らかにします。例えば偏差値70なら全体の上位2%に入るそうです。でも、知恵というのはどうでしょうか。偏差値のようなものでは測ることができないものではないでしょうか。

今日読んでいただいた聖書の箇所に、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」と書かれていました。純真さ、温和さ、優しさ、従順さ、憐れみ、それらに偏差値や序列などつけることはできません。まあ、あの人は純真だとか、あの人は純真さに欠けると、ある程度の優劣のようなものはあるでしょうけれど、それでもこれに点数をつけて、序列をつけるなど考えられません。

もっとも、世の中には悪知恵というのもありますから、生きるための工夫を悪いほうに使う人もいます。でも、今日の聖書に書かれていたような「上から出た知恵」、それはまさしく「純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」と聖書は語っています。人を偏り見ることも、偽善もないと言われています。そしてこの場合、「上から」とは神から与えられた知恵ということです。神から賜物としてわたしたちに与えられている知恵です。

わたしが卒業した学校は神学部があるくらいですから、当然キリスト教主義なわけですが、正門を入ったところに、良心碑と呼ばれる石碑があります。「良心の全身に充満したる丈夫の起こり来たらんことを」という創立者の言葉が書かれています。わたしは学生時代にこの言葉をそれこそ数え切れないほど見てきました。また学校の関係施設に行くと、この言葉の書かれた掛け軸がかかっているのを見ることができます。

先週学校の宗教センターから送られてきた小冊子に、大学の商学部の先生が学生たちに語った話がありました。この先生の先輩である公認会計士のかたが体験されたことが紹介されていました。会計士をしているそのかたのところに、監査をしている会社の社長が頼み込んできました。粉飾決算をしたことを見逃してもらえないかという頼みごとでした。会計士のかたは悩みます。夜も眠れない日々が続いたそうです。

監査報告書に嘘を書く、これは何も悪いことをしようと思ってとか、お金をもらうためにそうするのではないのだといいます。監査報告書に本当のことを書くとどうなるか、会社は倒産するかも知れない。従業員は路頭に迷うかもしれない。来年は業績が回復するかもしれない。そのような義理や情が入り混じって、板ばさみになるのだそうです。そして何とか助けてやりたいと思ってしたことが、どんどん深みにはまっていきます。

でも、夜も眠れず悩んでいたとき、そのかたのなかにふと思い出した言葉がありました。それは、あの「良心碑」の言葉でした。そして、「やはり本当のことを書こう。そして会社が銀行や取引先から協力を得られるよう自分も全力を尽くそう」と、そのように決断をされたのでした。商学部の先生は次のように書いておられました。「それまで良心教育と聞くと何となく弱々しいイメージを抱いていたというのが正直なところです。『世の中、そんなに甘くないだろう。弱肉強食の世界で、そんなきれいごとが通用するのか』、そういう思いがなかったわけではありません。しかし考えてみると、この良心という言葉こそ先輩を救った究極の武器でした。」

本当のことを書こうと決断したのは、若き日に見た「良心」という石碑に刻まれた言葉でした。良心はどこから生じるのか、普遍的なものと言えるのか、分らないことはたくさんあります。しかし、今の話において、それはまさに上から出た知恵ではなかったでしょうか。

それではこのような上からの知恵をどのようにすれば得ることができるのでしょうか。学生時代に、「良心」という言葉を別に授業で学んだわけではありませんでした。おそらくそれほど意識せずに見ていた、それだけでありましたが、いざというときにこの人を支えました。とても大切なことです。学生時代よりももっと前、小学生や、幼稚園のころに教会に行っていたという、それも大きな心の種まきであると思います。

今からもう20年も前ですが、ロバート・フルガムという人が書いた「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本がありました。人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ。この本を読むと、日本語に訳されたタイトルが正確ではないことに気付きます。なぜならそこは、教会学校だからです。

教会学校、わたしたちの教会でも毎週小さな子たちが集まって礼拝をしています。幼児から高校生までいるので、お話をする側は大変です。小学生向けに喋っているつもりでも、実際には難しい話をしてしまっていることがあります。言いたいことが伝わっているのかどうか、まるで自信がありません。礼拝が終わったあとは、お絵かきをしたり、工作をしたりして遊んでいます。高学年になると、塾やお稽古事、少年野球やサッカーが忙しくなって教会学校に来なくなります。なんのためにしているのかと思えなくもありません。でも、フルガムさんの本のタイトルはそんなわたしたちにとって力になります。人生に必要な知恵はすべて学校で学んだとか、塾で学んだというのではなく、教会学校で学んだというのです。それも教会学校の礼拝説教で学んだとか、聖書研究で学んだというのではなく、教会学校の砂場で学んだというのです。

