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2008年2月 「イエスは命のパン」 牧師 横野朝彦
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ヨハネ6・34―40
輸入された餃子に毒物が入っていたという事件は、わたしたち皆に不安を与えました。本当の原因はまだわからないようで、急速に発展する国において、意識とか管理が不十分だという意見もありますが、誰かが意図的に混入させたのではないかという話もあります。そしてまた、それでは日本の国は大丈夫かというと、そうとも言えません。日本の国において、昨年の一年間を表す漢字は、「偽」という字でした。賞味期限を書き換えたり、産地の表示を偽ったりという事件が相次ぎました。そしてこの「偽」という漢字は、決して北海道土産のお菓子や、牛肉や、あるいは高級料亭の話なのではなく、わたしたちの社会そのものを表しているように思えます。
そんなことを考えながら、わたしがふと思い出したのは、讃美歌の一節でした。54年版の讃美歌334番に、「いつわりの世に わかれを告げ 罪とけがれを うちしりぞけ」と歌われています。ところが、この同じ歌が讃美歌21にあることをこのたび初めて知りました。21の571番で、歌詞は「いつわりの世に 別れを告げん 罪と不正を われは憎む」となっていました。「罪とけがれ」という言葉が「罪と不正」となっているのに、少々驚きました。「けがれ」というとなんとなく精神的あるいは宗教的な感じですが、「不正」は大変具体的なわたしたちの生き方です。いつわりの世、それは罪と不正に満ちた社会であると、讃美歌はそのように歌っています。
しかし、どうでしょうか、テレビのニュースで謝罪のために頭をさげている人たちを見ると、この人たちが初めから罪や不正を承知でおこなったとはどうも思えません。会社のためとか、仕事のためにとしたことが、結果として人を欺くことになったのだろうと思います。あるいはこれくらいはいいだろうと思ったことが、大きなことに発展したように思えます。もちろん、なかには悪いと知りながらやった人もいるでしょうけれど、しかし多くの場合、社会的に問題になるとか、頭をさげなければならないなどとは思ってもみず、仕事を一生懸命していた結果なのではないでしょうか。
とすれば、一生懸命仕事をしてきた、その目的に何か間違いがあったのかも知れません。すなわち、わたしたちが生きるその方向が違っていたからではないか、と思えるのです。聖書の言葉で、罪をあらわす単語がいくつかありますが、そのなかでもよく使われていると思える単語のもともとの意味は、「的を外す」ことです。箴言8章に、「わたしを見いだす者は命を見いだし・・わたしを見失う者は魂をそこなう」という言葉があります。ここで、「わたしを見失う」と訳されている「見失う」が、「罪」とも訳される単語の動詞形です。
詩編78には、罪という単語は使われていませんが、罪の本質をよく表していると思える言葉があります。「彼らはいと高き神を試み/反抗し、その定めを守らず、先祖と同じように背き、裏切り/欺く弓で射た矢のようにそれて行き。」「欺く弓で射た矢」とありました。「欺く弓」とはどのような弓だろうかと思いますが、別の翻訳では「狂った弓」、また別の翻訳では「たるんだ弓」となっていました。狂った弓、たるんだ弓では、到底的に当てることはできません。的から「それて行く」しかありません。
そして、ここで言われている的とはなんでしょうか。弓矢が到達するべき的とはどこでしょうか。それは、詩編78に「いと高き神を試み、反抗し」とあったように、そしてまた箴言8章に「わたしを見失う者」とあったように、わたしたちが神さまを仰ぐことを忘れ、他のものに心奪われることにあると、聖書は語っています。聖書は偶像礼拝を禁じていますが、偶像礼拝とはつまり、神さまでないものを神とすることです。つまりこれも、神さまを見失い、的をはずすということになります。そして偶像礼拝というと、木で彫られたものを拝むとか、お札を拝むということを想像されるかもしれませんが、それだけではありません。その昔、エジプトをはじめ多くの国で王さまは神さまであると考えられていました。それは日本でも同じことです。この世の力、権力、そういうものを偶像とするのです。あるいは、この世の富を追い求めることも偶像礼拝のひとつです。主イエス・キリストが、山上の説教のなかで、「あなたがたは、神と富に仕えることはできない」と教えておられます。この言葉ですが、岩波版の新約聖書で見ると、「あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない」と訳されていました。マモンとは英語ですが、辞書をひくと「富の神:精神を離れて物質欲の象徴と書かれていました。またマモニズム、拝金主義という言葉もあります。ですからここでは、富が神さまに代わって、偶像となりうることを指摘されているわけです。
