番町教会説教通信(全文)
2009年10 「助けをいただくために」        牧師 横野朝彦

イザヤ53・10―12

ヘブライ4・14―16

先日都営地下鉄に乗っていました。見るともなく、ドアや窓の上に貼り付けられた広告が目に入ってきました。広告を見てわたしはとても驚き、ため息のようなものを感じました。広告は、債務整理や過払い金返還に関するものでした。サラ金やヤミ金と呼ばれるところからお金を借りて返せなくなった人や、お金を返すために別のサラ金から借りて、借金が雪だるま式に増えている人、法定金額以上に利息を取られた人、金銭面で追い詰められた人に、それらの借金を整理して立ち直るお手伝いをしますというものでした。広告主は、法律事務所や司法書士事務所です。こういう仕事そのものは大事なことでしょうし、必要な働きだとは思います。しかしそれにしてもこの広告は世相を反映しているというか、この時代の姿を表していると思いました。

というのは、周りを見まわしましたら、なんと同じような広告が全部で7枚もあるのです。わたしは満員に近い電車のなかで立っていて、見える範囲は限られています。要するに貼られている広告のほとんど全部が債務整理の広告でした。そして、乗り換えて別の地下鉄に乗りました。すると今度は、わたしの見える範囲で、債務整理の広告が5枚、そしてそれに並んでカードローンの広告が1枚ありました。これだけの広告があるということは、生活が行き詰ってお金を借りて、しかもそれが返せなくなっている人がどれほど多くおられるかということです。

もうひとつ言えば、最近テレビのコマーシャルにパチンコ屋さんの広告をよく見かけます。パチンコそのものが悪いとは思いませんが、それでも、ギャンブルです。以前はこのような広告は夜遅い時間くらいしか放送されなかったのに、最近では不況のせいでしょうか、時間帯関係なく放送されています。パチンコ依存症が家庭崩壊などを引き起こしていることを思えば、こういう広告が良いこととは思えません。これもこの時代の姿、世相そのものです。

来年から高等学校の学費無償化をすると言われていますが、今現在、親の失業などによって高校の授業料を免除してもらっている人が、なんと全体の10%いると聞きました。わたしは10%という数字を聞いたとき、何かの間違いではないかと思いました。10人に1人というのは大変な数です。

なんとも生きにくい時代、生きることの厳しい時代です。ほとんど毎日のように人身事故ということで電車が止まります。そしてそのことが当たり前になっていて、電車が遅れることに腹を立てても、その背景にある人間の命や悲しみ、涙に心を向けることはありません。また、社会問題にはなっていても、それに対する取り組みがされていることはあまり聞こえてきません。わたしたちの社会は、表面的にはきれいで、華やかであっても、その内側はわたしたちが思う以上に病んでおり、いや病んでいるというよりももっと酷い、瀕死の状態にあるのではないでしょうか。

それに加えて、わたしは今の社会において人間関係がますます希薄になっていることを思わされます。メール上での会話はできても、人間の生身をぶつけた会話のできない人がいます。つぶやきを意味するツイッターというのが流行っているそうです。なんでもないつぶやきのような言葉が携帯上でやり取りされている。わたしはこれを聞いたとき、生身の会話がますますできなくなるのではないかと思うと同時に、このようなものが流行るのは、やはり、人が他者とのつながりを求めているからだと思いました。つながりを求めている、それでいて関係の希薄さは消えない。病気や経済的なことで苦しいのに、まわりに人がいない、孤独感、孤立感を深めている。そこに今の時代や社会の病巣があると思います。

そのことを考えれば、教会というのは良い所だなと、本当にそう思います。もちろん一人ひとりは問題を抱え、困難のなかにいるかたも少なくありませんが、しかしそこには信仰の兄弟がいる、信仰の姉妹がいる。互いに祈り、支えあう友がいる。こんなに素晴らしいことはありません。教会とはいえ聖域ではなく、そこでは互いに衝突したり、文句のひとつもふたつも言いたくなることがありますけれど、生身の人間がぶつかり合えるというのは、なんと幸せなことか、大切なことかと思います。

そして何よりも大切なことは、わたしたちを独りとはせず、わたしたちを招いてくださるかたがおられるということです。マタイによる福音書11章に書かれているように、主イエスはわたしたちに呼びかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」どんなに辛いときでも、わたしたちは独りではなく、招いてくださるかたがおられるのです。

「福音と世界」という雑誌に、渡辺総一さんというかたが表紙の絵を書いておられます。絵はとてもシンプルで、線は柔らかく丸みを帯び、人間の顔などただ楕円形の丸が書かれているだけです。でも、不思議に印象深く、何かを考えさせられる絵です。「福音と世界」5月号の絵は、二人の人が抱き合っています。正確には、一人は立っていて、もう一人はひざまずき、ひざまずいている人は立っている人に顔をうずめ、立っている人は両手をまわして抱くようにしています。

