番町教会説教通信(全文)
2009年3 「神の愛」                 牧師 横野朝彦

ヨハネ3・14―16

 今から30年近く前、わたしが大阪の教会で牧師をしていたとき、一人の年配の女性が「この教会の住所は素晴らしいですね」と言われました。わたしは何のことかわからず、聞き直してみると、「ここの住所は3番16号」だと言われるのです。それでも何のことか分からず、さらに聞き直すと、ここの住所は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ことを言い表しているとおっしゃるのです。お分かりでしょうか。この聖書の言葉は、今日読んでいただいたヨハネによる福音書3章16節です。そして教会の住所は3番16号でした。わたしがその時どのように返事をしたかは覚えていませんが、単なる数字の一致とかではなく、そのようにおっしゃる素朴な心、素直な心に感動したというのが、その時の気もちでした。だからこそ、その時のことを今も覚えているのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この聖書の言葉は、聖書のあらゆる言葉のなかでも重要であり、最大の言葉だと言われています。宗教改革者のマルティン・ルターは、この聖句を「小福音書」と言ったそうです。3章16節のひとことだけで、これでもう充分にひとつの福音書であるとルターは考えたのです。そしてこれは、このように言われるにふさわしい御言葉であると思います。

神さまはわたしたちを愛してくださっている。独り子イエス・キリストによって愛が現された。これはまさに福音です。愛が冷えた時代と社会にあって、わたしたちが愛されているというのは、それだけで喜ばしいことです。でも、ここでイエスというかたがただ愛情深いかたであったとか、情け深いかたであったというだけであったならば、それはそれで素晴らしいことですが、だからと言ってこの人のことが2000年も言い伝えられることはなかったことでしょう。

昔々イエスさまという優しい人がいました。ここで言われているのは単なる優しさではありません。主イエスが十字架にかけられたとき、この出来事を目撃したローマの軍隊の百人隊長が言いました。「本当に、この人は神の子だった。」つぶやくように言ったのでしょうか。それとも叫ぶようにして言ったのでしょうか。いずれにせよ思わず口から出た言葉、それは信仰告白の言葉でした。

どうしてこのような信仰告白の言葉が出てきたのでしょうか。どうしてこのように言うことができたのでしょうか。それは人の心を突き動かす大きなものがそこにあったからです。それは優しさとか柔和とか親切とか、そんな言葉では表現できない、人を本当に深いところから生かしてくれる何かを感じたからに違いありません。主イエスと出会った人たちは、このかたのなかに、単なる愛の深さではなく、まさしくこの人の生涯と、そして十字架の死が自分自身と何かかかわりがあると感じたのです。自分自身の生き方を何か変えてくれるような、突き動かされる何かを覚えたのです。そしてそれは単なる愛の深さというよりは、神の愛としか言うことのできない何かを感じたのでした。

3番16号という住所が素晴らしいですねと言われた話をしました。3の16、聖書が書かれたときには、何章何節など書かれていたわけではありませんから、その数字に意味があるとは思えません。でも、まったく偶然の一致でありますが、ヨハネの第一の手紙3章16節もまたわたしたちにとって重要な言葉です。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」これはヨハネによる福音書3章16節と同じ内容。これもまた「小福音書」と呼ぶにふさわしい言葉ではないでしょうか。しかも、神の愛が、主イエスのご自身を捨てることによって現わされたと告白されている御言葉です。

このことを思えば、今日の箇所で「神は、その独り子をお与えになったほどに」と言われているこの「お与えになった」とは、単にプレゼントとしてイエスさまをいただいたという程度の意味ではありません。単なるプレゼントではなく、主イエス・キリストがご自身を十字架にささげてくださったということがこの言葉のなかに含まれています。

以上お話をしてきたように、ヨハネ3章16節は大変に有名であり、このひとことで「小福音書」と呼ばれるほどで、またそのように言われるに十分ふさわしい言葉です。礼拝堂の講壇の上に置かれているこの聖書、いつも開かれて置かれています。礼拝で読まれる聖書のページが開かれていますけれど、それ以外の日、普段の日は、たいていヨハネ3章16節のページを開くようにしています。必ずそうしなければならないというものではありませんが、わたしが若い時に誰かから教えてもらったことです。まさに中心的な福音がいつも開かれているということです。

で、このように有名で、大切にされてきた聖句でありますが、ここでしばしば忘れられることがあります。聖書を読む時は、なるべく一行だけ取り上げるのではなく、前後関係を大事にし、全体の文脈を覚えながら読むことが大事なのですけれど、ヨハネ3章16節に関しては、そのことが忘れられて、まさに1行だけが読まれることが多いのです。ではこの言葉はどのような文脈のなかで語られた言葉なのでしょうか。

