番町教会説教通信(全文)
2007年3月 「栄光に輝く」                牧師 横野朝彦


ルカ9・28―36

主イエス・キリストという言い方、言葉の使い方をします。これは一つの名前ではありません。名前はイエスです。苗字はありません。マタイによる福音書の冒頭にあるように、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブという言い方がされます。何々家という考え方はないのです。イエスとはギリシャ語でイエスース、ヘブライ語ではヨシュア、「神は救い」という意味です。その当時、比較的よくあった名前、言ってしまえば、ありふれた名前だそうです。しかし、ここに主という言葉が付き、またキリストという言葉が付き、主イエス・キリストと呼ばれます。

主イエス、この言葉をわたしはよく用いています。礼拝説教において、イエスを呼び表すとき、わたしは大抵「主イエス」と言うようにしています。歴史上の人物を言うときには、呼び捨てにするのが一般的な言葉の使いかたです。礼拝説教においても、牧師によっては「イエス」とだけ言われますが、わたしはどうも呼び捨てにするようでためらいを覚えます。また、牧師によっては、「イエスさま」という言い方をされるかたも少なくありません。わたしも時々使います。しかしわたしは「主イエス」というのが一番多いようです。主イエス、つまりこの言葉には、イエスはわたしの主である、という信仰の告白があるからです。

イエス・キリスト、この言葉は、主イエスがイエスは主であるというのと同じように、イエスはキリストであるという信仰の告白があります。キリスト、これはメシア、つまり救い主という意味です。ですから、主イエス・キリストとは、イエスは主であり救い主であるという信仰の告白なのです。なおわたしも、聖書学という学問上のことで話をするときは、「イエス」とだけ言います。またこのような使い分けを不十分なまま用いていることもあろうと思います。

イエスとは誰か。このようなタイトルの本が出版されています。この問いは、現代の人々にとっても大きな謎であると思います。イエスというかたが、2000年前におられたことは、誰も否定できない歴史的な事実です。しかしこのかたが当時の人々の心を揺り動かしたこと、十字架上のイエスを目撃したローマの百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と告白したこと、そして今に至るまで、このかたこそ主である、このかたこそキリストであると告白されていることは、信仰の有無にかかわらず、大きな謎というべきです。

先日、あるかたが話しておられましたが、イエスについての本を書くと、確実に売れる、それだけ人々は関心を持っているということでした。教会近くの四番町図書館に行くと、聖書やキリスト教に関する本がわりとたくさんあり、結構難しい本がよく借り出され、手垢のついた様子を見ることができます。イエスとは誰か、これは多くの人の関心事です。

そしてこのことは、主イエスがこの世に来られたその時から、ずっと、人々にとって謎でありました。ルカによる福音書を開いてみると、4章で、「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』」と書かれています。7章には、「同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた」と書かれています。8章には、「弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った」と書かれています。さらに9章には王ヘロデが、「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」と言っています。まさに、イエスとは何者かが、主イエスの生きられた時代からずっと大きな問いであり、謎だったのです。

今日読んでいただいた聖書の箇所の少し前、ルカ9章18節以下で、主イエスは弟子たちに尋ねておられます。〔イエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」〕

このような応答があり、主イエスが「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたときに、ペトロが答えて「神からのメシアです」と言うのです。わたしが申し上げたいことは、要するに主イエスがこの地上におられたときから、イエスとは誰かが人々の関心の的になっていた、人々の興味関心となっていたということです。そしてこのイエスとは誰かが、今日に至るまで、ずっとわたしたちの間で疑問となってきたのです。

以上のように、今日のわたしたちだけではなく、主イエスに出会った人たちもまた、このかたはいったいどなたなのだろう、と考えてきました。そしてその一つの結論が、9章20節でペトロが答えているように、「神からのメシアです」というものです。このかたこそ救い主だ、このかたこそわたしたちの主である、イエスとは主イエス・キリストである、これが一つの結論であり、教会はこのことを信仰として告白をしてきました。

