番町教会説教通信(全文)
2009年6 「霊の導きに従って」           牧師 横野朝彦

ガラテヤ5・16−26

主イエス・キリストが逮捕され、十字架に死なれたとき、弟子たちの多くはその場を離れ、逃げてしまいました。十字架の場にいたのは、わずかにマグダラのマリアをはじめとする女性たちだけでした。男の弟子もいた可能性はありますが、少なくとも12弟子と呼ばれる人たちは、その場にいなかったようです。彼らは、主イエスが逮捕されたとき、我が身を守るために、逃亡し、身を隠し、主を裏切っていきました。

逮捕、十字架の時だけではありません。その後、主に従っていた女性たちは、復活の主に出会い、弟子たちに知らせますが、彼らはそのことをただちに信じることが出来ず、ともかく恐れを抱いていたと聖書は証言しています。彼らは、主の弟子であると自負していたにもかかわらず、主の逮捕と共に逃亡し、主の復活を信じることが出来ず、主を信じることも、主に従うことも出来ませんでした。

彼らはそんな自分たちの愚かな姿、弱い姿を見てしまいました。それゆえ、彼らはもはや立ち直ることなど到底出来ない有様ではなかったでしょうか。あんなに弱い自分、あんなに愚かな自分の姿を見てしまった。他の仲間たちも、同じだった。我こそは一番弟子なりと、胸を張っていたペトロが、主のことを3度も知らないと言ってしまった。もはや誰に付いていくことも出来ず、自分の力で立ち直ることもかなわない、そんな状況でした。

このことは、決して主イエスの弟子たちだけのことではありません。わたしがその場に居合わせたとすれば、わたしもまたその場を逃げ出したひとりであると思います。他人事ではなく、わたしのことです。星野富弘さんが次のような詩を書いておられます。

「悲しくなってしまいます。あなたが十字架につけられた時、信じているといっていた男達が、逃げてしまいました。私はあの人達より、もっと弱い気がします。そういうふうになったら、私も逃げ出してしまうのでしょうか。そのことを思うと、悲しくなってしまいます。どうか私を、特に強く、?んでください。」

弟子たちよりももっと弱いわたし、悲しくなってしまうこのわたし、どうかこのわたしを特に、強く、?んでくださいと、星野さんは歌います。神さまに?んでいただかなければ、わたしは何もできない。神さまの力をいただかなくては、わたしはどこへ行ってしまうのか、どこへ逃げて行ってしまうのか分らない。どうか?んでくださいと、わたしたちもまた祈らずにおれません。

主イエス・キリストの弟子たちは、十字架の場面で逃げ出し、復活のことを聞いても信じることなく、まさに弱さのなかにありました。しかし、そんな彼らが福音を宣べ伝える者となり、教会を建て、キリスト教の最初の宣教者となったのはどうしてでしょうか。世界中にキリストの福音が伝えられたのは、彼らの働きがなければできなかったことです。では、彼らがあるとき頑張って、逃げ出さない人間になったからでしょうか。彼らが信仰を強くして、どんなことでも信じる人間になったからでしょうか。

そうではなく、星野さんの詩に歌われていたように、神さまが彼らを特に、強く?んでくださったからにほかなりません。神さまが彼らを特に、強く?んでくださった。それは、聖霊降臨という出来事によっておこりました。聖霊降臨、聖霊、神さまの霊が彼らのうえに降り、彼らはそのことによって力を得て福音宣教に遣わされて行ったのです。

使徒言行録1章によると、甦られた主イエスが弟子たちに語っておられます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」ここで「あなたがたは力を受ける」と語られているように、まさしくこの出来事によって、あの逃げ出した弟子たち、弱さのなかにあった弟子たちは、神さまによって?んでいただいたのでした。

今日は聖霊降臨日です。聖霊降臨日は教会の誕生日だと言われています。教会の誕生、それは、主イエス・キリストが天に召された後に、弟子たちが福音を人々に伝え始めた最初の日だということです。そして、弟子たちの福音宣教によって、最初の教会が各地に生まれていきました。それは確かに、直接的には弟子たちの働きによるものですが、より正確には弟子たちを?んでくださり、弟子たちに力を与えてくださり、働きかけてくださった聖霊の働きによるものでした。今日の説教の題の言葉で言えば、聖霊の導きによるものでした。

聖霊降臨日のことをペンテコステとも言います。ペンテコステとはもともとギリシャ語の50という単語から来ています。ユダヤ教の伝統的な祭りである過越祭から50日目、五旬祭というときのことです。そして主イエス・キリストの十字架と復活は、まさにユダヤ教の過越祭のときにおこりましたから、主の十字架と復活から50日目のときに、聖霊降臨という出来事がおこったのです。それは、使徒言行録2章に書かれている不思議な出来事です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」

