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2007年6月 「神の息吹」 牧師 横野朝彦
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使徒言行録2・1―13
本日は聖霊降臨日、ペンテコステです。この日は教会の誕生日と言われています。神さまから聖霊を与えられ、聖霊の力によって、キリストの福音を宣べ伝え始めた、そのことの記念の日です。この日以降、主イエス・キリストの福音が伝えられ、最初は「家の教会」とも言われる小さな集まりだったでしょうが、次第に教会が建てられ、福音は世界に広まっていったのです。まさに教会の出発点、誕生日と言える出来事です。
教会学校では、子どもたちの礼拝が終わってから、いつも遊んだり、工作をしたりしていますが、教会学校でのそのようなプログラムの案として、風や息を使った遊びをすることがあります。アルトハウスさんというかたが書かれた「教会の祭と行事の祝い方」という本を開いてみると、凧揚げ、風船飛ばし、シャボン玉、吹奏楽器、旗、のぼり、風車、風鈴などが活動例としてあげられていました。野外でおこなう凧揚げ礼拝という礼拝の例が書かれていました。もっとも、番町教会のような街中の教会では、凧揚げは難しいです。そういえば、わたしが小学生のとき、教会学校で風船飛ばしをしました。風船に手紙をつけて飛ばしました。子どものわたしには、何もわかっていませんでしたが、考えてみれば、あれば聖霊降臨日だったのかも知れません。もっとも、風船は自然に還りませんから、環境問題が深刻な今の世の中は、風船飛ばしにも問題があるようです。
先週の日曜日、教会ではチャペルコンサートが行われました。チェンバロとオカリナという、どちらも素朴な音色であるにもかかわらず、実に多彩な音が奏でられました。またオカリナという比較的新しい楽器にもかかわらず、チェンバロと一緒にバロック音楽が演奏されたことが、ごく自然で、とても素晴らしいコンサートでした。わたしはコンサートの初めに、いつも聖書の言葉を語らせていただいていますが、先週わたしは、演奏されるオカリナという楽器が土でできていることから、創世記2章に書かれている、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった」という箇所を読み、お話をさせていただきました。土で作られた楽器に息を吹き入れて音を出す、そのことが聖書の言葉とそのまま重なり合うように感じたからです。
チャペルコンサートで申し上げたことと重なりますが、少し復習することにして、お話をいたします。新共同訳聖書を見ると、「主なる神は土の塵で人を形づくり」という言葉の、土という言葉の次に括弧をして(アダマ)と書かれ、人という言葉の次には(アダム)と書かれています。これはもともと語呂合わせです。アダムというのは、本当のところは、名前ではなく、「人」という意味です。人間は、そもそも土のようなもので、それ自体には価値がなく、弱く脆いものであるという人間理解、人間観があります。どんなに肩書きの立派な人であっても、どんなに才能豊かな人であっても、またそのような肩書きや才能を持たない人であっても、人間は神さまの前に等しく弱く小さなものだというのが聖書の語るところです。
しかし、そのような弱く小さな、また脆く欠け易い土の器に、神さまが命の息を吹き入れてくださった。そうすることによって初めて人間は生きたものとなった、別の言い方をすれば、神さまが命の息を吹き入れてくださることによって、わたしたちは生かされている、それが聖書の語る人間観なのです。
そして旧約聖書の言葉で、息と訳される言葉は、日本語の息よりももっと広い意味の言葉で、風と訳すこともできますし、また霊と訳すこともできます。つまり、土の器に過ぎない存在に、神さまが風を、そして霊を吹き込んでくださった。そして人は生かされているという人間理解です。
コンサートでわたしは、創世記の言葉と共に、第二コリント4章の御言葉を読みました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
ここでいう宝とは、イエス・キリストのことなのですが、今ここではもう少し広い意味にとって、神さまがくださる命とか、神さまの愛と理解すればよいと思います。つまり、わたしたち人間は弱く、もろく、しばしば行き詰まり、挫折をし、途方にくれてしまうけれども、神さまが愛を注いでくださっているから大丈夫なのだ、失望することはない、このように言われているのです。
どんな人間でも、誇るような存在ではない。それは土の器だからだ。それと同時にどんな状況にあっても、失望することはない。それは神さまが命の息を吹き入れてくださっているからだ。これが、人間が土の器であることの意味です。誇ることなく、また卑下することもなく、どんなときにも神さまがくださる命の息によって生かされる、わたしはキリスト教の信仰をとおしてこのようなことを感じています。