ルカによる福音書を読むと、今紹介したのが9章18―20節でした。新共同訳聖書では「ペトロ、信仰を言い表わす」と見出しが付いています。そして次の段落21―27節は、「イエス、死と復活を予告する」という出来事です。これは先週の礼拝でご一緒に読んだ箇所です。そしてその次に書かれているのが、今日読んでいただいた28―36節であり、ここには「イエスの姿が変わる」という出来事が書かれています。主イエスが山の上に登られ、そこで主イエスの姿が変わったというのです。この出来事は「山上の変貌」とか「山上の変容」と呼ばれてきました。29節にあるように、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というのです。これは不思議な話です。

不思議であり、難しい話です。でも、信仰という観点からすれば、それほど不思議ではないのかも知れません。わたしたち、立派な人格のかたと出会うと、それだけで圧倒されるような気持ちになります。信仰という観点からすれば、イエスさまは神の子なのですから、神々しく輝いて当たり前ではないか、そのように言うことができます。イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたというのは、まさにそのような神々しさの表現なのでしょう。

山の上にはペトロ、ヨハネ、ヤコブも一緒に行ったようですが、彼らが見ると、二人の人が主イエスと語り合っています。二人は、旧約聖書に登場する重要な人物、モーセとエリヤです。二人とも栄光に包まれて現れたと31節に書かれています。そして32節には「栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人」と表現されています。モーセもエリヤも栄光に包まれているのですが、そのなかでも白く輝くイエスは特別で、まさに栄光に輝いていたのです。

これはまさに、イエスとは誰かということへの一つの答、信仰の告白です。モーセとは出エジプトの指導者です。そしてシナイ山の上で神さまから律法を授かった人です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つをモーセ五書と言います。モーセは律法を代表しています。エリヤは旧約聖書列王記に登場する預言者です。そして預言者を代表する人と言ってもよさそうです。先ほど読んだように、ルカ9章19節で、主イエスについて「『エリヤだ』という人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」と書かれていました。エリヤは人々の尊敬を集めていた旧約の預言者でした。

つまり、モーセは律法、エリヤは預言者を代表しています。マタイ5章で主イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言っておられます。またマタイ7章では、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と教えられておられます。つまり、ここで律法と預言者とは、旧約聖書全体のことなのです。ヨハネ1章でも、フィリポがナタナエルに出会ったときに、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言っています。イエスとは、律法と預言者によって証しされ、預言されてきたかたなのだというのです。

山の上ということから思い起こすのは、モーセが山に登り、そこで神さまと出会ったという出来事です。出エジプト記33章には、「主の栄光」という記事があります。そして34章でモーセは山から降りてくるのですが、そのときのことがこう書かれています。「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」

 主イエスの山上の変貌、あるいは山上の変容は、出来事自体は不思議な話でありますが、以上のように旧約聖書との関連でこれを読むならば、このかたこそ旧約聖書の時代から証しされ、預言されてきた神の子であるという信仰告白なのだとわかります。しかし、今日の話は、主イエスが神々しく輝いた、ただそれだけの話ではありません。それだけではない、大切なメッセージがあります。そのことを話す前に、少し話題を変えてみようと思います。

 「銀河鉄道の夜」という宮沢賢治さんの名作があります。宮沢賢治の代表作と言ってもよいでしょう。名前は誰でも知っている小説です。でも実際には読めば読むほど難しい小説だと思います。わたしも自分が理解しているとはとても思えません。自分の読み方に自信がありませんが、少し引用させてください。

ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道に乗り、幻想的な旅をします。「銀河鉄道の夜」の第7章は「北十字とプリオシン海岸」という話です。この第7章はカムパネルラの独り言から話が始まります。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、せきこんで言います。「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」

「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」そしてこのときカムパネルラは、なにかを決心したのです。そしてそのとき、列車のなかが白く輝きます。ダイヤモンドのような河床の流れの上に、青白く後光のさした島があり、そこには白い十字架が立っており、金色の円の光をいだいています。「『ハルレヤ、ハルレヤ。』前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈っているのでした。」

