番町教会説教通信(全文)
2009年5 「命を受けるため」           牧師 横野朝彦

ヨハネ10・7―18

経済が破綻し、失業者が多く出ているなかで、新たに新型インフルエンザが世界的流行のきざしを見せ、いったい世の中どうなっていくのだろうと思わされます。幸い毒性は弱いようで、あまり過剰に反応するのはよくないように思えますが、それでもメキシコでの死者の数を考えると大変なことです。これ以上被害が広がらないように。また罹病した人が速やかに癒されるようにと祈り願います。

アメリカの巨大企業が破産手続きに入り、経済は当分よくなる見込みはなさそうです。そのようななかで、わたしたちの国もこれからどうなるのかと思わされます。経済刺激策や、消費拡大策が取られています。わたしはここで、政治とか経済を語ろうとするつもりはありませんし、またそのようなことを話す能力もありません。でも、わたしは率直な気持として、なにかおかしく感じます。わたしたちの社会は豊かさを享受してきました。まわりに物が溢れています。もちろん誰だって欲しいものはいっぱいありますが、でも、何か違うと思えてなりません。豊かさを享受してきたその社会が行き詰ったのです。そこで、さあ消費を拡大しようと言われても、ちょっと違うのではないかと思わずにおれないのです。

わたしたちの豊かさが途上国の貧しさによって支えられているのは確かなことです。自分ではそうは思っていなくても、わたしたちは誰かを踏み台にして生きているに違いありません。わたし自身、この国の豊かさの恩恵を受けてきた一人でありますし、今もそうなのだと思いますから、何かを論評する資格などないのですけれど、こういう生き方、あり方を少しでも見直していきたい。今はそのある意味でチャンスというか、機会が与えられているのではないでしょうか。

カトリックの神父である森一弘さんが書かれた「みことばのしらべ」という本があります。もともとカトリック新聞に連載したものが、ショートメッセージとして本になったものです。この本のなかに、「狼の論理」という言葉がありました。「自分の欲望のためには、役立つ他人を利用し、用がなくなったら捨ててしまう」、そして「邪魔者はつぶしてしまえ」という論理だそうです。こういう倫理がこれまでの社会では幅をきかせてきました。そして今もそのような倫理が世の中の多くを支配しているように思えます。

狼の論理、まさに数多くの狼が横行してきました。経済、お金がすべてに優先する価値観が蔓延しています。テレビのバラエティ番組で、いかにもくだらないことで笑いをとり、何十万、何百万の賞金が出るというのがあります。見ているわたしたちの心までが麻痺をさせられているに違いありません。この番組自体を狼とは思いませんが、価値観の麻痺という意味でわたしたちたち知らず知らずに狼の餌食になっているのかも知れません。

その昔、ナチスドイツはユダヤ人を虐殺しました。対象はユダヤ人だけではありませんでした。劣っていると思われる人たち、生産性がないと思われた人たちが抹殺されていきました。精神を病む人たちも、ガス室に送られていきました。社会の役に立たないと考えられたからです。これらの歴史を振り返るとき、人はどうしてこんなにまで残虐になれるのだろうと思われ、そればかりか、わたし自身もその一人なのだろうかと思うと、まさに身震いがします。

ジェーン・グドールという動物生態学者が書いた「森の旅人」という本を前に紹介したことがあります。そのときは生と死ということから一部を引用したように思います。今日この本を思い出したのは、チンパンジーの生態を研究する中でグドールさんが争いや和解について述べているところです。グドールさんは、ヒトラーのユダヤ人絶滅計画、旧ソ連における反体制派への弾圧、中国やカンボジアでの弾圧、虐殺などについて述べ、次のように述べています。

「ヒトの攻撃行動には、じつは独自な点がみられる。チンパンジーは自分が攻撃している相手の苦痛をある程度理解しているようだが、かといって、ヒトほど残酷になれる能力はけっしてもちあわせていない。相手の苦痛を知っていながら、むしろ知っているからこそ、故意に相手に身体的、精神的苦痛を負わせることができるのは、われわれヒトだけである。」このような言葉を読むと、人間はなんと恐ろしい存在であろうかと思わされます。今紹介したのは、チンパンジーの生態の研究から出た言葉ですけれど、ひょっとしたら、狼の生態を研究した場合も同じ結論になるのかも知れません。狼の論理といいますが、狼以上に恐ろしいのが人間なのかも知れないのです。

このような人間の生態を聞くと、まったく希望が失われる思いがします。でも、グドールさんは、続けて、自己犠牲的な愛について語ります。実のところチンパンジーにもそのような行動が見られるのだそうです。チンパンジーは泳ぐことができません。で、動物園のチンパンジーは多くの場合水を張った濠にかこまれているのだそうで、その水におぼれそうになった仲間を助けるために、自分が死んでしまったチンパンジーがいる、しかもそういうケースがたくさんあるのだといいます。

