番町教会説教通信(全文)
2009年11 「出でゆくとき」               牧師 横野朝彦

ヨハネ20・19―23

昨日の朝日新聞、土曜日に別刷りでついているBeという欄に、チャールズ・マクジルトンさんという45歳の男性が紹介されていました。セカンド・ハーベスト・ジャパンというNPO法人を立ち上げた人です。セカンド・ハーベスト。ハーベストとは収穫という意味ですから、第二の収穫という意味の団体、NPOです。第二の収穫とはどういうことでしょうか。

新聞の記事に、分りやすい説明が書かれていました。品質に問題がないのに、メーカーが定めた販売の期限が迫っている、ラベルの印刷がずれた、輸送中にダンボールの外箱がつぶれた、こういった理由で廃棄される食品が、年間になんと500−600万トンで、ざっと1000万人を養える量だと言うのです。ホテルやコンビニエンスストアから捨てられる賞味期限切れの食料も大変な量だと思いますが、店頭に並ぶ前に捨てられるものがこんなに多いとは思ってもみませんでした。

チャールズさんはこれらの食料を集めて、生活に困っている人たちに配布しています。対象は、貧困家庭、家庭内暴力の被害を受けた一時避難している女性のためのシェルター、移住労働者、アジアからの留学生、難民、ホームレスの人たちです。昨年2008年に扱った食品は850トンだそうで、大変な量です。捨てられる食料500―600万トンに比べればまだまだ少ないですが、それでも850トンというのはたいした分量です。この活動は1999年頃から始められ、当初フード・バンクという名前でしたが、今はセカンド・ハーベスト・ジャパンという名前になっています。現在、40以上の会社から定期的に食品の提供を受け、それを関東を中心とした全国160以上の福祉施設に食品の提供を行っています。協力会社のなかには、よく知られている会社の名前がいくつもあります。

わたしがこの話を紹介しようと思ったのは、新聞に書かれていたチャールズさんの言葉が強く印象的だったからです。そこにはこう書かれていました。「サンタクロースでいるよりイエスのように彼らと同じ痛みを感じたかった。」わたしはこれを読んで、なんとも鋭い問いを突きつけられた思いがしました。

「サンタクロースでいるよりイエスのように彼らと同じ痛みを感じたかった。」プレゼントを配って歩くサンタクロース、この働きも大事なことでしょう。慈善のわざが大切なのは言うまでもありません。でもチャールズさんは、それ以上に、社会の底辺で苦しんでいる人たちの痛みを感じたかった、しかも、イエスのように感じたかったと言われます。わたしは新聞記事を読むのをしばらくストップして、新聞の、この言葉の書かれているところを見ていました。

この言葉は、教会や教会に集うわたしたちへの大きな問いかけであると思います。教会は即社会活動の場ではありません。教会が即福祉活動をすればよいのでもありません。でもわたしは教会がしばしば自分たちの殻のなかに閉じこもって、内向きになっていることが多いように思います。

そもそも教会というところは、何を目的として集まっているのでしょうか。神さまを礼拝するためである、という答がすぐに返ってくるかと思います。礼拝は聖書が読まれ、説教がされ、賛美が歌われ、祈りがささげられます。聖書や説教は神から人へのメッセージです。賛美や祈りは人から神へと向かうものです。ですから、神と人との応答の時と考えることができます。聖餐式もまた神の御言葉をパンと杯によって味わう、神から人へのメッセージです。献金は、もともと奉献と呼ばれました。奉じて献げる。人から神への応答です。そしてこのような応答を大切と考え、わたしたちは週に一度教会に集まります。

何を目的として集まっているかという問いに戻ります。礼拝のため、確かにそのとおりで間違いではありません。では何のために礼拝を持つのでしょうか。心の平安を得るためだという答が考えられます。この社会のさまざまな困難、苦しみ、痛みから解き放たれ、安らぎを得て、癒されるためであるというふうに考えることができます。そしてこの答も間違いではありません。主イエス・キリストは、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言ってくださいました。主イエスのもとで重荷をおろし、休む、わたしたち人間が生きるうえで、このようなときは実に大切です。

でも、それだけでしょうか。礼拝が神と人との応答の関係にあるならば、今申したような、平安を得るため、安らぎを得るためというだけでは、どこか一方通行のように思われます。主イエスは重荷を負う者に対して、休ませてあげようと呼びかけられると共に、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言っておられます。軛とは、2頭の牛をつないで、農機具をひっぱったりするための道具のことです。主イエスは、私たちの重荷を降ろしてくださいます。しかし私たちの人生に重荷が何もなくなったのではありません。むしろここで言われていることは、重荷をかつぎなおすことです。それは主イエスに半分を担っていただいてもう一度自分の肩に載せていくことです。そして主イエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言ってくださいます。