3章16節の御言葉は、3章1節からの話に含まれているものです。3章の初めに「イエスとニコデモ」という見出しが付けられています。主イエスとニコデモは、新しく生まれるということについて言葉を交わします。そして主イエスがニコデモに対して教えられるのが3章10節以下です。そしてこの教えは10節から21節まで続きます。ですから3章16節は10節から21節までの主イエスの教えのなかに含まれている言葉なのです。

ニコデモについては、以前にもお話をしたことがあります。この人は3章1節によれば、ユダヤ人たちの議員でした。ユダヤ人たちの議員というのは、一般にサンヘドリンと呼ばれています。日本語では宗議会、宗教の宗と議会、と訳すことが多いようです。律法を日常生活においてどのように解釈し、適用するか、また民事事件を律法に照らしてどう判断するかという裁判所のような役割です。ですから、ニコデモがかなりな社会的地位にあった人だとわかります。ニコデモはイエスというかたのうわさを聞きます。そこで彼は主イエスに会いに行くのです。

でも、彼の地位や立場を考えると、あまり人目にふれるのはよくないと思ったのでしょう。彼は夜暗いなかを主イエスに会いに行きました。1節に書かれているように、「ある夜」と書かれ、会いに行ったのが夜であったというのは、彼自身の心のなかにある暗さをあらわしていると読む向きもあります。

ニコデモは神の救いを真剣に求める人でした。ルカ10章で律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねていますけれど、ニコデモの気持ちもこれと同じであったはずです。どうすれば救いを得られるのか、何をすれば永遠の命を得ることができるのか、どんな善いことをすれば神さまに良しとされるのか、彼は真剣に求めていたのです。しかしおそらく、ニコデモはそのような努力にもかかわらず、なにか満ち足りない思い、満たされない気持ちを持っていたに違いありません。

素晴らしいしるしをされるらしい。これは神さまが遣わされたかたではないか。そう思って、主イエスに会いに行きました。ところがそのような彼の願い求めに対して、主イエスは、神の国に入るために必要なのは、あなた自身が生まれ変わることだと言われたのです。ニコデモは驚きます。彼はこれまで真剣に神さまを求め、神の国に入るために何をすればよいかと考え、行動してきました。ところが、生まれ変わることが大事だと言われ、いったいこれは何のことだ、何が言われているのかと戸惑います。そしてニコデモは答えます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」

これに対して主イエスはさらに言われます。3章5節以下です。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」ここで言う「肉から生まれたもの」とは、単なる肉体のことではなく、罪ある人間の姿をあらわしています。「霊から生まれたもの」とは、神に属する者としての新しい生き方をあらわしています。

ニコデモは驚きました。自分はこれまで立派な生き方をしてより良い人間になろうとしてきた。またそうすることによって高い地位にもつき、成功してきた。けれども、このイエスという人は、より良くなることではなく、新しく生まれ変わることを求めておられる。新しく生まれるとはいったいどういうことなのだろう。ニコデモは不思議に思います。そしてそれに対して与えられた答が3章10節以下の主イエスの言葉です。

厳密に言うと、ここで語られている主イエスの言葉は、ヨハネ教団と呼ばれる教会の信仰告白の言葉だとされています。これはこの箇所だけではなく、ヨハネによる福音書にはしばしばみられるところです。今日の箇所でも、主イエスとニコデモの会話であるはずが、いつのまにか「わたしたち」と「あなたがた」と複数形になっています。これはすなわち、ヨハネ教団と呼ばれる教会が、ニコデモに代表されるユダヤの人たちに語りかけていることなのです。そして特に3章16節あたりは、主イエスご自身のことが、3人称で語られています。そしてここで、神さまが独り子イエス・キリストをわたしたちに与えてくださったこと、そのことによってわたしたちが新しく生きるものとされることが明らかにされています。

ニコデモは、すでに申したように、人眼を避けて主イエスに会いに行くような人でした。堂々と会いに行くと、ユダヤ人議会のメンバーとしては問題があったのかも知れません。衆人の目が気になり、彼は夜暗いときに主イエスに会いに行きました。でもいっぽう彼はこのときの主イエスとの出会いによって大きく生き方を変えられた一人でした。ヨハネによる福音書7章によれば、ユダヤ人の指導者たちが主イエスを捕えようとしたとき、彼は、本人から意見を聞いてからにしたほうがよいと進言をしています。そして何よりも大きな出来事は、主イエスが十字架につけられたときのことです。

ヨハネ19章によると、この箇所は主イエスが十字架につけられ、亡くなられ、お体が十字架から引き下ろされたときのことでありますが、39節に書かれています、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」今や人の目を気にすることもなく、彼は進み出て、主イエスの体に没薬をささげるのです。主イエスがお生まれになったときに、東の国の博士たちが没薬をささげたように。つまり、ニコデモは主イエスと出会い、そしてその生涯と出会い、主イエスの十字架と出会うことによって、彼自身が新しく生きるものとされたのでした。

