|
2007年7月 「見失った羊」 牧師 横野朝彦
|
エゼキエル34・1―6
ルカ15・1―6
弓町本郷教会のメンバーで、坪井節子さんという弁護士さんがおられます。前に、坪井さんが書かれた「子どもは大人のパートナー」という本を紹介したことがあります。この本の第2章は「学校で苦しむ子どもたち」、第3章は「非行に走った子どもたち」、第4章は「見捨てられた子どもたち」です。いじめなどで学校に来れない子どもたちや、暴力や虐待のなかで育った子どもたち、家庭環境を奪われた子どもたちのこと、また本来子どもたちが保護されるはずの施設で体罰などの虐待を受けた子どもたちのことが、具体的に書かれていました。坪井さんが最近、「子どもたちに寄り添う」というタイトルの本を新しく出され、この本にも同様の具体的な事例が紹介されています。これらを読むと、子どもたちが如何に生きにくい状態に置かれているのかを思わされます。
「子どもたちに寄り添う」に書かれていた事例をひとつだけ紹介します。ある少年は中学3年のときにクラスメイトからいじめにあいます。陰口、からかい、無視。毎日のいじめはもちろん苦しいものでしたが、それ以上に彼を苦しめたのは、なぜ自分がいじめられるのかという自分への問いでした。自分を変えればいじめから逃れられると思い、無理に明るく振舞ったり、友だちの話に合わせて笑ったり、おどけたりしました。しかし、それでいじめが無くなるわけではありません。彼に問題があっていじめられたのではなかったからです。またそのようにおどけたりするのは、本来の自分の姿を自分で否定することでしかありませんでした。
そこで彼は、「もう学校に行けない」と、親にひとこと訴えます。でも、親はそこで、「何を言っているの? がんばりなさい。あと3ヶ月だけがまんすれば高校よ」と、彼を励ましたのです。親の立場からすれば当然の反応のように思えます。しかし、それは彼がなぜ苦しんでいるのかに、思いをよせることのない言葉でした。彼は、「ぼくは強くなれない、がんばれない」と自殺を図ります。幸い発見が早く、一命をとりとめました。後に彼はこのように言っています。「自殺を考えているときに、何よりも腹が立ったことばがあった。教育委員会か何かが流している子どもたちへのメッセージに、『死なないで子どもたち、死ぬ勇気があるならいじめに立ち向かえ』っていうのがあった。・・・いじめに立ち向かえないから死ぬのに。いじめに対して何もしてくれない大人がなんて無責任なことを言うんだって腹が立ったんだ。」
わたしは、今日お読みいただいた聖書の箇所、ルカによる福音書15章の「失われた羊」の譬話を読みながら、つい最近読んだばかりの坪井さんの本に書かれていた子どもたちのことを思い起こしました。彼らはこの社会という群れのなかかで生きることが難しくなった子どもたち、あるいは群れからつまはじきされて出て行った子どもたちです。
北海道家庭学校の校長をしておられた谷昌垣先生が書かれたもので、「森のチャペルに集う子ら」という本があります。これは随分前に、雑誌「信徒の友」に連載されていたものがまとめられたものです。家庭学校に入ってくる子は確かにいろいろと悪いことをしてきた子どもたちです。窃盗、万引き、暴力、シンナーなど、問題行動をしてきました。しかも彼らは罪の意識がほとんどありません。わたしたちが見れば、どうにもならない悪い子とレッテルを貼り、見捨ててしまうのだろうと思います。しかし谷先生は言われます。「少年たちには、胸いっぱいの言い分があり、ほとんど叫び出したいまでの思いがあった。自分はうとんじられている。家族の中で、どうして僕だけがこんなに邪魔にされているのだろう。虐待さえ受けている。そうした口惜しさ、無念さばかりがある。盗みをした。乱暴をした。そんなことが何だ。僕はもっともっとひどい仕打ちを受けている。そんな思いがあるのです。」谷先生はこのように書いておられます。確かに悪いことをしたのは事実であり、彼らがいくらこのように言っても、それで赦されるわけではありません。でも、それでは彼らに全部その罪をかぶせてしまえばよいのかとなると、これもまた違うのだろうと思います。
今日お読みいただいた聖書の箇所で、1匹の羊が迷い出たことについて、従来はこの羊に問題があるように考えられてきました。本当にそうなのでしょうか。正しいと思われてきた99匹にも問題があったのかもしれません。また、今日は正しいと思われている一匹が、明日は失われた一匹かも知れないのです。今の社会の閉塞感というか、全体を覆っているように思える不安は、ひとつには、いつ自分が社会から落ちこぼれるかわからない、いつ自分が失われた一匹になるかわからない、そんな不安感もあるようにわたしには思えます。
こどもさんびかに、「ちいさいひつじが」という歌があります。「ちいさい羊が家を離れ、ある日遠くへ遊びに行き、花咲く野原の面白さに、帰る道さえ忘れました。」 聖書の話を分り易い歌にしたもので、親しみのある歌です。わたしにとっても、好きな歌のひとつと言ってよいものです。でも、改めて考えてみると、ここで歌われている羊が道に迷い、帰る道を忘れたのは、この羊自身の問題です。勝手に遠くへ遊びに行ったのがそもそも悪かったのです。
