番町教会説教通信(全文)
2009年1 「あなたを照らす光」            牧師 横野朝彦

イザヤ60・1―6

一年の最初の主の日、日曜日の礼拝をささげることができることをうれしく思います。けれども、今年ほど暗い話題をもって年を越したことは、近年なかったように思えます。パレスチナでは戦争行為が続いています。すでに多くのかたが命を奪われています。一昨日にメールで届いた情報に、「完全な暗闇だ。ガザ市内の80%以上がすっかり闇に覆われている。この暗闇のなかでは自分の指さえ見えない!」と記されていました。明かりが消えた実際の闇だけではなく、ここに住む人たちの置かれた状況です。

平和な世界が来ることを祈り求めます。小林一茶は、「目出度さも中位なりおらが春」と言いましたけれど、今は中位とさえ言えない、正月だからと単純に喜ぶことができない厳しさがあります。日比谷公園には助けを必要とする人たちが今日もたくさん集まっておられるのだと思います。また、日本中各地に同じ光景が見られるのだと思います。

横浜に寿という町があります。東京の山谷、大阪の釜が崎などと同じ、寄せ場と呼ばれる日雇い労働者の町です。寿という、実にめでたい名前です。もともと謡曲の名前から取られたと聞きました。人口は3−4000人ですが、このほかに住民登録をしていない人が倍以上います。寿に、日本基督教団神奈川教区が設立した寿地区センターというセンターがあります。三森妃佐子さんというかたが主事をしています。わたしたちの教会からは僅かな金額の献金をしているのと、ときどき衣類などを送っているだけのつながりですが、センターからはいつも丁寧なニュースや報告書が送られてきます。働きへの協力を呼びかけるポスターが毎年送られてきますが、そこには必ず、「いのちの灯 消さない」と書かれています。いのちのともし火を消さないように、熱心に働きを続けておられます。

三森さんは農村伝道神学校を卒業した牧師です。すでに21年間この地で働いてこられました。三森さんは住むところがない人たちを支援することについて次のように書いておられます。「『プレハブ』とか『テント』とかという『建物』の問題ではなく『人』の繋がりこそがわたしたちの活動の原動力であることを教えられた。・・仲間の和が繋がり、広がっていく。ここに希望を見いだす。・・神によって与えられたかけがえのない『いのち』が尊ばれ、一人ひとりが違いを認め合い、守りあい支えあうことが、神によって与えられた使命ではなかろうか。」

寿地区センターの働きは、11月から7月まで毎週1回おこなっている食事の炊き出し、夜回り、福祉作業所や保険所、診療所と連絡をとりつつおこなっている活動、フリーマーケットへの参加、福祉作業所の求職活動、精神障がい者のデイケア施設「ろばの家」、高齢者ふれあいホーム「木楽な家」、高校や大学など研修の受け入れなど、幅広い活動がされています。台湾の玉山神学院の学生たちもいつもここで現場研修をしています。わたし自身はずいぶん前に訪問しただけで、紹介できるような資格も知識もありませんが、それでも、ここに関わっている多くの人たちとの出会いによっていろいろ教えられてきました。

2年前、寿地区センター20周年の記念誌に書かれた三森さんの文章を読みます。「あるとき誕生会を開いたんですが、ひとりの利用者が今まで生きてきて一度も祝ってもらったことがなかったといいました。40年近く他の誰からも祝ってもらったことがなかった、そういう生き方をしてこざるを得なかった寿のひとりの人と出会いました。マザー・テレサが『この世の最大の不幸は、貧しさや病いではない。むしろそのことによって見捨てられ、誰からも自分は必要とされていないと感じることである』と言ったことを思い出し、一人ひとりが、神さまから与えられたかけがえのない命あるものだということを再確認したわけです。そこで・・毎日やれる地域作業所をつくろうと『ろばの家』をつくりました。就労するための訓練の場としてではなくて、価値をお互いに認め合い、その人がその人として受け容れられ、尊ばれる、そうした生きる場でありたいと願う、それがわたしたちが寿に入ったときに始めたことです。」

価値を互いに認め合い、人が人として受け容れられ尊ばれる。ここで言われていることは、実に基本的な大切なこと、そしてそうでありながら、今の社会から抜け落ち、忘れられていることではないでしょうか。仕事がないこと、住むところがないことは大変なことであり、まさにこの世を闇が覆っていると思わずにおれません。しかしそれとともに、一人ひとりの存在が尊ばれない社会こそ闇そのものです。価値が互いに認められない社会、人が人として受け容れられない社会、尊ばれない社会ほど暗い闇はありません。

