番町教会説教通信(全文)
2009年2 「弱い人のように」            牧師 横野朝彦

第1コリント9・16−23

12月初めに、テレビの番組「その時歴史は動いた」で、マザーテレサが紹介されていました。マザーがノーベル平和賞を得たときを「その時」として、そこへ至る歩みが紹介され、わたしはこれまで書物をとおしてある程度知っていましたが、映像によって印象深くその生涯を振り返ることができました。彼女は命の危機に瀕する路上生活者を収容するために「死を待つ人の家」を作りました。

日本の社会では路上生活というと、仕事に失敗したり、経済が行き詰ったり、あるいは家庭崩壊によってと考えますが、マザーが相手にした人たちは、まさしく路上生活者そのものでした。つまり、路上で生まれ、路上で死んでいくという人たちがいるのです。そんな人たちに、せめて人生の終わりだけでも、人間としての尊厳のなかで死んでいってほしい、そういう願いを込めて「死を待つ人の家」は生まれました。彼女はこう言っています。「誰からも見捨てられてきた人々が、せめて最期は大切にされ、愛されていると感じながら亡くなってほしい。」

このような願いを持って、ようやく借りることができたのは、ヒンズー教の寺院であるカーリー寺院の一部である、寺院の休憩所でした。ところが、人々が押し寄せて彼女に立ち退きを迫ることになります。それはカトリック修道女がヒンズー教の聖地を乗っ取ったという理由でした。そのような困難のなかにありながら活動を続けたのでありますが、あるとき結核のため余命いくばくもない一人の人が運ばれてきます。それはヒンズー教の僧侶でした。彼女はもちろんこの僧侶にも隔てのない介護をおこないます。そして僧侶が亡くなったときに、マザーテレサはこの人の葬儀をヒンズー教の流儀でおこなったのです。これによって、立ち退きを迫っていた人たちの感情も和らいだということです。

遠藤周作さんの小説「深い河」の最後の場面で、カトリックの神父である大津は、ガンジス川のほとりで、葬る人もいないアウトカーストの人たちの死体を運ぶ奉仕をしています。彼は神父であるにもかかわらず、ヒンズー教徒の身なりをしています。ヒンズー教の世界での最底辺の人たちと共に生きるために、彼はヒンズー教徒の服装を身にまとうのです。このような生き方、ヒンズー教の服装をして、ヒンズー教の最底辺の人たちの世話をする生き方というのは、おそらく伝統的なキリスト教の概念から言えば、異端と目されるものでしょう。けれども、遠藤周作さんは、イエスの生涯や、キリストの生涯などの著作をとおして、一貫して追及してきたイエス像を、大津神父の姿に重ねたのだとろうと私は思います。

もちろん、こういうことは形だけ真似をしてはいけません。底辺の人たちと共に生きたマザーテレサの生き方を抜きにして、わたしたちもヒンズー教の葬儀をすればよいなどと、そんな話でないのは当たりまえのことです。ここでもうひとつ思うことがあります。それはキリスト者が、他宗教の葬儀などに参列するときの姿勢です。たとえばキリスト教を名乗っているエホバの証人、ものみの塔のかたがたの場合は、これは聖書が禁じている偶像礼拝であると、他宗教の葬儀に出席すること自体を禁じていると聞きます。キリスト教のなかにもこのことをかなり難しく考える教派があります。

わたし自身はゆるやかな考えをしています。大切なことは、亡くなったかたの宗教を尊重することだと思います。ですから、形だけでありますが、焼香などもします。カトリックでも香をたくことがされていますし、聖書にも香をたく話がありますから、それ自体は問題ないと思います。そして、礼儀をつくしつつ、その場において聖書が証しする神さまに黙祷をささげるというのがわたしのやり方です。ただこれも、先程言ったように、そのときの気持の持ち方が大事なのでして、形だけするのはかまわないとか、そういうふうに割り切ってしまうと、大切なことが失われてしまいます。

さて、今日読んでいただいた聖書の箇所は、使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙です。ここでパウロは、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」、「律法に支配されている人に対しては・・律法に支配されている人のようになりました」、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」、「すべての人に対してすべてのものになりました」と言っています。パウロは、律法によってではなく、信仰によって救われることを主張していましたが、けれども時と場合によっては律法を重んじる行動をとりました。

