番町教会説教通信(全文)
2008年1月 「傷ついた葦を折ることなく」        牧師 横野朝彦

イザヤ42・1-9

大きな川の中洲などに葦の群生するのを見ることができます。出エジプト記の始めの部分で、モーセが生まれたときに、エジプトの王様の虐殺から逃れるために、籠のなかに、「男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」と書かれています。葦は群れをなして育っています。それが一本だけぽつんと立っていたとすれば、風に吹かれて簡単に折れてしまうことでしょう。今日お読みいただいたイザヤ書42章3節に、「傷ついた葦を折ることなく」と書かれていました。葦は弱く、か細いものに過ぎません。葦が一本だけで、ましてや傷ついていたならば、それは簡単に折れ曲がり、倒れてしまうことでしょう。

列王記下とイザヤ書には、「折れかけの葦の杖」という言葉があります。葦のような細くて弱いものが杖になるはずがありません。この言葉がでてくるのは、その昔人々が神さまを頼りとせず、他のものを頼りとしていることについて、「あなたがたは折れかけの葦を杖としている」と批判されている箇所です。か細く弱いものを頼りにしても、体の支えにはならないのです。それはむしろ、わたしたちが保護しなければならない、守らなければならない存在です。

パスカルは、「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」と述べています。人間は、自然のなかでも弱い、かぼそい、一茎の葦にすぎないと言うのです。それは第一に、人間は一人では生きられないということでしょう。第二には、傷つき易く、折れ易い存在だということであり、第三には、保護、守りを必要とするということではないでしょうか。

イザヤ42章3節にはまた、「暗くなってゆく灯心を消すことなく」ともありました。今ではランプを使うことも、ろうそくを使うことも、ほとんど無くなりましたが、ランプを長時間灯すのは結構手間のかかることだと思います。ろうそくの火も、ちょっと風が当たると消えますし、また手に持って歩こうとすると、今にも消えそうになります。大事に大事に守り、覆いをしてやらねばなりません。またマタイ25章に10人の乙女の話しがあるように、ランプの油がなくなってしまっては大変です。

先日、ナイチンゲールの手記のごく一部を読む機会がありました。読んだのは、「赤ん坊の世話」という話です。赤ちゃんには新鮮な空気が必要なこと、太陽の光を取り入れること、適度な温かさが必要なこと、清潔にしておくことなど、細かく指示されていました。閉め切った部屋で空気がよどんでいると、大人は何の影響を受けなくても、赤ちゃんは身体を悪くするといった実例などが書かれ、そして最後にこんなふうに書いてありました。「病気の赤ん坊の生命を吹き消すのは、ろうそくの火を消すのとおなじくらい簡単なことです。」実に簡単な言葉で、しかし恐ろしいことが言われています。

わたしがこれを読んで思ったのは、赤ん坊がこのように保護を必要とするということよりは、むしろ人間とは本来このように弱いものとして生まれたのだということでした。大人になると強くなったかのように見えますが、実は本質的なところで弱いのが人間ではないでしょうか。大人になると身体も大きくなり、まさに壮健という言葉で表されるように丈夫で元気になります。力仕事も可能です。でも、何かがあると弱さが露呈する、それが人間ではないでしょうか。強い風が吹くと簡単に折れてしまったり、消えてしまったりする。そのような存在なのだと思います。

詩編にも歌われています。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる。」 これと似た聖句がイザヤ書40章にあります。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。」この言葉は新約聖書ペトロ第一の手紙にも引用されています。聖書は、人の強さを誇ることがありません。人は弱いものであり、限りあるものだというのが、聖書の一貫して語るところです。

芸能にしてもスポーツにしても、あるいは学問にしても、その道を究めた人のインタヴューを聞いていると、謙虚なものの言い方に感心をすることがあります。道を究め、能力的にはわたしなど足元にも及ばない、初めから比べるのがおかしいほどに優れたものを持っておられるのでしょうが、このような人たちは多くの場合自分の弱さを知り、限界を知っておられるのに気づきます。強くあるための努力は大切ですし、向上心も必要ですが、そのいっぽうで弱さを知っているというのはとても大事なことだと思います。