そこでグドールさんは言います。「ヒトの邪悪なふるまいがチンパンジーの攻撃行動にくらべてはるかに悪質なものにみえるのと同じように、ヒトの利他的行動や自己犠牲もまた、チンパンジーによるそれよりもはるかに壮烈で高貴であることが少なくない。」そして、グドールさんは、苦境にある仲間を救うために、はっきりと自覚的な行動を取ることができるのは、そして仲間を救うためにいのちを捨てることを意識的に決意することができるのは人間だけであると述べ、続けてそのような例をたくさんあげておられます。

アウシュビッツの強制収用所で、コルベ神父が他の囚人の身代わりとなって死んでいったこと、その自己犠牲の行動は口から口へと伝えられ、生き残った囚人たちを励まし、希望と愛のともし火を与えたこと。ポーランドで多くのユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーのことは、「シンドラーのリスト」という映画になりました。日本の領事だった杉原千畝さんは、8000人ものユダヤ人に出国の許可証を発行しました。日本人ではありませんが、オランダでも2000人に移住許可を与えた領事がいたそうです。そして杉原千畝さんは、「日本政府には背いたかもしれません、でも、そうしなければ、わたしは神に背くことになるでしょう」と言いました。

グドールさんはこのような例をもっと多く、詳しく述べ、そしてその章の終わりでイエス・キリストについて語るのです。「わたしの願うことではなく、御心にかなうことがおこなわれますように」という主イエスのゲッセマネでの祈りが引用され、主キリストが「みずからの行為が人類を救うことを信じて、みずからを犠牲にした」ことを語ります。

グドールさんの本は、チンパンジーの生態研究でありながら、すぐれた人間研究です。そして長くなるので引用はこれ以上いたしませんが、わたしたちの心を神さまへと向けてくれている、宗教書といってもよい内容を持っています。

今日お読みいただいた聖書の箇所は、「イエスは良い羊飼い」と見出しがつけられたところです。主イエスはしばしばわたしたちを羊に例えて話をしてくださいました。主イエスが語られた有名な話に100匹の羊の内の1匹がいなくなってしまったとすれば、羊飼いは他の99匹をその場に残してでも失われた1匹を探すという話があります。この世の価値観からすれば、1よりも99のほうが大切であると考えます。いなくなった1匹は、その羊に何か問題があるのであり、世の中についていけない落ちこぼれとして処理されてしまいます。しかし主イエスは、そのような価値観を逆転させ、失われた1匹を探し求めてくださいました。

人間はいくら、自分は強い、自分は誰の力にも頼らずに生きていけると思っていても、現実にはそうはいかないものです。一人で生きているつもりが、いつのまにか、帰ることの出来ない山や谷間に迷い込んでしまうのです。まさに迷える羊です。

しかもそこには羊を脅かす存在がたくさんあります。8節にあるように、盗人、また強盗がいます。そしてまた12節に出てくるように、狼がいるのです。それらは、羊を奪い、傷つけ、また羊の命そのものを危険にさらします。恐ろしい存在です。しかも今日お話をしてきたことを思えば、人間というのは、同じ仲間の人間だと思っていたら、実は羊の面をかぶった狼であるといった、怖いことがおこるのです。いや他人事ではなく、わたしたち自身が、いつのまにか狼の論理に支配され、他者を傷つけ、他者のものを奪ってしまっているのかもしれません。

人間は、狼になることができる。あるいは狼以上に凶暴で残酷になることができる存在です。10節に「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため」とありました。12節に「狼は羊を奪い、また追い散らす」とありました。そしてそれ以上に、故意に相手に身体的、精神的苦痛を負わせることができる、それが人間でした。

しかしそのような人間の生態、恐ろしく、希望がないような人間の生態であるにもかかわらず、他者を救うためにいのちを捨てる行動を意思的に決意することができるのも人間だけであると教えられていました。そして、主イエス・キリストはまさにそのような人間の可能性を、ご自身の生と死をとおしてわたしたちに示してくださったのです。

今日お読みいただいた7−18節は、まるで螺旋階段のように同じ言葉が繰り返されながら、より高いところへわたしたちを連れて行ってくれる、そんな表現がされています。最初に7節で「わたしは羊の門である」と言われています。そしてその直後の9節で「わたしは門である」と言われ、11節では「わたしは良い羊飼いである」と言われています。これらは本来別のものであるはずなのに、ここでは共に主イエス御自身をあらわす言葉として使われています。すなわちそれは、主イエスが失われた一匹を捜し求めてくださる羊飼いであること、主イエスが私たちを青草の原に導いてくださる方であること、そしてそれと同時に、ほかならず、主イエス御自身が道であり入り口だということ、直接的には、そのような羊たちのための羊の囲いの入口ということです。