このように、失われた羊自身に問題があったという考え方は、間違いではありません。ルカによる福音書15章には、ご承知のように11節以下で「放蕩息子の譬」があり、ここで放蕩の限りを尽くした弟息子は明らかに本人に問題があります。しかし、本人に問題があるからと、息子を裁くだけでよいのではありません。彼にもきっと言い分があり、外へ出たいという強い願い、爆発するような願望があったのではないでしょうか。そしてそれは、あるいは社会という群れが彼を抑え付けてきたために、何か叫び出したくなるような衝動をもって、家を飛び出したのかも知れません。
いっぽう、主イエスの譬話は、放蕩をした弟息子の話に続いて、真面目な兄息子のなかにあるゆがんだ心を明らかにしています。正しい、悪いということだけで言えば、弟のほうが悪かったのでしょうけれど、しかし、主イエスはそのことだけで弟を裁いたり、兄を模範的だとほめたりはしていません。かえって、弟が帰ってきたことを無条件に受け入れ、いっぽう、兄の心のなかにある問題を浮き上がらせています。
先日、あるかたが小さな子に、「良い子だからこれをして」と、何か頼まれたところ、その子が「大人の言う良い子って、大人の都合の良い子なんでしょう?」と、言葉を返してきたそうです。まさしく的確な言葉です。もっとも、このような言葉も、場合によっては問題発言、問題のある子の発言と受け止められるかも知れません。兄息子のほうは、親に気に入られる息子、大人にとって都合のいい息子であろうと、自分を縛りつけ、不満を募らせていたことが、譬話からわかります。
教会のなかで、よく、「わたしは放蕩息子のような存在で」と言われるかたがあります。それはご自身を振り返っておっしゃっていることで、間違いはないのでしょう。でもわたしは、それならば、「わたしはあの兄のような存在で」と自らを省みる人がもう少しおられてもよさそうなものだと思うのです。少々冗談を込めた言い方でありますが、わたしは真面目にそのように考えます。放蕩息子だけが悪かったのではなく、兄にも問題がありました。それと同様に、失われた一匹だけが悪いとは言うことができず、また失われなかった99匹が常に正しかったとも言うことができません。
本日はルカによる福音書を読んでいただきましたが、今日の箇所の並行記事がマタイ18章に書かれています。そしてマタイでは失われた羊の話の直前に、「天の国でいちばん偉い者」という話、そして「罪への誘惑」という教えがあります。そこで、「わたしの名のために、このような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と書かれており、さらに、「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と、なんとも恐ろしいことが書かれています。
これらの言葉は、ルカ福音書では、9章と17章に書かれており、今日の15章の話とは直接の関係はない言葉となっていますが、マタイでは同じ18章で、しかも続けて書かれています。ですから、マタイの場合、少々読み込みが過ぎるかも知れませんが、失われた一匹とは、他の99匹によってつまずかされた一匹であると読むことも可能です。
本日は、ルカ15章に合わせて旧約聖書エゼキエル書34章を読んでいただきました。ここでも失われた羊が出てきます。そしてここでははっきりと、彼らが失われた理由について述べています。それはひとことで言えば強い者、大きな者が横暴を振るっているからです。ここではエゼキエルの時代の人々が羊に例えられ、そして支配者たちのことが羊飼いに例えられています。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。」このように、当時の社会の現状、支配者たちの現状が厳しく告発されています。彼らは人々を養おうとせず、弱いものを顧みず、病める者を癒さず、傷ついたものを包もうとはしなかったのです。
このような現状は支配者たちだけの問題ではありません。34章の17節以下には、大きな羊、力のある羊たちのことが問題とされています。「お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。・・・お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。」
ここにはっきりと、当時の社会の問題が指摘されています。大きな、肥えた羊が、草を踏み荒らし、水をかき回し、小さな、弱い羊は、踏み荒らされたあとの草を食べ、かき回されたあとの水を飲んでいる、それにもかかわらず、羊飼いはその状態を放置している。すさんだ社会、ゆがんだ社会の姿がここにあります。そしてこのような姿は、まるで今のわたしたちの社会、今のわたしたちの国の現状がそのまま描かれているような気がします。