ところが、にもかかわらず、わたしたちは弱さを認めようとしません。多くの場合、自分のなかにある弱さを隠そうとするのが普通だと思います。また弱さを知られるのは恥であると考える人も多いようです。そして自分を叱咤激励して自分で自分を追いつめ、駄目になってしまうことがありますし、また他者に対してもそれを求め、追いつめることもあります。

1日の新年礼拝で、わたしは横川和夫さんというジャーナリストが書かれた「心の癒しの場」という本の紹介をさせていただきました。そのときに申し上げたことですが、心に傷を負い苦しんでいる一人の女性が言います。「わたしがつらくて悲しかったときも、母は叱咤激励し続けた。」この言葉は、わたしたちの社会の姿を表すものだと思います。この人の場合、お母さんが彼女を叱咤激励し続けたのでしたが、ここで学校とか会社とか、別の言葉に置き換えてもそのまま当てはまります。

別の本で、幼稚園の園長さんの体験されたことを読みました。園長先生は言われます。「子育てというのは、その子が悪い方向ではなくて、いい方向に向っていってもらうために一生懸命になります。悪いと思ってするのではなく、その子のために良いと思って一生懸命している。実はその一生懸命さがマイナスになっていることがたくさんあります。」

いつも泣いていて、気の弱い子がいました。ひょろひょろの細い体で、外に出してもらっていないので青白い顔をしていました。でも、その子が泣いていても、親はその泣いている理由を尋ねようともせず、強くしなければと、少林寺拳法や柔道を習わせたりしたそうです。あるとき幼稚園で雛人形を作りました。でもその子は人形を家に持って帰りません。どうしてと聞くと、「僕が一生懸命作ったもの、一生懸命描いたものみんな、お母さんはゴミ箱に捨てるからだ」というのです。なぜゴミ箱に捨てるのか。それは、上手に描いたものは飾ってあげるけれど、下手なものは捨てるのが家の教育方針だというのです。結局その子は高校生のときに家庭内暴力を爆発させました。現在、少しずつ良い方向に向っているとのことですが、まだ苦悩をしておられるようです。

傷ついている葦を守るのではなく、強い葦になれと叱咤激励し打ち叩き、ローソクの火が消えかかっているのに、もっと燃えろと風を送る、そんな倒錯した生き方に、わたしたちは陥っているのではないでしょうか。そのようなわたしたちに、今日読んでいただいた聖書の箇所は、大切なことを伝えてくれています。イザヤ書は長い年月にわたって複数の人によって書かれています。そのなかでも、40章から55章までは第二イザヤと呼ばれ、聖書のなかでもとても大切な箇所となっています。大切であるというのは、旧約聖書のなかにあって特に新約聖書との結びつきが深い書物だと考えられるからです。

そして第二イザヤのなかでもさらに大切と思えるのが、このなかに出てくる「主の僕の歌」と呼ばれる箇所です。具体的には今日読んでいただいた42章1ー4節、そして49章1ー6節、50章4ー9節、52章13節―53章12節、以上の4箇所が「主の僕の歌」ないしは「僕の歌」と呼ばれるものです。さらに「苦難の僕の歌」とも呼ばれます。「苦難の僕の歌」というと、52章から53章にかけての歌を指すことが多いですが、今日の42章も「苦難の僕の歌」と考えてよいと思います。

なぜ、第二イザヤが、そして「主の僕の歌」が新約聖書と結びつきが深いと考えられるのでしょうか。それはほかでもありません。わたしたちは主イエス・キリストにこそ、ここで歌われている主の僕の姿を見るからです。何と言っても53章に出てくる言葉は、わたしたちの心を打ちます。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに・・・彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」 

この言葉はこれまでにも何度も引用をしてきました。そして今読んだ53章の主の僕、苦難の僕につながる言葉として、今日読んでいただいた42章があるのです。今日の42章1節は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」と書き始められています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」、ここで言うわたしとは、イザヤのことではありません。神さまご自身が語り手となっています。神さまの僕、つまり主の僕がおられる、その僕は3節にあるように、「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする」、そのような方であると、イザヤは告げています。

第二イザヤが描いた主の僕の姿を、わたしたちは主イエス・キリストに見ると申しました。言うまでもありませんが、これはわたしたちの勝手な見方ではありません。マタイによる福音書12章15節以下にその証しがあります。マタイ12章15節以下で、主に従う大勢の群集がいたこと、そして主イエスは皆の病気を癒されたことが記され、続けて書かれています。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。』」