パウロは、その手紙を読むと、大変な博識で、また神学的な主張をしっかりと持っています。でも、それを他者に押し付けるということをしませんでした。相手の立場に自らを合わせることを知っていました。でも、このように言うと、相手によってころころと意見や立場が変わるか風見鶏のように聞こえるかも知れません。しかしパウロがどのような生涯を歩んだのか、パウロが何度も投獄をされ、ついにはローマに送られ、おそらくそこで処刑されたであろう生涯を考えると、彼は決して風見鶏なのではありません。彼が求めたのは、人と人とがキリストに赦されて共に生きるとはどういうことか、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛しあうとはどういうことかという道でありました。

どんな真理の言葉よりも、どんな立派な主義主張よりも、愛のほうが大切であることを彼は知っていました。まさしく、第一コリント13章でパウロが述べているように、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」のです。

今日読んでいただいた第一コリント9章は、前後と深い関係があります。直前の8章では、偶像にささげた食べ物を食べてもよいかどうかということが問題となっています。今日の私たちには、ちょっと無関係のように聞こえる話題ですが、当時の社会では大問題であったようです。そこでパウロが8章で言っていることは、そんなものを食べたからといって別にどうということはない、何も問題はない、けれども、もしそのことで躓きを感じる人がいるのなら、その人のことを配慮して、あなたも食べるのは止めておきなさいというのです。そして8章9節で、「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と述べています。すなわちここで、弱い人とは、なにかと規則にしばられている人とか、世間体を気にする人など、自分というものをしっかり持てないでいる人のことです。そんな人の弱さにも寄りそって、弱い人には弱い人のように、すべての人にはすべての人のようになりなさい。それが今日の箇所でパウロが述べているところです。

直後の10章でも、パウロはこのように言っています。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。」

今お読みした言葉は、先程わたしが言った、他宗教の葬儀に出席をする、そのような時に取るべきわたしたちの姿勢ともつながるのではないでしょうか。自分がこうだではなく、相手の心を大事にしなさい。そして今読んだ聖書の箇所では、食べ物として出されたものでありましたが、どんなことでも受け入れて礼儀を尽くしなさい。しかしこのことを問題にする人がいるならば、止めておきなさいという姿勢です。

ふと思い出したことは、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が日本に来るとき、彼は酒をたしなむ人間でありましたが、日本での伝道のさまたげになると考えて大量のワインを船から投げ捨てたという逸話があります。戦後の日本のキリスト教に大きな影響を与えたブルンナーという神学者が来日をするとき、彼は煙草を吸う人でありましたが、来日の前に禁煙の練習をしたそうです。今となればちょっと笑ってしまうようなエピソードにしか過ぎないと思います。けれども、彼らはこのように相手への深い愛を持って自らを変えることをためらわなかったのでした。

そこでもうひとつ思い起こすことは、パウロはフィリピの信徒への手紙4章で次のように言っています。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」

彼はここで、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言っています。でも、ここで彼が本当に言いたいことは、豊かでも貧しくてもということではありません。そうではなく、本当に貧しい、苦しい体験を強いられる人生であるが、そのことをむしろ満足しているということです。そちらに言葉の重点があります。

話を変えて、エキュメニカル運動、教会一致運動があります。あるいは異なる宗教との対話を促進する運動があります。でも現実にはなかなか難しいことです。神学論義を始めると、一致のための話し合いが、さらなる亀裂を生むことがあります。けれども現在、異なる教派との交流、あるいは異なる宗教間の交流は確実に深まっています。それは極めて具体的な問題に教会が取り組むなかでの交流の深まりでした。具体的、それは、教会に出席をしている子どものひとりが心臓移植を受けるとかでの支援運動、あるいは教会に出席をしている外国人のかたが在留期間の問題で国外退去になるとかで始められた活動があります。あるいは、平和運動に取り組む「宗教者九条の和」という団体、九条の和のワは、平和の和です。これには仏教教団もキリスト教も一緒に参加しています。あるいは部落差別問題に取り組む同宗連という団体があり、今年日本基督教団はこの団体の議長の役割を担っていますけれど、これには仏教教団はもちろん、神道も参加しています。