そしてこの出来事に大きな神の愛を見た人たちがいる。ローマの百人隊長が「本当にこの人は神の子であった」と信仰告白をしたように、主イエスとの出会いによって、わたしたちを新しく生かす神の愛にふれ、大きな喜びに満たされた人たちがいる。そのことの信仰告白が今日の3章10節以下の主イエスの言葉であり、3章16節の御言葉なのです。

「むねあかどり」という絵本があります。前に教会学校でどなたかが紹介をしてくださいました。この絵本の原作はラーゲルレーヴの「キリスト伝説集」に収められています。神さまが天地創造をされたとき、神さまは小鳥たちを造り、神さまは絵筆に絵具をつけて小鳥たちの羽に色を塗られたのでした。色鮮やかなたくさんの小鳥たちが造られました。そして神さまはまた、一羽の灰色の小鳥を造られました。そして「お前の名前はむねあかどり」だと言って、飛び立たせられたのでした。

むねあかどりは、自分がどんなに美しい姿かと思い、楽しみにしながら池の水に自分の姿を映してみます。ところがそれはただの灰色でした。むねあかどりはこのことが不満でたまりません。神さまに文句を言います。「にわとりのとさかは赤いし、オウムだってきれいなえりまきをしています。なのになぜ、むねあかどりという名前をいただいたぼくだけが、こんなくすんだ色なんでしょうか?」神さまは答えられます。「わたしがそう決めたのだ。」神さまの答はなんとも冷たく、残酷に聞こえます。むねあかどりは、どんなにがっかりしたことでしょうか。

ところがあるとき、都のほうから大勢の人たちがやって来るのが見えます。悪いことをした男たちがはりつけになるというのです。三人のうちのひとりは茨の冠をかぶっています。優しそうなこの人はいったい何をしたのでしょうか。この光景を見ているうちに、むねあかどりはたまらなくなりました。茨の冠をかぶせられたその人は、額に血がにじみ、苦しそうな息遣いをしています。むねあかどりは、その人のところへ飛んで行きました。そして額に刺さっている茨のとげを一本二本とくちばしで引き抜きました。すると、その人の額の血がむねあかどりの柔らかな胸を赤く染めたのです。

「ありがとう」と、その人はささやきました。「今からお前は本物のむねあかどりだ。」その日からむねあかどりは、その名前にふさわしい小鳥になったのです。絵本の終りの部分を読みます。「赤いバラの花よりももっと赤く、子孫の小鳥たちの胸を彩っています。あのエルサレムの外の出来事を思い起こさせるように、冬枯れの野に喜びを伝える。春のさきぶれのように。」

ラーゲルレーヴは、スウェーデンの作家です。1909年、女性として初のノーベル文学賞を受賞しました。ちょうど100年前のことです。昔のことですし、わたしたちの国ではほとんど名前も知られていないと思えますが、代表作である「ニルスの不思議な旅」というタイトルはご存知のかたが多いと思います。主人公ニルスがガチョウの背中に乗って旅するお話です。ラーゲルレーヴの作品としてほかに知られているものに、岩波文庫から出ている「キリスト伝説集」があります。今はもう絶版になっているかも知れませんが、図書館に行くとあると思います。それにあわせて申したいのは、「キリスト伝説集」を翻訳したのは、石賀修さんというかたで、この人は、日本の国において、信仰を理由に兵役を拒否した数少ない人の一人でした。

むねあかどりは、「キリスト伝説集」のお話からとられて絵本となったものですが、「むねあかどり」のほかにも、「きよしこの夜」という絵本があります。100年が経ちながら、今も人々の心に響くお話です。

小鳥の羽が灰色であったのは、まさしくわたしたち誰もが思う心の色ではないでしょうか。心のなかの暗さ、くすんだ心、そんなわたしたちの心を表している色のようです。小鳥はいろいろ努力をしたのです。なのに色は変わりませんでした。そして神さまに文句まで言います。「どうしてぼくだけがこんなくすんだ色なんでしょうか?」

ニコデモの心も、きっと同じであったと思われます。夜、ひそかに出かけて行く彼に、夜の闇が心の奥深くに入ってきていたことでしょう。主イエスが「新しく生まれる」ことを語られたときも、彼はその意味をすぐに理解することはありませんでした。しかし、このときの主イエスとの出会いは、彼の生きる方向を変えていきました。そして主の十字架に出会ったとき、その額ににじむ血の赤にふれたとき、彼の灰色の心が違う色に変っていったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ことを、ニコデモは自分に与えられた出来事として受け止めることができたのです。

(2009年3月22日 礼拝説教)