 列車にはまた、男の子と女の子が青年に連れられて乗っています。第9章です。この子たちは船に乗っているときに、船が氷山にぶつかったのです。青年は彼らの家庭教師でした。二人を助けようと必死に努力しますが、救命ボートにはすでに沢山の小さな子どもたちが乗っています。ボートに乗るためには、すでに乗っている子たちを押しのける必要がありました。青年が言います。「わたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。」青年はこのようにして、二人の子を天国に送り届けようとしていました。銀河鉄道の幻想的な旅、それは天国への旅、神さまのもとへ行く旅なのです。

 列車のなかで青年は言います。「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」「ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。」「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。」

 物語の最後で、ジョバンニはカムパネルラがいなくなったのに気づきます。そしてそこでジョバンニは現実の世界に引き戻されるのです。銀河鉄道の旅は終わり、場所は川にかかった橋のたもとです。橋の上は人がいっぱいで、警察官も出ています。「何かあったのですか」、ジョバンニが尋ねると、「こどもが水に落ちたんですよ」という答が返ってきました。友だちのひとりザネリが舟から落ちてしまった、それを助けようとカムパネルラが川に飛び込んだのです。ザネリは助かりました。でも、カムパネルラが行方不明になってしまったのです。銀河鉄道の夜、これはカムパネルラが友だちを助けるために犠牲の死をとげるに至るまでの物語です。死への旅の途中で、彼らは十字架を見たり、また白く輝く世界を見て、ハレルヤという賛美を聞いたのでした。そしてわたしがもっとも興味を覚えるのは、カムパネルラがつぶやいた「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」というひとことです。何を赦して欲しいと言っているのか、彼の死への決意のことか、それとも別のことか。またここでいうおっかさんが、誰を意味しているのか、彼のお母さんのことなのか、それとも神さまのような存在を意味しているのか、あるいはまったく別のものなのか、興味深いところです。白石秀人さんという心理学者は、「カムパネルラの決意には、その罪に殉じ、十字架に処せられることも辞さない、思い詰めたものが伺えます」と言っておられます。

 話を聖書に戻します。主イエス・キリストは山に登り、そこで顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたということです。また32節には「栄光に輝くイエス」と書かれています。しかしこの話は、主イエスがただ神々しく輝いたという話ではありません。モーセとエリヤが現れますが、そこで彼らは、31節に書かれているように、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」のです。この最期という言葉は、エクソドス、出エジプトを意味する出発という言葉です。そしてエルサレムで遂げられる最期とは、読んでいただいた直前の21―27節、先週の箇所、「イエス、死と復活を予告する」ということです。つまり主イエス・キリストが十字架にかけられ、人々の贖いとなられる、それは旧約聖書の律法、預言者によって証しされてきたことであると、そのことが明らかにされ、そこで主イエスは栄光に輝いた、それが今日の箇所の語っているところなのです。

 銀河鉄道でハレルヤと歌われ、また十字架や周囲が光輝いたのは、ただ天国が光っていたという話ではありません。カムパネルラが何かを決心したときに列車の中が白く輝いた、つまり、カムパネルラの犠牲の死に至る道が光輝いたということです。主イエスの山上の変貌、山上の変容もまた、ただ姿が変わったという不思議な話を伝えようとしているのではなく、主イエスの十字架の死と復活、そこにこそ神さまの栄光が現されているとのメッセージであり、信仰告白なのです。もう一度、最期という言葉について申しますが、それは終わりを意味するのではありません。主の十字架のかなたには復活がありました。むしろここから新しい世界が始まる、ここに新しい出エジプトの救いの出来事が始まるという意味なのです。

 イエスとは誰かという、大きな問いに答えて、イエスこそ十字架と復活によって栄光を輝かせるかたであると言い表わしたのが、今日の聖書の箇所です。そして35節で、天からの声がします。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」このかたこそ神の子、救い主キリストであることが宣言をされています。

(2007年 3月18日 礼拝説教)