何年くらい前からでしょうか、自己責任という言葉が頻繁に使われるようになりました。イラクの人たちを支援し、草の根の交流をしてきた人が現地で人質になったときに、あれは自己責任である、救出のためにどれだけお金がかかっているかと、人質になった人を責める言葉が聞かれました。そしてまた、非正規雇用の人たちが生活の苦しさを訴えても、その人たちの自己責任であるといった見方がありました。でもこの言葉は、強い者の側の論理として使われているとわたしは思います。強い者が強くない者を切り捨てる言葉となっているのです。そして強い者が自分の責任を逃れる言葉となっています。しかし本当のところは、仕事を失い、住むところを失った人の問題は、その人たちの問題なのではなく、社会のありかたの問題に違いありません。

わたしたちは年の初めにあたり、平和を祈り求めるものでありますが、平和とは自分の周りが安穏としておればよいわけではありません。またわたしたちの身近に戦争がないから平和であると言ってしまうこともできません。平和とは誰もが人としての存在を認められ、尊ばれて生きることのできることではないでしょうか。

そしてこのようなときにこそ、新しい年が、主の平和が地上にあらわされる年であるように祈り、光を望み見て、心まで暗くすることがないようにしたいと願います。困難のなかにある人たちのうえに、主の光が照らされ、道が整えられ、道が拓かれるようにと願います。そして、何よりもどんな人であっても、価値をお互いに認め合い、その人がその人として受け容れられ、尊ばれる、そうした社会にしていきたいものです。わたしたちができること、教会として何かできることはないかを考えたいと思います。たとえ小さくても手を伸べていきたいと思います。またその働きを覚えたいと思います。

今日お読みいただいた聖書の箇所は、旧約聖書イザヤ書60章です。このなかで、とりわけ1−2節は皆さんにとって何度も耳にされたはずです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」この聖句は礼拝の始まりに読まれる招きの言葉、招詞としてこれまで何度も読まれてきました。昨年は10月の最後の週から11月の第4週まで、降誕前節において招詞として読んでいただきました。「起きよ、光を放て」という力強い言葉に心打たれます。と同時に、この言葉が発せられたとき、時代は深い闇が覆っていたことを思わされます。

「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」これはまったく誇張のない、その時代の状況でした。イザヤ書は56章から66章を第3イザヤと言います。第3イザヤについては、12月の最初の週、アドベント第2の主の日に59章を読み、そこでその背景を少し語らせていただきました。書かれた時代はバビロン捕囚から解放されて自分たちの国に帰った人々に向かって語られています。59章9節には、「正義はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」と書かれています。まさしく、今日の箇所60章2節に書かれている「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」という状況がここでも描かれているのです。

そしてわたしがイザヤ書59章を読んでいて一番心に突き刺さってきたのは、16節の「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」という言葉でした。人ひとりいない、執り成す人がいない。このことを今日お話をしていることに引き寄せて言うならば、皆が困っているのに、誰も助け合おうとしないということではないでしょうか。自分のことだけを考え、他の人のことに心が行かず、一人ひとりの存在が尊ばれない社会、価値が互いに認められない社会、人が人として受け容れられない社会、尊ばれない社会、まさしく闇に閉ざされ、闇の中を歩いている状況だったのです。

しかし、まさにそのような場に、「起きよ、光を放て」という力強い宣言がなされます。そして「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と宣言されるのです。いったいこのような光はどのようなものでしょうか。それは59章で約束されていました。59章20節に「主は贖う者として、シオンに来られる」という約束です。神さまがこのような闇のなかにまことの光としての救い主を送ってくださり、わたしたちのために執り成し、わたしたち一人ひとりを認め、受け入れ、尊んでくださるというのです。

わたしたちは、このイザヤ書で明らかにされたことが、主イエス・キリストにおいて実現したことを聞いています。主はヨハネによる福音書8章において、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語ってくださっています。同じくヨハネ12章では「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と語られています。主イエスはわたしたちの光として来てくださった。わたしたちが闇のなかを歩かなくてもよいように、わたしたち一人ひとりの能力や功績や価値によらず、どのひとりも大切にし、そればかりかわたしたちの罪を赦し、愛に生きる者としてくださるために、世に来てくださったのです。

寿地区センター主事の三森さんがセンターの主事となった年、1988年に次のように書いておられます。「ろばの家を利用しているAさんという人がいます。Aさんは頭を抱え、俺はなんて駄目なんだろう、と大きなため息をつき、嘆きます。そんなに自分を傷つけないで下さい、と言いたくなります。しかし、その前にいるわたしは、全く無力です。わたしは、以前劣等感の固まりでした。自分の生そのものを否定しました。しかし、このわたしに、『あなたはあなたのままでいい。ありのままでいい』と存在そのものを無条件に受け入れて下さった方に出会いました。その方が神でした。その時の驚きは生きる力となりました。わたくしは、Aさんに声を大きくして言いたいのです。『ありのままでいい。あなたは、あなたでいいのだ。そう言って下さる方がいるのだ』と叫びたいのです。」