この言葉を、別の聖書の言葉から考えるならば、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という主イエスの言葉を思い起こすことができます。今の御言葉はマルコ8章34節です。あるいは、パウロが第一コリント11章1節で述べているように、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」ということでしょう。すなわち、自分の十字架を負ってキリストに従う、キリストに倣って生きることがわたしたちに求められているのです。招かれて教会に集ったわたしたちは、安らぎを与えられ、癒されるとともに、キリストに倣って生きる者として、新たな使命が与えられているのです。

ここに、ちょうど礼拝において神から人、人から神へという応答の関係があったように、神さまによって平安を与えられたわたしたちは、キリストに倣う者として新たな歩みを開始するのです。

先日、何人かのかたが有志で他の教会へ出かけられ、教会見学をされました。教会見学というのは建物、会堂、礼拝堂の見学が中心でありますが、それだけではありません。埼玉県の上尾合同教会からもらってきた週報を見ると、礼拝の形式がわたしたち番町教会とかなり違うことに気付かされます。日本基督教団の信仰職制委員会というところが作り、提案している「主日礼拝式A」という礼拝順序があります。

最初と最後の部分だけ、詳しく紹介します。礼拝の最初に招詞、つまり招きの言葉があり、次に賛美、そして次に司式者が「主が皆さんと共におられますように」と言い、会衆が「主があなたと共におられますように」と応えます。次は罪の告白です。司式者が「全能の神に罪の告白をしましょう」と述べ、一同は次のように言います。「わたしたちの主イエス・キリストの父、万物の造り主、すべての人の裁き主である全能の父、わたしたちは思いと言葉と行いによって罪を犯しました。深く悲しんで懺悔します。どうか、御子イエス・キリストのゆえに、すべての罪をお赦しください。これからのち、新しい人として主に仕えて、御名の栄光をあらわすことができますように。主イエス・キリストの御名によって。」

これに対して、司式者が言います。「全能の神、わたしたちの父は、心から悔い改め、まことの信仰をもって主に立ち帰るすべての人の罪を赦すと約束されました。主があなたがたを憐れみ、すべての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてくださいますように。」そして次にキリエ、「主よ憐れみたまえ」の讃美歌が歌われます。

このような形式は、カトリックや聖公会ではごく自然なものでして、日本基督教団の教会でも、このような礼拝形式を取り入れるところが、このところ随分増えてきています。番町教会の礼拝形式は、1998年から現在の形式となっています。そのときの変更理由はそのときの必然があったと思っていますが、わたしはそろそろこれを見直す時期に来ているのではないかという思いがあります。すぐに変更するというのではなく、機会を見つけて、学習を開始しなければいけないと思っています。

少し話が広がりました。わたしが言いたかったことは、罪の告白と赦しの言葉という、ここでも応答の関係があるわけですけれど、この罪の告白の言葉のなかにも、「これからのち、新しい人として主に仕えて、御名の栄光をあらわすことができますように」と祈られていました。新しい人として主に仕える、そのような新たな歩みをわたしたちは祈り求めるのです。

礼拝式Aの最後の部分を見ますと、大きな項目として「派遣」となっています。そして「派遣」の最初に「報告」がおこなわれます。報告は礼拝のあとの付けたしではありません。教会の活動紹介だけでなく、信徒の消息は神さまによって与えられる交わりであり、礼拝の重要な一部です。そして牧師が言います。「平和のうちに、この世へ出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」そして後奏があり、礼拝が終わります。

今年の夏、原宿教会の牧師であった土橋晃先生に礼拝説教をお願いし、終わりの祝祷もお願いしたところ、正確な言葉は覚えていませんが、おそらく今お読みした言葉、「平和のうちに、この世に出て行きなさい」から始まる言葉を言われました。新鮮な思いでこの言葉を受けることができました。そしてここで言われているように、「主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕える」ことをわたしたちは使命として与えられて、この世に派遣をされるのです。

申しましように、教会に集まり、平安を得る、安らぎを得る、それは間違いではありません。大切なことです。でも、実はそれは応答の関係ということでいえば、半分に過ぎません。応答の応しかないわけですから、一方通行に終わっているのです。応答の答、それはすなわち、この世に派遣されることであり、「主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕える」ことにほかなりません。