雑誌の後ろのほうに、「表紙の言葉」というわずか6行の欄があり、そこに渡辺さんが書いておられます。毎月、たった6行の短い文章なのに、最初の1行は聖書の言葉が書かれており、5月号には、「来なさい、休ませてあげよう」と、マタイ11章の御言葉が書かれていました。先ほどお読みした、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」のなかの最後の部分です。このように聖書の言葉のごく一部でありながらシンプルに、そして大事なことをあわらしているのに感心しました。

渡辺さんは、今年の初めにアメリカでイェール大学神学部などの主催によって個展を開かれたそうで、その個展の主題は「放蕩息子の帰還」でした。表紙の絵は、放蕩息子が父のもとに帰ってきて、お父さんのもとにひざまずき、抱かれているのを描いているのでしょう。わたしは、放蕩息子が父のもとに帰ったことと、「来なさい、休ませてあげよう」という言葉が結びついていることを、新鮮な印象を持って読みました。

最初に述べたように、今のこの時代、この社会において、どれほど多くの人が、生きることの辛さに悲鳴をあげていることかと思わされます。しかも人間関係はますます希薄化している。そのなかにあって、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と言ってくださるかたがいる。両手をまわして抱きとめてくださるかたがいる。わたしたちはこのことを福音として聞いています。

「福音と世界」5月号の特集は、少し長いタイトルです。それは、「『生きるに値しない』とされた生命へのまなざし」というものでした。特集をめぐって5人のかたが書いておられ、具体的には脳死の問題をめぐってでありましたが、そのなかで、関西学院大学神学部の教師である土井健司さんが、「『生きるに値しない』とされた生命へのまなざし」とは、第三者的に、三人称として見るものではなく、二人称として、その存在をかけがえのないものと見る存在であり、「これこそはわれわれ被造物に対する神の眼差しではないだろうか」と述べておられました。生きることの辛さに悲鳴をあげるこのとき、わたしたちは、このような眼差しを必要としています。そしてそれは、表紙の絵で表されていたような存在です。

「福音と世界」の特集の話をもうひとつ紹介します。立命館大学で生命倫理学を教えている大谷いづみさんというかたが、教室で出会う学生たちについて、「言い難い生きづらさのなかで日々を」を送っていること、「こんな私でも生きていていいのか」と書いてくる学生のことを述べておられました。

「『あんな生』と名指しされるような過酷な生を現に生き、なおも豊饒に生きている/生きようとしている『他者』もまた、確かに存在するのだ」と述べておられました。「こんな私」、「あんな生」と呼ばれるようなものであっても、それを豊かに生きている人がいる。そのことを知ることが、「こんな私」を生きるひとつの始まりなのかも知れません。

土井先生が言っておられることと、大谷先生が言っておられることは別々のことのようですが、どちらにも共通することは、生きにくい状況にあるわたしたちには、真実な他者、「わたしとあなた」と言えるような存在を必要とするということだと思います。

今日は、聖書から2つの箇所を読んでいただきました。ひとつは新約聖書ヘブライ人への手紙4章です。ヘブライ人への手紙の著者は、主イエス・キリストのことを「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」と呼びます。そしてこの大祭司である主イエスは、わたしたちと同様に試練に遭われたと4章15節に書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

その当時、大祭司などというと、神殿の奥で僧服を身にまとい、世の中を睥睨しているように思われていました。ところが大祭司である主イエスは、生きにくさに苦しんでいる人たちと同じ苦しみを自ら負われたのだと、ヘブライ人への手紙は述べているのです。大谷先生の言葉を借りれば、主イエスこそ過酷な生を現に生き、なおも豊饒に生きられたかたなのです。

ヘブライ人への手紙は、なんのために主イエスのことを大祭司と呼んだのでしょうか。それは、その昔、旧約聖書の時代においては、祭司のなかでもっとも偉い大祭司という人が、神殿で動物の血を犠牲としてささげ、人々の罪の贖いを祈っていたことに由来します。動物の血を犠牲とすることをいつもいつも繰り返しおこなう、そのような儀式によるのではなく、主イエスは、ただ一度、十字架の死によって罪の贖いを完成された、それがヘブライ人への手紙全体で述べられているところです。もはや大祭司たちの儀式ではなく、主イエスの十字架によって救いが完成した。それゆえ主イエスのことを、「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」と呼んでいるのです。神のもとから来られた大祭司、それも救いを完成された大祭司という意味です。