主の十字架と復活から50日目。その間、弟子たちはどのように日々を過ごしていたでしょうか。どんなことでも、何をするにしても、準備が必要ですから、彼らは福音宣教のための準備をしていたと考えたいところですが、実際にはそれとは程遠いものでした。既に述べたように、彼らはむしろ、自分たちの弱さや不信仰に打ちのめされていたと思えるからです。しかしそんな彼らが集まっているとき、神さまの霊が彼らの上に降ったのです。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

この出来事こそが教会の始まりでした。もちろん、教会堂はおろか、礼拝堂もなく、教会の組織のようなものは何もありませんでしたが、このとき、教会は誕生したのです。以来2000年間、教会はキリストの福音を伝えてきました。そしてこの聖霊降臨の出来事は、教会が絶えず立ち返るべき出発点であると思います。

どんな組織でも、人間の集まりは権力を持とうとし、また堕落をするものであると思います。残念ながら教会も例外ではありません。2000年のキリスト教の歴史のなかには多くのことがありました。キリスト教神学が系統的に整えられたいっぽうで、異端審問によって反対者を抹殺していきました。教会という組織が権力をふるったのです。そういった反省をこめて、わたしたちは、人間の力によらず、ただ神さまが与えてくださる聖霊の力によって教会が始められていった、そこへ立ち返ることが必要であると思います。 

さて、それでは最初に聖霊を受けた弟子たちは、何を語り、何を福音として伝えたのでしょうか。彼らが伝えたもの、それはイエス・キリストの御言葉であり、イエス・キリストの十字架と復活の出来事でした。その内容は使徒言行録によって知ることができます。2章に書かれているペトロの説教、これは聖霊降臨の出来事に驚く人々に語りかけられた説教です。美しい門の前でペトロとヨハネが足の不自由な人を癒したあとで、ペトロは神殿で説教をしています。7章にはステファノの説教が書かれています。ステファノはこの説教のあとで、石を投げられ、殉教の死をとげています。

これらの説教は、旧約聖書の昔から話が説き起こされ、約束されていた救い主が来られたこと、そのかたこそ主イエス・キリストであると、理路整然と語られています。初代教会でおこなわれていた説教を知るうえで、貴重な資料というべきです。でも、わたしはあえて申し上げますが、これらの説教は、後の教会によって整えられたものではないかと思うのです。ガリラヤの漁師であったペトロがこれだけ理路整然と語ることができたとはちょっと思えません。もちろん、これらの元となること、骨格をペトロたちが語ったのは事実でしょう。でも、それはもっと朴訥としたものではなかったでしょうか。飾り気もなく、たどたどしい喋り方ではなかったかと思うのです。

しかし、それでもその言葉は人々の心を動かしました。心に響くものでした。わたしは彼ら弟子たちが何を語ったかということで注目するのは、聖霊降臨の出来事のときに、周囲にいた人たちがもらした感想の言葉です。この出来事を目撃した人たちが言いました。「彼らが・・神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」弟子たちが語った言葉、それは、神の偉大な業についてでした。神の偉大な業、それは神さまが救い主イエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪の購いとしてくださったこと、主が私たちのために命を捨ててまで、私たちを愛してくださったという、福音です。

しかし、申しましたように、彼らがそんな上手に理路整然と語ることができたとは思えない。むしろわたしはペトロたちの言葉によって、神さまの愛が心に響くようにして伝わっていったのだと思います。考えてみれば、この点こそ、今説教をしているわたし自身の最も心がけるべきことであり、常に反省をせまられるところです。いかに語るかに気を取られて、心響くには至らないというのが、現実であろうと思うからです。

ところで、パウロの書いた手紙のなかに、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」という有名な一節があります。ガラテヤの信徒への手紙3章です。この言葉にあらわされているような生き方、生活態度が、初代教会にありました。

例えば、当時は奴隷制度が当たり前のことでしたけれど、キリスト者は奴隷をまるで兄弟のように扱うということで、社会からは不思議に思われていたのです。

ボッシュという神学者が、キリスト教の宣教がどのようにおこなわれてきたかを、「宣教のパラダイム転換」という上下2巻の本にまとめています。この本に次のように書かれていました。「初期キリスト教宣教の革命的性格は、とりわけ、キリスト教共同体において存在するようになった新しい関係において現された。ユダヤ人とローマ人、ギリシア人と未開人、自由人と奴隷、富める者と貧しい者、女と男が、お互いに相手を兄弟姉妹として受け入れた。」このような教会のなかの人間関係は、ローマ帝国をはじめとする当時の社会にとって、非常な驚きであり、まさに革命的なものだったのです。