そしてこのことは、聖霊降臨という出来事にあたっても、等しく考えることができます。主イエス・キリストの弟子たちは、まさに弱く脆い存在でした。福音書を読むと、弟子たちが主イエスによく従っていたとはとても言えず、かえって主イエスのことを誤解していたことがわかります。そんな彼らは主イエスが逮捕されると同時に、その場を逃げ出してしまいました。彼らは自分たちの先生が十字架にかけられたことに、落胆をしていました。また、マグダラのマリアたちが墓に行き、墓が空であると知らされ、主イエスが復活されたという知らせを聞いても、信じることができませんでした。そんな弟子たちが、それこそ嘘のように立ち直り、どんな迫害をも恐れずに福音を宣べ伝え始めたのは、まさに神さまの命の息である聖霊が彼らに与えられたからです。脆く弱い彼らであるけれども、神さまが愛を注いでくださっている。土の器であるけれども、神さまの命の息によって生かされている。それが聖書の語るところです。
聖霊という言葉自体は、新約聖書において初めて出てきます。しかし、神さまが霊の働きによってわたしたちを生かしてくださるという考え方は、旧約聖書にもしばしば書かれているところです。
旧約聖書外典と呼ばれる文書があり、新共同訳聖書では旧約続編となっていますが、エズラ書という文書の16章に次のように書かれています。「見よ、主は、人のすべての業と計画と思いと心とをご存じである。主が、『地は成れ』と言われると地が造られ、『天は成れ』と言われると天が造られた。主の言葉によって星の位置が定められた。主は星の数をご存じであり、深淵とその中の宝とをくまなく調べられ、海とその中のものを量っておられる。・・・主は荒れ野に泉を置かれ、山の頂に湖を置いて、高い所から川を流れさせて、地を潤すようにされた。主は人を造って、体の真ん中に心を置き、それに霊と命と知性と全能の神の息吹を送り込まれた。」このように、神の息吹がわたしたちに宿り、わたしたちは命を与えられている。これは旧約聖書の時代から、人々の共通の考え方でした。
もう少し例をあげます。旧約聖書の詩編33には、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」と歌われています。またヨブ記を読むと、ヨブが次のように言います。27章です。「神の息吹がまだわたしの鼻にあり、わたしの息がまだ残っているかぎりこの唇は決して不正を語らず、この舌は決して欺きを言わない、と。」 そしてまた、32章以降でエリフという人物が登場します。彼もまた同じことを言います。32章と33章に次のような言葉が出てきます。「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。」「神の霊がわたしを造り、全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。」
このほかにも、エゼキエル書37章に書かれている幻、枯れた骨がいっぱいにある谷間の幻で「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と書かれていることを思い起こします。これは、バビロン捕囚によって生きる力を失っていた人々を立ち上がらせる幻の言葉でした。
以上のように、神さまの息吹がわたしたちのうちに入れられて、わたしたちが生かされるという、旧約聖書以来の考え方を背景として知っていただくならば、今日読んでいただいた聖霊降臨の出来事も、その延長上にあることがよくわかっていただけると思います。読んでいただいた使徒言行録2章の出来事は、書かれていること自体はとても不思議なことであり、今日の科学的なものの考え方に慣れた人たちにとっては、超自然的現象と思えることでしょう。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」このように不思議な出来事として、聖霊降臨は描かれています。
けれども、描写の不思議さに躓かないようにしたいものです。申しましたように、神さまの霊は昔から風とか息と表現されてきました。それと同時に、例えば出エジプト記3章に、「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた」と記されており、神さまが炎のなかに現れたとあります。また、詩編29には、「主の御声は炎を裂いて走らせる」とあります。神さまという存在は、わたしたちの言葉で表現できるようなかたではありませんから、昔の人たちは、このように、風とか炎を神さまが現れる象徴としたのです。
ですから、ここで大事なことは、こんな不思議な超自然的現象があったのだということではありません。そうではなく、あんなに弱く脆かった弟子たちが、力強く主イエスのことを宣べ伝え始めたのは、彼らの力とか、彼らの能力とか、彼らが頑張ったからではない、それは神さまが働きかけてくださったからなのだと、そのことがここでは伝えられているのです。
この出来事を目撃した人たちは、驚き怪しみます。ここで興味を覚えるのは、目撃者たちが驚き怪しんだのは、激しい風とか炎のような舌といった超自然的現象ではないということです。そうではなく、6―7節をみると、「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」ということです。弟子たちが外国の言葉で話しはじめたというのです。これまた不思議なことです。若い頃のわたしは、聖霊を受ければ外国語が上手になるのかと、冗談半分でこの箇所を読んでいました。でも、ここで言われていることもまた、そんな問題ではありません。
