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2007年4月 「生きておられる」 牧師 横野朝彦
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ルカ24・1―12
主のご復活をお慶び申し上げます。今日はイースター。主の甦りの朝です。週の初めの日、つまり日曜日の朝、明け方早くに、マグダラのマリアをはじめとする幾人かの女性たちが主イエスの墓に向かいます。土曜日は安息日ですから、一切の労働は禁じられ、長く歩くことさえ許されていませんでした。ルカ23章56節に、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」と書かれています。彼女たちは安息日をじっと過ごし、夜が明けてすぐに、まだ明け方暗いうちに墓へ出かけたのです。主イエスの顔を見たい、少しでも傍にいたいといった心からの気持ちとともに、おそらく死者を葬る当時の習慣なのでしょう、主の体に香料を塗り、丁寧な埋葬をしようとしたのでした。
そのときの彼女たちの気持ちがどんなであったかは想像にあまりあります。愛する先生が亡くなられた、それも十字架上で悲惨の死をとげられた、そのことを思うと、悲しみで胸が張り裂けそうであったことでしょう。嗚咽する人もいたでしょう、何かに向かって叫びたいような気持ちになった人もいたことでしょう。どん底に突き落とされたような心で、彼女たちは黙々と墓に向かって歩いていったのだと思います。ところが、墓についてみると、石が墓のわきに転がしてあります。主イエスの体が納められたのは、洞窟のようなところで、大きな石が扉のように置かれていました。その扉がなくなっており、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかったのです。彼女たちは途方に暮れてしまいます。今日お読みいただいた聖書の箇所は、以上のように、悲しみに暮れる女性たちが墓に行き、そこでさらに途方に暮れるということから書き始められています。
先週は、主イエス・キリストの十字架の死を覚える受難週でした。教会では毎朝祈祷会が行われました。洗足の木曜日の夜の祈祷会と、受難日にあたる金曜日の朝の祈祷会は、「十字架の道行き」という小冊子を読みかわし、主の十字架の意味を心に刻みました。そしてそのほかの日の朝には、山形謙二さんというお医者さんが書かれた「隠されたる神 ― 苦難の意味」という本を、拾い読みになりますが、毎回10ページ程度を朗読しました。この本をわたしは10数年前に読んだのですが、そのとき、ああ良い本だなとは思いましたが、それ以上ではありませんでした。ところが今回これを声に出して読んでみると、内容がとても心に響いてきました。
なぜ今回心に強く響いたのか。それは朗読ということのお蔭かもしれません。あるいは、これを心に響かせるわたし自身の心理状態のためかも知れません。しかしやはり、本そのものが良いのでしょう。著者の山形さんの主張というよりは、心が伝わってくる文章、文体で、祈祷会で朗読を聴いてくださったかたも、何かが響いてくださったと思え、感謝なことでした。祈祷会では、第1章の「隠されたる神」、第2章の「なぜ苦難が存在するか」、第3章の「苦難の意味」、第4章の「苦難を耐えさせる力」のそれぞれ一部を朗読しました。著者の山形さんはキリスト者として、信仰に基づいて述べておられます。しかし同時に山形さんはお医者さんですので、多くの患者さんと接する体験に裏打ちされたことが書かれています。死に直面した人やその家族の苦悩の深さに寄り添い、身をもって体験したうえで、それらを信仰的に受け止め、語っておられます。
わたしがこの本を読んで強く感じたことは、苦しみや痛みこそが人間を本当に育てるものだということでした。先天性無痛覚症という痛さを感じないという病気があり、その病気にかかっている人が示す症状を具体的に示し、人は痛みや苦しみを知ることによって初めて人間らしくなるのだと書かれていました。東大医学部の教授であった細川宏さんは44歳で癌のために亡くなられましたが、細川さんは病床で、「病苦は、人の心を耕す『すき』である」と詩を書かれました。痛み苦しみを知る者こそが、人間の真実にふれることができるというのです。
そしてこのような痛み苦しみのなかでこそ、わたしたちは神がわたしたちと共にいてくださることを知ることができるのであり、神さまが備えてくださる逃れの道を見いだすことができます。山形さんは聖書の言葉を引用しながら、次のように書いておられます。「救い主イエス・キリストは今日も私たち一人一人に『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』と呼びかけておられる。私たちは決して一人で苦しみに耐えるのではない。インマヌエルなる神は、耐えられるだけの力と支えと慰めを与えてくださるばかりではなく、共にいまして、その苦しみを担ってくださるのである。故にダビデは『日々にわれらの荷を担われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである』と言うのである。」