当時のキリスト者は、貧しい者、孤児、やもめ、病人、鉱山労働者、囚人、奴隷、旅行者の世話を熱心におこない、ひとつの共同体を作っていきました。そして、ボッシュの本に書かれていた言葉でわたしがなにより強くひきつけられたのは、次の言葉でした。これはもともとハルナックという著名な神学者の言葉だそうです。「キリスト者が語った新しい言葉は愛の言葉であった。しかし、それは言葉以上のものであり、力と行動であった。」

聖霊降臨によって、弟子たちは「神の偉大なわざ」を語りました。その内容は、イエス・キリストの御言葉であり、十字架と復活の出来事でありましたが、申しましたように、それが最初から理路整然とした神学であったはずがありません。むしろ人々を惹きつけたのは、奴隷や貧しい者や病人が、ほかの人たちと同じに扱われることの不思議さであり、それはまさに「愛の言葉」であったということです。力と行動を伴った「愛の言葉」に、人々は、特に弱さと苦しみのなかにある人々は、惹きつけられ、最初に紹介した星野さんの言葉を用いれば、神さまに?んでいただいた体験をしたのです。

今日読んでいただいた聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙5章です。ガラテヤの信徒への手紙は、わたしたちキリスト者が、律法から自由であること、律法のおきてにしばられる必要がないことを強く主張しています。キリスト者は自由なのだと、手紙のなかで繰り返し述べられています。しかし言うまでもなく、自由であるからと、何をしてもよいわけではありません。好き勝手なことをし、自分勝手なことをし、それで自分は自由だなどと言うのは、自由のはき違えです。

この手紙のなかに、わたしの好きな聖書の言葉があります。それは、5章13節です。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」わたしたちは自由なのだ、しかしその自由を、誤って用いるのではなく、愛によって互いに仕えなさい」と、これは素晴らしい教えだと思います。

そして、この言葉に続けて、今日読んでいただいた5章16節以下があります。愛によって互いに仕える、このことをわたしたちはどのようにすれば実現できるのか。わたしの強い意志なのか、わたしの強い善意なのか、パウロは人間の強い意思や善意であるよりは、神さまがくださる聖霊の導きに従う生き方であると言うのです。

そして5章22節で述べられています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」初代教会の人々は、聖霊を受けることによって、神の偉大なわざを語りました。それは愛の言語でした。当時の人々は、初代教会の人々が語るそれらの言葉、口先の言葉ではなく、力と行動を伴った愛の言語に心惹きつけられました。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったことが、初代教会の共同体において実現していることに人々は驚き、惹きつけられていったのです。

わたしが洗礼を受けた教会は、ふたつの社会福祉団体と強いつながりを持っていました。どちらもそこの教会の信徒が設立したものでした。そのうちのひとつは城ノブという女性が1916年、大正5年にはじめたものです。日露戦争後の不況時代に、農村では若い女性が人身売買され、家庭においても女性の地位が低く、母子心中が多くありました。その現状に心痛めた城ノブは、3日3晩、祈り続けたそうです。そして彼女は聖霊によって不思議な力を与えられたといいます。それがどのようなものであったのかわかりません。でも、彼女はそれから女性たちの収容施設を作り、その働きは今日も母子支援施設として続いています。設立の主旨は旧約聖書イザヤ書61章の言葉です。「主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」

わたしたちも、聖霊をいただいて、愛の言語、愛の言葉を、言葉とおこないによってあらわす者になりたいと願います。キリスト教の宣教は、牧師や宣教師だけがするものではありません。先程読んだボッシュの本に書かれていました。「初代教会の宣教において、巡回説教者や修道士の働きよりも、はるかに重要だったことは、信徒の行い、すなわち、彼らの口と生活によって伝わった『愛の言語』であった。それはいわば、『行いによる布教』だったのである。一般大衆を惹きつけたのは、巡回して歩く伝道者や修道士の奇跡だったのではなく、平凡なキリスト者の模範的な生活だったのである。」

ここで言われている模範的生活など、自分にはできないと思われるでしょうか。そうではありません。確かにわたしたちの力ではできないでしょう。自分にできるなどと、もし思うとすれば、それはとんでもない勘違いです。そうではなく、弱いわたしを神さまに?んでいただくことです。そして、聖霊の導きを祈り求め、霊の結ぶ実である愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を、少しでもあらわしたいものです。

     (2009年5月31日 聖霊降臨日礼拝説教)