なによりもまず言わなければならないことは、彼らが何を語ったかということです。それは11節に書かれています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
「神の偉大な業」。神さまは、その独り子をわたしたちにくださいました。主は十字架に掛けられ、わたしたちの重荷を、わたしたちの罪を赦してくださいました。そして、主を裏切ったわたしを、弱く、罪深いわたしを用いてくださいました。愚かなわたしが神さまに生かされている。土の器に過ぎないわたしが用いられている、その喜びが弟子たちによって、「神の偉大な業」として語られていったのです。
9節以下にはたくさんの地名が出てきます。外国に住んでいた、いわゆるディアスポラ、離散の民がエルサレム神殿に巡礼に来ていたのですが、それにしてもここには沢山の地名が出てきます。わたしが書くなら、地名は2つか3つで、「そのほかにもたくさんとありました」という程度の言い方をすると思います。なぜこんなに多くの地名をわざわざ書き記したのでしょうか。わたしの思うに、これはこれまでの、エルサレム神殿を中心とした宗教では、自分たちは選ばれ救われた民であるとする選民と、外国の人たちつまり異邦人とははっきりと分けられていたこととが関係あると思います。当時、異邦人と付き合うことは、汚れることと考えられていたのです。
ところが、弟子たちに与えられた神さまの息吹は、彼らを選民という狭い枠に閉じ込めておくことがありませんでした。神さまの福音をすべての人々に伝えることが弟子たちの大きな使命となったのです。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章で、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と述べていますが、まさにそのことが、弟子たちがたくさんの国の言葉で話し始めたということに表わされているのです。
この出来事はまた、昔から旧約聖書のバベルの塔の物語との関連で読まれています。人々が自分たちを神さまよりも大きなものにしようと、高い塔を建て、その高さを誇ったとき、塔は倒れ、人々は互いに言葉が通じなくなりました。同じ日本語を喋っていても、互いの心の通じないのがわたしたちの社会の現実です。自分を大きくしよう、自分を高くしようと考えたとき、心が通じなくなるのです。
しかし聖書は、神さまの息吹の働きのひとつとして、相手に通じる言葉を話すことをあげています。前に教会修養会講師として来てくださった越川弘英牧師は、「聖霊降臨と神の民」という説教集において、このことを述べ、「交わりの回復 〜 一人ひとりに届く言葉で」という題をつけておられました。そして、「福音宣教は、単に言葉を通してだけでなく、癒しを必要とする人には癒しを、食べ物を必要とする人には食べ物を、そして交わりを必要とする人には交わりを、というかたちで、具体的に多様なかたちで進められていったのではないでしょうか」と述べておられました。使徒言行録2章の記事だけで、そこまで読み込むのは難しいかも知れませんが、聖書全体が伝えることからすれば、越川牧師の言うとおりだと思います。
最初に申し上げたとおり、わたしたちは弱く脆い存在です。小さく欠け易い存在です。それにもかかわらず、自分勝手で、わがままで、自分を大きいもののように思い、あるいは自分を高く見せ、バベルの塔を作っています。そして互いの言葉が、互いの心が通じなくなっています。
大切なことは、神さまの息吹を受け入れることです。そのために、自己主張ばかりしているこのわたしを、神さまに明け渡し、わたしのなかを空っぽにすることです。そのとき、神さまの息が、風が、そして霊がわたしたちのうちに宿り、生き生きと働いてくれることでしょう。そのとき、交わりの回復が、一人ひとりに届く言葉として生まれるのではないでしょうか。
オカリナに風が吹き込まれて、聞いている人々に感動を与える。チェンバロの弦が掻き鳴らされ、共鳴版に響き、空気の振動が音となって伝わる。そして多くの人の心に感動を与えます。先日の祈祷会のあとの話し合いでも話題となったのですが、チャペルコンサートのあとのお茶の会で、オカリナを演奏されたかたが、「心のチューニング」という言葉を使われました。とても素晴らしい表現だと思いました。このように素晴らしい演奏をするのに、どれだけ練習をしているのか、肺活量とか、どのように整えているのかという質問に対して、それほど練習はしていない、むしろ心を調律することだと言われたのです。肺活量にしても、心に不安があるときは息が続かないと言われました。
今日最初に歌った讃美歌に、「神の霊よ、今くだり、わが心動かして、弱き身を強くなし、愛に歩ませたまえ」とありました。また次に歌った讃美歌では、「聖霊よ、降りて、弱きわれをも、聖なる力に富ませたまえ」とありました。このあとご一緒に歌う讃美歌には、「聖霊の神、きよき愛よ、くだりませ、わが心に」と歌われています。神さまの息吹はわたしたちの弱い心、欠けやすい土の器のなかに入ってきてくださいます。聖霊降臨日にあたり、神さまの風をいっぱいに受けたいと思います。そのために、心の窓を大きくあけていきたいと願います。そして心の調律を神さまにしていただきましょう。
(2007年 5月27日 礼拝説教)
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