福音書記者マタイも、主イエス・キリストこそ主の僕である、主イエス・キリストこそ傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないかたであると信じて、信仰の告白を言い表わしたのです。ほかにも、マタイ8章ではイザヤ53章の「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」が引用されていますし、ルカ22章では「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは必ず実現する」とあるのは、やはりイザヤ53章です。また使徒言行録8章でエチオピア人が馬車のなかで読んでいた聖書の箇所もイザヤ53章です。このように主の僕の歌は、まさしく救い主イエス・キリストの姿とつながっているのです。

主イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」と言われました。正しいとされている人ではなく、人間の罪深さや弱さに苦しんでいる人のために自分は来たのだと言われました。また主イエスは、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われ、迷い出た1匹の羊を譬に語られました。主イエスの衣に後ろから触れた女性も、屋根からつり降ろされた中風の人も、重い皮膚病を患っていた人も、皆そのままでは今にも折れてしまいそうな傷ついた葦であり、今にも消えそうな暗くなってゆく灯心でした。けれどもこの人たちは主イエスと出会うことにより、癒され、立ち上がり、また消えることない光の子とされたのでした。

読んでいただいた聖書の箇所について、少しだけ解説をしておきます。1節に「彼は国々の裁きを導き出す」とあります。3節には「裁きを導き出して、確かなものとする」とあります。また4節に「この地に裁きを置くときまでは」とあります。このあたり意味の分かりにくいところです。ここで裁きと訳されている言葉は、正義と訳すこともできる単語です。そのため注解書には、「神の救いの計画」という意味だと説明されていました。ですから1節の部分は、「彼は国々に神の救いの計画を導き出す」、3節は「神の救いを導き出して、確かな者とする」、4節は「この地に神の救いの計画を置く」と読むことができます。神さまの救いの計画がわたしたちのうちに実現するように、主の僕は失われたものを探し求めてくださり、守ってくださるのです。

後半5ー9節は「主の僕の歌」には属しませんが、ここにも印象深い、恵みに満ちた言葉が記されています。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。」

天地を造られた神さまは、わたしたちに息を与え、霊を与えてくださいます。そして神さまはわたしたちに救い主を立ててくださいます。それは、「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために」です。この言葉は、具体的にバビロン捕囚からの解放が告げられているところですが、わたしたちはもっと広く、この世にあって重荷を負っているすべての人への福音として聞き取ることができます。

最初にも引用したように、パスカルは「パンセ」(瞑想録)のなかで、「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」と言っています。パスカルがこの言葉を書いたとき、彼の頭のなかにイザヤ42章の言葉があったのは間違いないとされています。パンセを読むと、パスカルは、この宇宙の中で地球さえも、さらには天体の運行さえも、宇宙全体の中では小さいものであり、ましてや人間存在などなんと小さいことかと考えます。それはまるで一本の葦のようだ、いつ折れるか、いつ傷つくかわからない弱く脆いものに過ぎないと考えます。しかしパスカルは言うのです。人間は弱く小さな存在だけれど、しかし神さまを考えることが出来る、と。ここで考えるとは、頭でひねくりまわして研究することではありません。どんなに弱く、脆く、折れそうなときでも、消えそうなときでも、神さまの救いの働きを思うことができる、そのような意味であるとわたしは思います。

パスカルはまた、「われわれの想像がその思考のなかに自分を見失ってしまうということこそ、神の万能について感知しうる最大のしるしである」と言っています。わたしたちが自分を見失うほどに弱さを覚えるときこそ、神さまに心を向けるチャンスだと言うのです。人間は一人では生きられません。傷つき易く、折れ易い存在です。保護、守りを必要とします。そのようなわたしたちに、神さまは主イエス・キリストを救い主としてお送りくださいました。主イエス・キリストは弱いものに対して叱咤激励してそれを強くするのではなく、その弱さを共に担うことによって、愛を現してくださいました。そして、その受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、その受けた傷によって、わたしたちはいやされたのです。この愛を感謝して受け止めたいと願います。そしてそれとともに、わたしたちが出会う人、わたしたちの生きているその場で、小さくされている人、弱くされている人を大切にしていきたいと願います。

(2008年1月6日礼拝説教)