山形さんは、以上のように苦しみの意味を宣べ、苦しみに耐えさせる力、それは神さまがわたしたちの重荷を共に担ってくださることにあると結論づけられます。「私たちが悩み苦しむ時、神さまは私たちを決して一人放っておかれるのではない、神御自ら、私たちと共におられて、共に苦しまれる」、それがこの本の主張であるとわたしは読みました。そして山形さんは最後に、天国への希望について書かれます。亡くなられた鈴木正久牧師の、「私は『死を待つ』のではなく、『キリストの日』に向かって歩みを進めているのです」という言葉を引用しておられるのが印象に強く残りました。
今日は復活日であるというのに、わたしは今、苦難の意味について長く語りすぎているのかも知れません。わたしが申し上げたいことは、苦しみを経なければわからないことがあるということです。そしてそのことは、復活ということを考えるにあたってもそのとおりだと思います。復活、それは実に不思議な出来事であり、科学という観点からすれば理解できない事柄です。しかし人間は苦しみのなかでこそ復活の希望を持つことができるのであり、復活の主イエス・キリストと出会うことができるのです。
マグダラのマリアたちは、そのようにして復活の主に出会うことができました。悲しみで胸が張り裂けそうな、そのようななかで彼女たちは主の復活の知らせを聞いたのです。墓に出かけた彼女たちに、神さまの使いは言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」神さまの使いは、彼女たちに悲しみのなかに留まり続けるのではなく、心をその彼方に向けなさいと教えます。それは悲しみの彼方にある希望、苦しみの彼方にある喜び、死の彼方にある命です。
さてここで、今日読んでいただいた聖書の箇所、そして主の復活について考えていきたいと思います。
主イエス・キリストは甦られました。そのことは聖書が一貫して証言しているところです。福音書によれば、安息日が終わって朝早く、つまり日曜日の朝早くに女性たちが墓に出かけたこと、すると墓が空であったことを述べています。4つの福音書によってそれぞれ報告が少しずつ異なり、マタイによる福音書ではマグダラのマリアたちが墓に行ったところ、大きな地震が起こり、墓をふさいでいた石がわきへ転がったとあります。マルコによる福音書や今日読んでいただいたルカによる福音書によると、彼女たちが墓に着いたとき、すでに石はわきへ転がしてあったと書かれています。マタイやマルコはマグダラのマリアの名前が出てきますが、ルカでは「婦人たち」と書かれているだけで、名前までは書かれていません。このように報告の記事は少しずつ異なります。そういったことはあまり大きな違いではありません。何か事件が起きたときでも、いくつかの新聞を読み比べてみると、書いてあることが違っていることがあります。事件を目撃した人、それを伝えた人、それを聞いた人によって、言うことに違いが出るのは当然のです。ですから、福音書によって報告内容に違いがあるのは、かえって出来事の臨場感のあらわれではないでしょうか。
その場に誰が行ったかとか、石はあらかじめ転がしてあったかどうかなどは、たいした違いではありません。わたしが今日読んでいただいたルカによる福音書から気づいたことは、ルカが、そのような事実関係の違いというのではなく、むしろルカがこの出来事をとおして感じたことが書き表されているということです。墓が空であることに途方に暮れていた女性たちに、輝く衣を着た二人の人があらわれ、これは神さまの使いなのでしょう。彼らは言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」このような神さまの使いの言葉は、ほかの福音書には書かれていません。
これは簡単な表現ではありますが、大切なことが言われているとわたしは思います。ここには信仰の告白とでも言うべきメッセージがあります。二つのメッセージがあります。第一は、わたしが何よりも興味を持つ点でありますが、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」という言葉です。ここにはわたしたちが何を見ているのか、何に心を向けているのかを問いただしています。第二は、これらのことは、主イエス・キリストがガリラヤにおられたころ、あなたがたに話して聞かせたではないかということです。すなわち、主イエス・キリストがガリラヤの湖の畔で語られたこと、なさったことを思い起こさせようとしています。他の福音書、マタイやマルコでも、御使いは「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と言っていますので、意味内容は似てはいます。しかしルカでは、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と言われることによって、よりはっきりと、主イエスが語られた言葉を思い起こさせようとしています。
来週の礼拝ではルカ24章13節以下をご一緒に読みます。ここにはエマオ途上の弟子たちに復活の主が現れてくださったと報告されています。今日の週報の表紙は、エマオ途上の弟子たちに主が共に歩いてくださり、語ってくださった、その情景が描かれている絵です。このとき、弟子たちは復活の主から多くの話を聞くのですが、そのときの主は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と語られ、モーセとすべての預言者から初めて、聖書全体について書かれていることを説明されたのでした。さらにその後、弟子たちは「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合っています。