このような思想といいましょうか、主イエスを大祭司と呼ぶ信仰理解は、ヘブライ人への手紙特有のものですけれど、それは聖書全体の信仰理解と深く結びついています。そして今日もうひとつ読んでいただいたのは、旧約聖書のイザヤ書です。これまでにも何度も説教のなかで引用したことがある、「主の僕の歌」と呼ばれる箇所の一部です。「苦難の僕の歌」とも言います。今日は、53章10−12節の短い部分を読んでいただきましたが、「主の僕の歌」は、52章13節から53章12節までです。そしてここには、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたかた、いやわたしたちと同様どころか、もっと大きな苦難を負われたかたについて述べられています。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。」「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

ところで、作家遠藤周作さんの作品のなかに「イエスの生涯」という本があります。遠藤さんの作品は「沈黙」にしても「深い河」にしても、キリスト教信仰のありようを追求した秀作でありますけれど、「イエスの生涯」は遠藤周作さんによるイエス伝、イエス伝というよりイエス論といったほうがいいかもしれません。この本に繰り返し出てくることは、人々がいかに生きることの辛さのなかに苦しんでいたかということです。

遠藤さんが取り上げる人々の姿のなかで、特に印象に残ったのは、マルコ5章に出てくる女性、12年間も出血が止まらずに苦しんでいた女性です。病の苦しみだけではなく、宗教的に穢れているとされ、他の人から蔑まれ、苦しみのなかを孤独に生きてきた女性です。あるいは弟子たちが主イエスを裏切ったことについても、遠藤さんは丁寧に論じています。遠藤さんの作品、他の小説にも共通することは、人間の弱さだと思います。遠藤さんは言っています。「長年の間、私は聖書のなかで自分をいつも投影してきたのは、イエスを知りながら彼を見棄てたり裏切ったりした弟子や祭司やその他のあわれな男たちである。」このような、弱くあわれな人間の姿を作品の背景として、遠藤さんは「イエスの生涯」を描きます。

ずいぶん前に読んだ本なので、わたしの記憶に残っている大事なことだけしか紹介できませんけれど、人間の弱さや生きにくさを述べつつ、遠藤さんはこの作品「イエスの生涯」のなかで、聖書の言葉を何度も引用されます。そしてそのなかでもっとも重要な仕方で引用されているのが、イザヤ書53章、「主の僕の歌」だと思います。

この本のなかで、「主の僕の歌」は2回引用されています。一度は主イエスの受難予告の場面です。主イエスが「わたしにはこれから受けなければならないバプテスマがある、そしてそれを受けてしまうまで、わたしはどんなに苦しい思いをするだろう」と言われます。受けなければならないバプテスマとは、十字架の死のことです。弟子たちはなんのことかわかりません。そこで主イエスは言われます。「わたしは自分について預言者の書に書いてあるとおりに去っていく。」ここで遠藤さんはイザヤ書53章を2ページに渡って引用されます。遠藤さんの本では関根正雄さんの翻訳によるものです。「彼は卑しめられて人に捨てられ、悩みを知り、悲哀(かなしみ)の人であった。・・彼はわれらが悩みを負い、われらの悲しみを担ったのだ。・・彼こそわれらの不義のために傷つけられ、われらの咎のために砕かれた。懲罰は彼に下って、われらに平安をもたらし、彼の傷によってわれらは医(いや)された。」

もう一箇所は本の最後の部分です。主イエスは十字架につかれ、十字架のうえで「主よ彼らを許したまえ」と祈られます。そしてこのとき、弟子たちは言葉ではあらわせない烈しい驚愕と衝撃を受けたと述べ、「『まこと、この人は神の子なり』という感嘆の叫びは、ほかならぬ弟子たちの口から発せられたのであろう」と述べ、つづけてイザヤの言葉が引用されます。イザヤの言葉につづけ、遠藤さんは次のように書いています。「悲惨な死であるがゆえに、その死のまぎわの愛の叫びは――弟子たちに根本的な価値転換をもたらしたのだ。」

生きることの辛さに叫び声が上がっているこの時代、いや、その叫び声に多くのものは耳を閉ざし、まるでなにごともないかのようにふるまっているこの時代、この時代にあって、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけてくださっているかたがおられます。

しかも、主イエスは罪人の仲間と蔑まれることをいとわず、人々と共に生きられました。重い皮膚病の人に手を伸ばし、出血の病の女性を自ら捜し求められ、嫌われ者のザアカイの家に、「今日あなたの家に泊まろう」と言ってくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけてくださるかたは、ただ呼びかけるだけではなく、自らわたしたちのもとに来てくださって、わたしたちを抱き寄せ、わたしたちの重荷を担ってくださるかたです。わたしたちを独りとはせず、わたしたちを「友」と呼んでくださるかたです。

だからこそ、ヘブライ人への手紙の著者はわたしたちに勧めて言っています。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

(2009年10月18日礼拝説教)