出エジプト記に出てくる天からの食べ物、マナについて後で少し話しますが、あのとき、人々に1オメルずつ、つまり、一日分ずつ集めなさいという命令が与えられました。明日の分も、明後日の分も、あわよくばこれを集めて一儲けをしよう、ではなく、その日の糧を神さまからいただきなさいと命じられています。聖書学者で、パレスチナ問題にかかわっておられる太田道子さんは、1オメル運動というのを提唱しておられます。世界には圧倒的に多くの飢えがある、食べられない人がいる、そのいっぽうで食べ物が捨てられる国がある。今、テレビで大食いなるものがはやっています。現代のわたしたちこそ、1オメルという言葉を心に留めなければならないと思います。
さて、今日お読みいただいた聖書の箇所の冒頭34節に、主イエスの言葉を聞いた人が、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言ったと記されています。今日読んでいただいた箇所は、実のところ6章の初めの部分、最初に「5千人に食べ物を与える」という話から始まっています。5千人が食事をしたという話は、大変不思議な、そんなことはありえないと思えるような奇跡物語であるにもかかわらず、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書がすべて書き記しているところです。こんにち、これを科学的に説明できるものではありません。しかし、主イエスの時代、そして初代教会においても、この話はとても有名な話として人々の間に伝えられていたようです。
5千人という人数が誇張であるとしても、4つの福音書全部が語り伝えていることからしても、なにかしら不思議な出来事があったと思われます。ただ申しておきたいことは、聖書は、このような不思議な出来事があったからといって、だからイエスさまを信じなさいなどとは言っていません。だからこの人は神の子だ、だから信じなさいなどとは言わないのです。
福音書によって、この出来事をとおして伝えたいこと、強調したいことは若干違うように思えますが、ヨハネによる福音書は、他の福音書以上にこの物語をとおして語りたいことがあったようです。それは何かといえば、「5千人に食べ物を与える」の物語の終わりの部分、15節を見ていただくとわかります。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」ここで主イエスは、人々が自分を持ち上げ、この世の力の象徴のようにしようとしていることに気づかれて、そのために山へ退かれたというのです。
イエスさまは神さまの子なのだから、皆に拝まれればいいじゃないかという考えもあるかもしれません。でもそうではないのです。この世の力、王さまとして扱われることは、これも一種の偶像礼拝である、本当に神さまを信じることではなく、自分たちに都合のよい力あるものを拝むにすぎない、そのように思われて、山に退かれたのです。
16―21節は「湖の上を歩く」という出来事です。これも不思議な話ですが、湖が荒れて恐れる弟子たちのところに主イエスが来てくださり、「わたしだ、恐れることはない」とおっしゃってくださっています。たくさんの人に食べ物が与えられ、そして今ここでは荒れた湖で恐れをいだく弟子たちに、「恐れるな」と言ってくださる。主イエスがわたしたちを養ってくださり、共にいてくださり、恐れを取り除いてくださることが証しされています。
さてこのあと、主イエスによってパンをもらい、養われた人々が、主イエスを探し求めてやってくるという話が続きます。22―24節あたりは、なんだか人々が右往左往し、混乱しているように見えます。そしてようやく25節で、彼らは主イエスと出会います。「『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』」
この問答を読むと、主イエスはむしろこのように人々が押し寄せてきたことに困惑しておられるようにさえ思えます。つまり、人々が自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、山に退かれたのと同じように、このように人々がやってきたのは、本当に大切なものを求めてではなく、ただパンが欲しいからではないか、そのように思われたからでしょうか。
このように、ヨハネによる福音書では、5千人が食べたという話を記述して、それで終わりとはしません。むしろこの物語を始まりとして、一連の出来事、人々との会話が始まっています。そしてここで主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と教えられるのです。あなたがたが求めているのは、食べても、食べても、すぐにお腹がすいて、もっと欲しくなるパンではないか。そのようなパンではなく、「いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と教えられるのです。
主イエスはまた、マタイによる福音書の山上の説教において、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」と教えておられます。マタイ6章です。また、パウロは第二コリント4章で、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。主イエスがヨハネ6章で教えておられるのも、これと同じ趣旨と考えてよいでしょう。