たとえどのような状況にあっても、自分を傷つける必要はない。たとえどのようであっても、あなたは尊いと言ってくださるかたがおられる。「よろしい、清くなれ」と言ってくださり、「わたしもあなたを罪に定めない」と言ってくださり、「人よ、あなたの罪は赦された」と言ってくださるかたがおられる。イザヤ書53章の言葉を用いれば、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という、救いの主がわたしたちに与えられているのです。

ここで思い起こしていただきたいことがあります。それはマタイによる福音書2章に書かれている主イエス・キリスト誕生の物語です。2章の物語は、東の国の占星術の学者たちがひときわ大きく輝く星を見ることから始まっています。星を見る。言うまでも無くそれは夜の闇のなかです。東の国の占星術の学者たちは、暗い闇のなか星を見ていました。そしてそこにひときわ輝く光を見いだしたのでした。そして彼らはそれによって救い主のお生まれになることを知り、贈り物を持って旅立ったのでした。

昔からこれは3人の博士たちであると言われてきました。実際に何人であったのかは本当のところはわかりません。黄金、乳香、没薬という3つの贈り物から、3人とされてきました。伝説によれば、3人はアジア、アフリカなど地域、人種などを代表するとされます。つまり、言い換えれば世界中からお祝いにやってきたということです。また、黄金、乳香、没薬があらわすのは、黄金がこの世の富、乳香が礼拝の品、没薬は主イエスの十字架を予告するものなど、これらはあくまで伝説的な解釈でありますが、そのように理解されてきました。

そしてこのことを覚えたうえで、もう一度今日のイザヤ書60章を見ていただきたいのです。「起きよ、光を放て」という宣言で始められた60章は、「あなたの上には主が輝き出で」と、救いの光が照り輝いたことを高らかに伝えます。そのときどうなったでしょうか。4節、「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。」この4節で言われていることは、バビロン捕囚によって分かたれていた民が今やひとつとなるという幻です。

国が敗れたことによって人々は、家財産を失っただけではありません。人と人との交わり、共同体が破壊され、ばらばらにされていたのでした。それがひとつとなると4節で言われています。そして続けて、諸外国から贈り物を携えて人々がやってくるという幻が5ー6節で語られているのです。6節に「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えてくる」と述べられていることに注目してください。シェバは、ソロモン王を訪ねてきたシェバの女王で有名な名前でありますが、それよりも、ここに黄金と乳香が出てきます。つまり、ここには没薬こそ出てきませんけれど、イザヤ60章の言葉が、マタイによる福音書2章の主イエス誕生の物語ときわめて類似点のあることに気付かされるのです。

マタイは、誕生の物語を書き記すときに、イザヤの預言の言葉を心に留めていたに違いありません。学者たちがベツレヘムに向かっていくと、東方で見た星が先立って進み、幼子のいる場所の上に止まります。クリスマスカードに描かれるように、星からまっすぐな光が下へ降りていったのでしょうか。いや、考えようによれば、幼子のいるところから、光が夜空にまっすぐ輝いたということも出来るでしょう。そして東の国の人々は黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでした。

ところで、今日は1月4日、そして1月6日が公現日です。日本の国では、12月24日が過ぎるとクリスマスは終わりというような感覚がありますが、実際はそうではありません。教会ではまだクリスマスの飾りをしています。夜には玄関のイルミネーションもつけています。クリスマスは1月6日の公現日までだからです。公現日は顕現日とも言います。英語ではエピファニーと言います。顕現する、明らかに現れるという意味、あるいは、公現、公に現れるという意味です。

公現日、この日は幼子イエスが異邦人の前に姿を現された日とされています。具体的には、東の方から来た3人の博士たちが幼子イエスのもとに贈り物を持って訪問した日ということです。学者たちが主イエスのもとへ行ったのですが、しかしこれを博士たちの訪問日などと言うことはありません。そうではなく、この世界の闇を照らす光として御子主イエスが彼らに姿を現してくださった日であるゆえに、これを公現日あるいは顕現日と言うのです。

聖公会の神学院に学ぶ神学生のひとりが、寿地区センターの働きに参加し、その感想として、「ここには小さくても人々の交わりのうちに『希望の光』がある」と書いておられました。この希望の光の中心に主イエス・キリストがいてくださることを覚えたいと思います。そしてわたしたちも、光の子として、世の光として、歩ませていただきたいと願います。

(2009年1月4日 礼拝説教)