そのように考えるならば、最初に紹介をしたチャールズ・マクジルトンさんたちの働きというのは、礼拝から派遣された者たちの働きということができます。教会によっては、教会近所にお住まいの独り住まいのかたのための給食サーヴィスをしているところがあります。今月号の「こころの友」の一面には、デイサーヴィスをしている教会と牧師のことが紹介されていました。それも大事な働きです。でも、教会自体がその活動の主体にならなくてもいいのでして、教会の礼拝を終えてこの世に派遣された者たちが、それぞれの場で隣人に仕え、隣人を愛するわざを具体化していく、そして教会はそれらの働きを支えていくということが大切なのだと思います。

ちなみにセカンド・ハーベスト・ジャパンのことに興味を覚えまして、インターネットで調べてみると、このNPO法人の理事のなかに、知った名前を二人見つけました。ひとりは今年の春まで日本キリスト教協議会の総幹事をしていて、現在は関西学院大学で教えている山本俊正牧師、もうひとりは百人町教会の阿蘇敏文牧師でした。二人はNPOの理事として活動を支えています。わたしはこの活動が教会と関係があるとは知らなかったのですけれど、先ほどの話から言えば、この活動は礼拝から派遣された者たちの働きであり、それを教会や牧師たちが支えているということになります。

さて、今日は教会創立記念礼拝です。123年前の11月13日に、番町教会設立式がこの土地で行なわれました。以降123年間同じ場所でキリストの福音を伝えてきました。創立当時の顔ぶれをみると、その時代において重要な働きをした人たちの名前が残されています。司法次官や外務次官を務めた男性たちもいました。そのなかで、わたしが特に興味を覚えるのは女性たちです。

大山捨松という女性は、1871年、明治4年にアメリカに留学をし、アメリカで洗礼を受けています。そしてアメリカで洗礼を受け、帰国後番町教会に属しました。夫は陸軍大臣という地位にありましたが、彼女は後に赤十字の篤志看護婦として働いています。捨松という名前も、彼女のそのような生き方を表すために自らつけた名前であったと記憶しています。

千代田区が発行している「千代田区女性史」という本の第1巻には、番町教会初代牧師小崎弘道の妻である小崎千代子が廃娼運動に熱心であったと紹介されています。また、日本キリスト教女子青年会YWCAや、現在女性のためのシェルターHELPなどを運営している日本キリスト教婦人矯風会も千代田区内から生まれたことが紹介されており、その働き手として女性キリスト者たちの名前があげられています。矯風会の本部は女子学院のなかに置かれていました。このように千代田区の出している本からも、創立当時の教会とそこに集う人たちが、まさしく「主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕える」ことに熱心であったことがよくわかります。

とすれば、教会創立123年を迎えるわたしたちが、このときをどのように考え、どのように創立記念のときを過ごせばいいのかを、改めて教えられ、示唆が与えられます。すなわち、それはただ123年という長い年月を祝うだけのことではないはずです。また過去を振り返って、昔は良かったというのでないのは当たり前のことです。

創立当初の息吹に教えられ、123年間教会をたててきた諸先輩たちの労苦に感謝しつつ、わたしたちもまた礼拝をとおしてこの世に派遣され、一人ひとりがこの世に派遣されるとは何か、どういうことかを考えつつ、「主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕える」道を選び取っていくことだと思います。

今日お読みいただいた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書20章から、復活の主イエスが弟子たちに姿をあらわされた場面です。週の初めの日、つまり日曜日でありますが、日曜日の夕方、弟子たちは家のなかで鍵をかけて閉じこもっていたといいます。イエスを十字架にかけた人たちのことを恐れ、この世に出て行くどころか、内向きに、鍵までかけて閉じこもっていたのです。この姿に、わたしはなんとも痛ましいものを感じます。それとともに、今日の教会が自分たちだけのことを考え、内向きになっているならば、まさしくこの弟子たちと同じ姿であると思います。ところが、そのような弟子たちのところにイエスは来てくださったのです。主は彼らの真ん中に立たれました。鍵がかかっていたのにどうしてなどと考えるのはやめましょう。大事なことは、自分の殻のなかに閉じこもっていた弟子たちに、「さあ出て行きなさい」と促しを与えられたことです。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

番町教会では、礼拝の初めと終わりに歌う頌栄を半年毎に変更していますが、今年の10月からは礼拝の終わりに讃美歌90番の4節を歌っています。「主よ来たり、祝したまえ、今われら、出でゆくとき。われら皆、主のものなり、とこしえまで、主に仕えん。」わたしたちは礼拝をとおし、安らぎを得、平安を与えられ、癒され、罪赦され、そして新たなる力をいただいて、この世に遣わされます。今われら、出でゆくとき。主に対し、隣人に対し、仕え、愛する道を歩んでいきたいと願います。

(2009年11月8日教会創立記念日礼拝説教)