ここでもうひとつ読んでおきたいのは、旧約聖書申命記8章です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」この言葉の後半部分は、主イエス・キリストが、荒れ野の誘惑において、「石をパンに変えてみよ」というサタンの誘惑に対して答えられた言葉です。この申命記で言われていることは、どういうことでしょうか。旧約聖書出エジプト記において、古代イスラエルの民が荒れ野をさまよったときに、人々は天からのパン、マナによって養われたのでありますが、これは、ただ空腹を満たすためにマナが与えられたのではなく、わたしたち人間は神さまによって養われていることを悟るようにするためであったと、申命記はそのように述べているのです。しかも、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と、ただパンではなく、主の御言葉によって生きることを悟らせていったのです。
それを考えると、今日のヨハネの記述もそれと同じです。主イエス・キリストはなんのために5千人に食べ物を与えられたのでしょうか。マルコによる福音書には、「イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」とあります、ここでは主の憐れみが強調されていると思えます。しかしヨハネは、この出来事をとおして、主がわたしたちを養ってくださっていること、わたしたちは主によって生かされているのだと、そのことを強く訴えているのです。31節で人々が「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」と言っているのは、さきほどわたしが述べたようなことを思い起こさせるためです。
そして、このような会話のやり取りをとおして、主イエスは神さまがくださるパンについて語られます。ところが、人々はまだ理解できません。そこでやっと今日読んでいただいた34節以下になるのですが、彼らは言うのです。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」このとき、話としては、目に見えるパンではなく、神さまの救いが語られているにもかかわらず、彼らはまだそのことを理解できないで、「そのパンをいつもわたしたちにください」と言うのです。
このような流れをみると、これはヨハネ4章の、イエスとサマリアの女」の話と実によく似ていることを思わされます。このとき、主イエスはサマリアのシカルの井戸辺に来られます。そしてひとりの女性と出会われ、「水を飲ませてほしい」と言われるのです。ここから会話が始まります。主イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われたのでした。これだけでも今日の話と似ていることがわかります。ところが、そこでサマリアの女性は言うのです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」これは、ヨハネ6章34節の「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と極めてよく似ていることがお分かりだと思います。
このような会話を経て、主イエスは言われるのです。「わたしが命のパンである」と。そして主イエスの言葉は続き、39―40節では「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と教えられています。ヨハネ3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、今日の箇所の言葉も、この言葉を繰り返し述べたものと考えられます。
そして今日わたしが注目したいのは、「わたしが命のパンである」に続けて言われた主イエスの言葉です。主イエスは言われます。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」主イエスは、ここで「わたしのもとに来る者は」と言っておられます。わたしたちは、主イエスに対して何を求めているのでしょうか。主イエスからパンをもらうことでしょうか。水を飲ませてもらうことでしょうか。いくらでもパンがわき出てくる、水がわき出てくる、万能の便利な存在を求めているのでしょうか。そうではなく、むしろわたしたちにとって大事なことは、主イエスのもとに行くことなのです。
この世の富や、力や、目に見える華やかさ、大きく、強く、立派なものを求めるのではなく、主イエスを求める、言い換えれば、弓矢の目標を、この世の栄えではなく、主イエスの方向に向けていく。それこそ大事なのです。
最初に申しましたが、食品偽装や毒入り餃子事件など、おかしなことばかりが続いています。わたしたちの社会は、生きる方向を間違えてしまったと思えてなりません。「そのパンをいつもわたしたちにください」と、いやそれどころか、他の人の分もわたしにください、明日の分どころか、来年の分もくださいと、このように、完全に方向を間違えてしまって、まさしく欺く弓、たるんだ弓となってしまい、矢ははるか違うほうこうにそれてしまっています。大切なことは、主イエスこそわたしたちを生かしてくださるかたであることを覚え、わたしたちの心と身体をしっかりとそちらに向けていくこと、主イエスのもとに行くことなのです。
(2008年2月3日礼拝説教)
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