これらのことから、福音書記者ルカがわたしたちに伝えようとしていることがわかります。ルカは復活の出来事を伝えようとしている、それはそのとおりなのですが、それだけではありません。それは、復活があるとき突然におこった出来事なのではなく、主イエス・キリストによって教えられていたことだということであり、それはまた聖書が証言していることだということです。主イエス・キリストの死と復活は主イエス・キリストによってあらかじめ語られていました。そしてそれは主イエスによって語られただけではなく、聖書をとおして証しされていた出来事でした。そして更に言えば、このことをわたしたちが語り合うとき、そして聖書を読んでいくとき、わたしたちの心が燃える出来事だということです。
今日の箇所で、神さまの使いは、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」と言っています。主イエス・キリストがガリラヤにおられたころお話になったこと。そしてなさったこと。まず山上の説教において主は教えられました。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
主イエスはまた、譬話によって、天の国はこのようなものだと多く語られました。誰にも雇ってもらえなかった人が5時から雇われ、ほんの僅かしか働かなかったのに一日の給与が与えられた人の話、失われた一匹の羊が捜し求められた話、放蕩にあけくれていた息子が帰ってきたときに父親が「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜びの声をあげた話。あるいは世間から捨てられ、村八分にされていた人、汚れているとされていた人に向かって主が「あなたの信仰があなたを救った」と、救いの宣言をされた出来事。これらの言葉や出来事は、主が悩める者の重荷を共に担われ、新しい命に生きるようにしてくださったことを証ししています。
主イエスはまた、「わたしは命のパンである」と言われ、「このパンを食べる者は永遠に生きる」と教えられました。さらに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と教えられました。そしてまた、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。・・今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」主イエスはこのように教えられました。ご自分が十字架の死によって世を去らねばならないこと、しかしその彼方に復活の栄光があることを、さまざまな形で主は語られ、人々を励まされました。そしてまた、この世にあって悩み苦しみ、悲しみを抱いている者こそ、主が共にいてくださることを知ることができるのであり、主が与えてくださる命の希望を抱くことができると教えてくださったのです。
マグダラのマリアたちに現れた神さまの使いは、主は復活されたと告げただけではなく、これらのことを主が語ってくださっていたことを彼女たちに思い出させようとします。今日の箇所では、彼女たちは復活の主にまだ出会ってはいません。ただ、8節に「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とあるだけです。彼女たちは墓から帰って、主の復活を他の弟子たちに告げました。そしてその知らせを聞いた弟子たちもまたすぐさまそれを信じたのではありません。エマオ途上の弟子たちに主が現れてくださり、聖書を説き明かしてくださることによって彼らは復活の主に出会うことができました。復活は、墓が空になっているのを見て信じる出来事ではありません。あるいは、幽霊を見るというか、超自然的なものを見て信じることでもありません。そうではなく、主イエス・キリストがわたしたちに語ってくださった言葉、わたしたちにどのように愛の手を伸べてくださったか、その愛の出来事に触れることによって、信じることのできるものです。
またその意味で、復活は過去に起こった出来事ではなく、現在のわたしたちの心を燃やす出来事、現在の出来事です。それは、聖書に親しみ、教会で聖書が語られるとき、現在のわたしたちに起こる出来事です。今日のわたしたちもまた、聖書の御言葉に聴くことによって、復活の主に出会うことができます。そしてそれはとりわけ、この世にあって悩み苦しむ者にとってこそ福音であり、悲しむ者にとってこそ喜びであり、死の恐ろしさを知る者にとってこそ味わうことのできる永遠の命の喜びなのです。
山形謙二先生の「隠されたる神 ― 苦難の意味」の最後のページから引用して今日のメッセージを終えることにします。「キリストの十字架の死と復活により、私たちはこの『苦難の問題』は過ぎ行くこの世に属するものであり、決して永遠には続かないことを知っている。イエス・キリストは2000年の歳月を超えて、私たち一人一人に向かって次のように語りかけておられる。『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。』
(2007年 4月 8日 礼拝説教)
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