そしてここで預言者エゼキエルは、社会の現状を告発しているだけではありません。さらに大事なことを述べています。それは34章11節以下です。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」また、15ー16節、「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」ここで、神ご自身が羊飼いとして、群れを養い、失われた者を探し求め、癒しを与えてくださると記されています。
そしてさらに、23節には明確なメシア預言があります。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」 この預言は、預言者イザヤがおこなったインマヌエル預言、「わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる、見よ、おとめがみごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と並ぶほどに大切な、メシア預言であると思います。
そして、このようなエゼキエルの預言の言葉があって、次の言葉、主イエス・キリストの次の言葉の意味が明らかになるのです。ヨハネによる福音書10章です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
以上のように羊飼いと羊の譬を、旧約聖書の預言との関連で読んでいくならば、今日読んでいただいた99匹の羊、そして失われた羊の意味、1匹を探し求めてくださる羊飼いの譬の意味も明らかです。99匹と1匹の羊たちの現状は、この社会の現状そのままであり、そして探し求めてくださる羊飼いとは、すなわち、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃってくださる主イエス・キリストそのかたなのだということが明らかです。
最初に紹介をした坪井節子さんの「子どもたちに寄り添う」の本のなかで、坪井さんはご自分の歩みを振り返っておられます。弁護士になって7、8年してから、子どもの人権救済センターの相談員となりました。学校や家庭で問題を抱える子どもや親からの相談を受ける活動です。そこで、坪井さんは傷ついた子どもたちの現実に、次々と出会っていくのです。いじめによって自殺未遂をした子がいました。80錠飲めば死ねるという薬を50条飲んだといいます。つまり、本当には死にたかったのではなく、生きたかったということの印です。母親と義理の父親に何ヶ月ものあいだ殴られ、蹴られ、最後は食事も与えられずに死んだ2歳の子ども。幼いときに親に捨てられ、働く場所も、住む場所もなく、売春をしていた少女。坪井さんが書いておられます。「大人は同情して近寄ってくるけれど、手に負えない子どもだとわかると見捨てていく。そのことを何度も何度も経験してきた子どもは、もうこれ以上傷つけられたくない、だから大人を簡単に信用しなくなっています。ヤマアラシのように体中の針を逆立てて、人を寄せつけようとしないのです。わたしは途方に暮れました。」
坪井さんは、高校1年生の時まで教会学校に通っていました。しかしその後、教会を離れてしまっていました。でも、このような子どもたちの現実と出会うなかで、彼女は再び祈るようになったということです。「わたしを救ってくださいとは言いません。でもどうか、あの子たちだけは抱きとめてください。わたしたちには、どうすることもできないのです。あの子たちの苦しみや悲しみを抱きとめてくださるのは、あなたしかいないのです。」このように祈る中で、あの子どもたちの苦しみに、最後の最後まで寄り添ってその苦しみをともにしてくださる方は、イエス・キリスト以外にはおられないということに気づいていかれます。そして次のように書いておられます。「祈りは聞き届けられていきました。神は生きて働いておられるということを、毎日のように、目の当たりにする日々となりました。決して、いつもいつもわたしが望むようにではありませんが、わたしは何度、『神さま、ありがとうございます』と祈れるようになったことでしょうか。」
そしてこのようなことがあってのちに、教会の礼拝に再び出るようになり、今から7年前、2000年のイースターに信仰告白をされたのでした。幼児洗礼を受けておられたので、信仰告白式によってキリスト者となられました。「再び神さまのもとへ、教会へと連れ戻してくれたのは、これらの子どもたちだったといっても過言ではありません。打ち捨てられる子どもたちとともに歩いてくださるイエスさまが、わたしをも招いてくださったのだと思います。」
わたしたちは神さまの羊の群れの一匹です。自分は失われた1匹の羊だと思っておられるかたもおられるでしょう。いや、自分では気づいていなくても、小さな1匹をどこか隅へ追いやっている99匹の側にいるのかもしれません。迷い出ていることにさえ気づいていない状態なのかもしれません。そのようなわたしたちさえ、主が探し求め、導きを与え、守ってくださることを覚えて、主に従っていきたいものです。
今日交読文でお読みした詩編の言葉をもう一度読み、今日のわたしのメッセージを終わります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
(2007年 6月24日 礼拝説教)
|
|
|