教会学校でしていることは本当に小さな働きです。効率とか、結果ということから言えば、何をしているのかわからないような働き。何かを教えるというよりはどうやって遊ばせるかを考えながらやっている状態です。でも、そうであっても、いざというときに、上から与えられた知恵として人々を支えるに違いない。またいつか大人になったとき教会に来てくれるに違いない、聖書を読んでくれるに違いない。それは決して負け惜しみではなく、事実そのとおりだと思うのです。

ヤコブ1章5節に書かれています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」知恵の欠けている人、このように言われると誰であっても、ああ自分のことだ、わたしのことだと思わずにおれません。そのようなわたしたちが知恵を得るにはどうすればよいのか。熱心に勉強して偏差値を高めればよいのか。それでは知識は高まるでしょうが、知恵が高まるということはできません。知恵を得るには、それはただ神に願うことだとヤコブは言います。つまりは上から来る知恵を願い求めることです。

言い換えれば、知恵をいただくには心を神さまに向けることだと、ここで教えられています。旧約聖書の箴言に「主を畏れることは知恵の初め」という有名な言葉があります。実はこの言葉は、口語訳聖書では、「主を畏れることは知識の初め」と訳されています。でも、どうやら新共同訳のように「知恵」と訳したほうが原文に忠実なようです。何かを積み重ねるような知識ではなく、神さまを信頼して生きる生き方をさしているからです。

箴言には、ほかにも心に残る言葉がたくさんあります。9章10節、「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」16章6節、「慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。」22章4節、「主を畏れて身を低くすれば、富も名誉も命も従って来る。」この最後の言葉についてひとこと言えば、主イエスの「まず神の国と神の義を求めなさい」という御言葉を思い起こします。わたしたち富や名誉や命を目的とするのではなく、まず神の国と神の義を求める、まず主を畏れて身を低くする。そうすれば、「これらのものはみな加えて与えられる」と主は語っておられます。

言うまでもありませんが、富や名誉や命を得るためにそうするのではありません。主を畏れて身を低くする。そのとき、神さまはこの世の生活における安心、安定も、備えてくださるという信頼です。

しかしそれにしても、このように主を畏れて生きることが本当にわたしたちにできるのでしょうか。わたしたちはいつも自分のことばかりを考え、神さまを忘れてしまっています。「まず神の国と神の義を求めなさい」という教えを知っていながら、まず自分のことを考え、今日のパンのことを考え、明日を思い煩っているのが現実だからです。今日の聖書の箇所4章3節に、「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と書かれていますけれど、まさにそのとおりで、「富や名誉や命をください。そうすれば主を畏れましょう」と、逆転した考えに陥っているのがわたしたちの日常の姿です。

ヤコブ3章17節に書かれている「純真、温和、優しさ、従順、憐れみ、偏見はなく、偽善的でもありません」という言葉も、わたしたちの現実から程遠いものです。少しは純真で、少しは温和で、少しは優しさを持っているかも知れませんが、そうではない面をわたしたちは自分のなかに、また他人のなかに見つけてしまいます。自分のなかに偏見がいっぱいあり、また偽善的であることも知っています。このように生きることが本当にできるのでしょうか。

このように考えると、ここに書かれているような生き方ができるのは、ただお一人しかおられないと気付かされます。それは、「悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々」は幸いであると言われた主イエス・キリストにほかなりません。エルサレムに入城された主イエスをマタイは、「柔和な方で、ろばに乗り」と旧約聖書を引用して述べています。主イエスがお生まれになったとき、マリアが歌いました。「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」フィリピ2章には、主イエスが「十字架の死に至るまで従順であられた」と記されています。

ヨハネによる福音書3章でバプテスマのヨハネがイエス・キリストについて次のように言っています。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」さらにヨハネ8章23節で、主イエスご自身が「わたしは上のものに属している」と宣言しておられます。ここから教えられることは、主イエスの生きられた生にこそ、上から出た知恵が現されているということです。

したがって、上からの知恵を求め、主を畏れ、神の国と神の義を求めるとき、わたしたちには、主イエス・キリストが与えられているのですから、わたしたちは主イエスに学び、主イエスに従い、主イエスに倣うことができるのです。主イエス・キリストに表された上からの知恵を感謝して受け止め、従い、歩んでいきたいと願います。

(2009年9月20日礼拝説教)