こういった極めて具体的な問題。それも、社会的弱者への連帯の運動や平和のための運動によって、教派や宗教という垣根が乗り越えられ、共に手をつなぐ場となっていることは大切なことだと思います。わたしもわずかですがこれらの運動に参加したことがあり、僧侶や神主さんと知り合いになりました。また研修会のために神道系の新宗教である金光教の本部というか本山というかを訪ねたこともあります。キリスト教の教えと仏教の教え、神道の教えをぶつけあっても、そこに連帯はなかなか生まれません。そうではなく、この世の弱さや、困難な問題を自分の問題として、すべての人に対してはすべてのものになるという姿勢から、教派や宗教を超えた交わりが生まれました。

話が横道にそれてしまいますが、今、「のぼうの城」という小説が売れているそうです。17世紀の初め、豊臣秀吉の軍勢が小田原城を攻めます。そのとき、小田原城のもとにある各地の城でも攻防があるのですが、唯一忍城(おしじょう)という城だけは城を守りとおします。埼玉県の行田市にあります。その城の総責任者である城代が小説の主人公である成田長親です。なるべく短く話しますが、主人公の長親はのぼう様と呼ばれています。「でくのぼう」の「のぼう」です。

ほとんどは小説家の脚色だと思いますけれど、まったく何もできないでくのぼうな男として描かれます。農作業が好きで、城下の田んぼに出かけては百姓たちの手伝いをします。でも失敗ばかりで役に立ちません。ところがいざ合戦というときに、武将たちはもちろんのこと、農民たちまでが、のぼう様のためなら自分たちも戦わなければと一致団結し、秀吉がつかわした石田三成の軍勢に大きな打撃を与えるのです。

忍城の合戦は歴史上の事実ですが、城代がでくのぼうであったというのは小説の上での話でしょう。でも、この小説の主人公が、まわりの状況をまるで理解していないかのような発言をしたり、農民たちが彼のために立ち上がる様子は小説としてなかなか面白いものでした。わたしがこの話を持ち出したのは、弱さとか足りなさを中心として集まった集まりは、実はとても強い結束力を持っているのではないかと思ったからです。

強い力のもと人々が集まったとしても、それは表面的に従っているだけかも知れません。主義や主張で集まっても、それは何かあればすぐに壊れる関係です。しかし、弱さが絆の中心にある、そんな人間の関係があります。

考えてみれば、パウロが、「弱い人には弱い人のように」と言い、「すべての人に対してすべてのものになりました」とは言っているものの、「強い人には強い人のようになる」と言っていないことは、思いのほか重要なことではないでしょうか。彼は初めから強い人のようになることなど、考えてはいないのです。そうではなく、フィリピの信徒への手紙2章に書かれている、いわゆるキリスト賛歌、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」パウロが他者に自分を合わせるということの最も模範となるのが、主イエス・キリストのこの出来事だったのです。

そしてそのことが端的に表現されているのが、今日の箇所の9章19節です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」彼は、自分は奴隷になったと言います。パウロはローマ市民権を持つ人で、当時の社会的立場からすれば奴隷とはまったく違う自由な身分の人です。けれども彼は自分は奴隷になったと言います。パウロはローマの信徒への手紙を、「キリスト・イエスの僕」と書き始めていますが、この「僕」という言葉もまた奴隷という意味の言葉です。彼は自由な者でありましたが、キリストが十字架にかけられるまでに己れを低くされたように、彼もまた自らを低くする生き方を選びとったのでした。

今日の箇所の前半部分16節以下で、福音を告げ知らせることの喜び、そうせずにおれない心が書かれており、ついで17−18節に彼がそれを無報酬でしていたと書かれています。福音を伝える者として、パウロは周りの人たちに支えられ養われたとしても不思議ではありませんでした。けれども彼はそれをしませんでした。テント作りの職人として糧を得ながら、福音宣教に励んだのです。そして興味深い研究によれば、テント作りというものがその当時の社会において蔑視されていた仕事であるということです。彼はそのように当時の社会の底辺にある人々と生活を共にし、福音を伝えたのでした。

そしてそれらはすべて、「できるだけ多くの人を得るためです」、「ユダヤ人を得るためです」、「律法に支配されている人を得るためです」という目的のゆえでした。なんとか福音の喜びにあずかる人が増えてほしいとの願いのゆえです。22節には、「何とかして何人かでも救うためです」と書かれ、23節には「福音に共にあずかる」と書かれています。そのためにこそ彼は、自らを奴隷に等しいものと考え、人間の弱さのなかで人々と出会おうとしたのです。

(2009年2月8日 礼拝説教)