エルサレムという町は、昔の町の多くがそうであるように、大きな城壁に囲まれていました。その城壁の門の名前のひとつに「羊の門」というのがありました。そのことを考えると、ここで羊とは城壁のなかにいる人たちのことであり、それを守っている門とは主イエスご自身のことと言うことができます。いや、そのような一つの町とそこに住む人だけのことではなく、わたしたち人間を守り、また導いてくださる存在として例えられているようです。主イエスはまた、ヨハネ14章で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と教えてくださっています。ご自身を羊の門と言ってくださった主イエスによってこそ、わたしたちは命に至ることができるのです。

ご自身を羊の門、あるいは門と言われた主イエスは、続けて、わたしは良い羊飼いであると言われます。羊飼いとはどのような人でしょうか。羊を飼っている人、簡単に言ってしまえばそれだけのことですが、もちろんそれだけではありまません。主イエスは14節でその特徴を述べておられます。それは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という言葉です。主はなによりもわたしたちのことを知っていてくださるのです。

羊というのは、わたしたちにとって、どれも同じ顔のように見えますが、実際に羊を飼っている人にしてみれば、そんなことはなく、顔を識別することができるし、それぞれが大切な一匹であるといいます。もし、1匹が群れを離れてどこかにいったならば、他の99匹をおいてでも、失われた1匹を探し求めると譬話で教えられていますが、それは100分の1匹ではなく、それぞれ名前のある、かけがえのない貴重な1匹です。

ところがそのような1匹が迷うことがある。群れをはずれて、外へ行ってしまうことがある。そして迷い、あるいは襲われ、追われ、傷ついてしまいます。いや、今日わたしが話をしてきたことから言えば、羊がどこかへ行ってしまい、いつのまにか、凶暴な狼の顔になっていることもありえる話です。先日、自分の娘を殺害したという容疑で逮捕された女性の写真をテレビで見ました。数年前、娘さんと保育園に通う楽しげで幸せそうな様子の写真と、現在の写真の落差の大きさに驚きました。もちろん写真だけで判断はできませんけれど、それにしても、優しい羊にも、凶暴な狼にもなることができるのが人間なのだということです。

そんなわたしたちでありますから、狼になることのないように、あるいは一度は狼になったとしても再び自分を取り戻すことができるように、わたしたちには、羊の門が必要です。良い羊飼いが必要です。そして「わたしは羊の門である」、「わたしは良い羊飼いである」と言ってくださっている主イエス・キリストに従い、養われるわたしたちでありたいと心から願うのです。

今日の聖書の箇所はいくつかの段落に分けることができます。そしてその段落が、さっき言ったように、螺旋階段状になっています。7−10節は羊の門についてです。そして10節で、主イエスがこの世に来られたのは、わたしたちが命を受けるためであると宣言されています。ヨハネによる福音書では、主イエスがご自身のことを、命のパン、命の水とも言っておられます。主イエスがこの世に来られたのは、わたしたちが、まことの命に生きるためなのです。そしてそのために、主はご自身をささげてくださいました。

11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と述べられています。狼が来れば逃げてしまい、羊のことなどかまわないのではなく、良い羊飼いは羊のために命を捨ててくださる方なのです。そして同じ言葉が14節でも繰り返されます。

ヨハネの第一の手紙3章16節に、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」と記されています。また4章9節には、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」とあります。主イエスがご自身をささげてくださった、そのことによって、わたしたちは、生きる道が開かれたのです。わたしは道であるとも言ってくださった主イエスによって、狼としての生き方ではなく、高貴な生き方をすることができる、そして神さまのもとにつながる道が開かれたということです。

そして17節以下で、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」、「わたしは自分でそれを捨てる」と言ってくださっています。これは主の復活のことであるとともに、これによって永遠の命に至る道が開かれたことをあらわしています。

わたしたちの前には2つ以上の道があると思えます。ひとつは狼の論理を生きる道です。狼以上に凶暴な道なのかも知れません。そしてひとつは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言ってくださった「羊の門」の道、そして「羊のために命を捨てる」と言ってくださった主イエスの道です。まことの命を得るための道がどちらであるかは明らかなことです。そのためにも、良い羊飼いである主イエスの導きに従って歩んでいきたいものです。16節にあるように、「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる」、この祝福にあずかるために、心して、羊飼いである主イエスの御声を聞き、従っていきたいと願います。

     (2009年5月3日 礼拝説教)